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滑るように走る馬車は、前世の車とまではいかなくても乗り心地が良く、スピードも速い。
さすがはお伽噺の世界で、タクシー代わりの辻馬車に使われている馬は、風の精霊馬との交配種なのだ。一種の妖精とも言える。
風の精霊の血を引いているから重労働には向いていないけれど、スピードはあるのでこういった人や物の輸送に使われることが多い。馬車自体も、車体や車輪に魔術が使われていたはず。
なので、特にお尻を痛めることもなく、二十分程度で目的の住宅街に着いた。
「はい、到着だ」
「どうもありがとうございました。お代はおいくらでしょう?」
「細かいのは面倒だから、銀貨一枚で結構だよ」
「さすがにそこまでしていただくわけにはいきません」
「いやいや、こっちは美人を乗せられて金まで貰えるんだ、これ以上取るとばちが当たるってものさ」
一瞬の隙に掠めるようにヴィオレッタの手の甲にキスすると、御者は馬車を駆って去っていった。
まあ、欧米文化......。
結局、銀貨一枚しか受け取られなかった。
......若いって本当に便利ねえ。
着いた場所は本当に静かな佇まいの住宅街で、木とレンガと漆喰で組まれた大きめの民家ばかりが並んでいる。
同じような二、三階建ての家々の上に、教会の尖塔や、役所らしきレンガ作りの建物だけが一定の距離感で聳えていた。
これはある意味でわかりやすい。
目立つ建物を目印にして、その周辺から回っていけばいい。
家々をひとつひとつ軽く確かめていきながら、ヴィオレッタは歩き始めた。
元王都の中心なだけあって、民家の立ち並ぶ地帯にしては道幅も広い。今はもうほとんど使われなくても、昔の馬車が通ることを前提に道が作られたのだろう。
たまに通り抜ける公園もかなりの広さがあり、これも栄えていたころの名残りなのだろう、豪華な造りの噴水がよくあった。魔術仕掛けで人を感知して水を噴き出すものもあって、そのときには、美しい水の芸術をヴィオレッタも楽しませてもらった。
たまに目印とした教会に立ち寄りながら、ヴィオレッタはほとんど昼下がりの散策をしている気分だった。
教会も、石積みのもの、木造のもの、古いもの、新しいもの、様々だ。
道沿いの家並みも小奇麗で、まるでフランスかどこかの町を歩いているよう。
少しずつ探す範囲を移動させていきながら、ヴィオレッタはとうとうそれらしい家に辿り着いた。
通り過ぎる家々が揃って重たげな木の扉をしている中、たった一つの家だけ、その重厚な扉に大きな彫刻があるのだ。
それが装飾的なものだったのなら、おかしな点はなかっただろう。ただ明らかに、遠目に見ても、彫刻が職人芸だとはとても言えない。
まるで子供がお気に入りの木に絵を刻むように、大胆に磨かれた木面が削られている。
「まあ......」
不思議に思って近づいたヴィオレッタは、思わず笑いそうになって、咄嗟に口元を手で覆ってしまった。
(こんなにわかりやすい目印もないわ。)
迷いのない彫り跡はたしかに、職人芸とは言えなくても、上手いものだった。
躊躇なく真っ直ぐ線が引かれ、節くれだった木の枝を形作る。そしてその頂点にはドアノッカーの、輪と打ち合わせて音を出す、扉に嵌め込まれた丸い石がある。
ちょうどまさに、昔ながらの魔法使いが持つ、魔法石が頂点に嵌め込まれた立派な杖だった。
この国では今どきほとんど誰も手にしないような、大がかり儀式魔法のみで見るくらいの、絵本の中の魔法使いの代名詞のような魔法の杖。
ご丁寧なことに、魔法石代わりのドアノッカーの石は、まさしく魔法石のように輝いている。砕いた魔法石を多量に含んだペンキでコーティングしたのだろう。ドアノッカーを叩くように指を近付ければ、かすかに魔力を感じる。
明らかに、ここの主人は魔法に秀でているのだとわかる。
よく見ると削った溝にもコーティングがしてあって、透明なツヤの中に魔法石の輝きが見えた。
きっと夜には、魔法の杖の形に光るのだろう。昼夜を問わず目印になる。
もっと、装飾的な旗や、石碑や、金文字の刻印といった、もったいぶったものを想像していた。
きっとこれを手ずから刻んだのだろう将来の夫が、どんな人間なのか初めて気になった。
微笑んでドアノッカーを叩く。
「もしもし」
「......あら?」
返事がない。
「ごめんください。......もしもし? 誰もいらっしゃらないのかしら」
やはり返事がないので、玄関から門までを往復してみたり、失礼ながら少し背伸びをして庭に続くだろう方向を覗いてみたりもしたけれど、人がいる気配はない。
想定していた以上に周囲の民家とも代わり映えがなかったし、もちろん使用人がいる様子もなかった。
外に置いてあった男物の一足分の長靴や、バケツから見ても、住人は一人しかいないようだ。
ということはつまり、そのたった一人の住人がいないのなら、今誰もここにはいないということ。
「まあ、お留守......今日嫁ぐという話は聞いていなかったのかしら...いきなりの話だったものねえ」
いきなりどころかついさっき婚約破棄を叩きつけられたくらいなのだが、それでもどこか釈然としない。
ヴィオレッタはともかく、レイモンド殿下の方はあらかじめご理解していたようだから、嫁ぎ先にも先に通達が行っていておかしくはないはずだ。
「仕方がないわねえ......」
ヴィオレッタは、この王国の第二王子の婚約者をしている間に知った、裏技を使うことにした。
扉に掌を押し当てる。
「王家の勅命によりこの家の女主人と任ぜられたヴィオレッタは、扉が開かれることを要求する」
一般的な家では壁に近い脇にあるはずの、扉の中央にある鍵穴。
そこから、カチリ、カチリ、と音がする。カチカチカチカチ、と一気に歯車が回るような音がして、扉全体に振動が走る。なるほど魔法使いの家らしく、きっと魔法の鍵なのだろう。
『これ』がよく効くはずだ。
大気に魔力が満ちるこの世界において、国全体を支配する王族の命は、それだけでひとつの魔法の言葉になる。
だからこそきっとこの世界の王族は前の世界より重んじられているのだし、その言葉に責任を持たねばならない。
ただやっぱり、そんなことが知られると、どれだけ気をつけても口にした言葉は悪用されかねない。
ちょうど今ヴィオレッタが、この家に「嫁ぐために来た」ことを、この家の「女主人となった」とすり替えたように。
本当はこの家の主人の名前も使った方がいいけれど、殿下からの文書に載っていなかったのだから仕方がない。
もちろんいろいろと制約も多いからそう簡単には悪用できないけれど、それでも王家の言葉がその国で力を持つことは、あまり公の知識にならない方がいい。ヴィオレッタが知ったのはたまたまだ。
他の王国もたぶんそうだろうけれど、口にしないのが暗黙の了解なのでしょうね。諸刃の剣になりかねないもの。
それはそれとして、今日は特別ということで使わせてもらった。
少ない情報でここまで殿下の命を果たしてきたのだから、これくらい許してほしいわねえ。
扉が開け放たれる。
「お邪魔させていただきますね」
足を踏み入れ、とりあえず振り返ってきちんと扉を施錠する。
そして待った。
そして、残された伝言魔法は展開されなかった。来訪者を警告する魔法が発動することも、実は中に人がいた、なんてこともない。
靴を清める魔法は発動したようだ。
「まあ。どうしましょうかしら」
せめて、書置きか何かでもないものかと思っていた。
あれだけ大々的に次の嫁ぎ先をおっしゃったのだから、もうお相手の方も手筈は整っているものと思っていた。それで婚約破棄もあの場でされたのだと。
そうでなくとも、殿下はわたくしがお相手の方と結ばれることを望んでいらっしゃるご様子だったし、わざわざ──用意された書類は少々簡素でも──調べてもおられたようでもあるのだし...。
でもよく考えればお相手は平民なのだから、日中は外出されていても不思議ではない。普通ならば働きに出ている時間帯だろう。
一般的な家にはもちろん、不在時に来客を持て成す使用人なんているはずがない。
すべてを格式ばった書面の誓約で済ませる貴族とは違うのだから、お相手の方が帰宅されたときに改めて、顔を合わせて話し合いをするつもりであっても不思議ではなかった。
とりわけヴィオレッタは今や、ロラン様の言ったとおりの「ただのヴィオレッタ」。家の結びつきもないこの婚姻では、それほどの損得勘定もない。たしかに口頭で十分だろう。
そういうわけで、ヴィオレッタはさほど気分を害することもなく、家の中に踏み込むことを決めた。
勝手ながら中で待たせてもらおうと思ったのだ。
何もわからない子供のように、所在なく玄関先で立ち尽くしている気はない。これから帰ってくる夫君にとっても、玄関にずっと立ったままでいられるのは迷惑だろう。
どちらにせよ、どれほど格式高く行おうと、簡略化しようと、この婚姻が揺らぐことはないのだ。
殿下ご自身と誓約を結んでいた以前とは違う。この結婚は、殿下によって宣言された。王族の言葉により、彼らが治める地に住む者、二人の平民に対して誓約が成されたのだ。
王族の言葉とは、それほどの力を持っている。
それを抜きにしても、王家の印付きの結婚証明書まで発行されてしまっている。婚姻届なんて、もうとうに提出されているのでしょうねえ。
この時点ですでにいろいろなことが簡略化されていることですし、お相手の方も許してくださることでしょう。
ところで家を見たら孫がいるかどうかわからないかしら。