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戻ってきた桜並木から出口へ歩きながら、ヴィオレッタが次に取り掛かるのは嫁ぎ先の確認だった。
ご年齢やご収入などももちろん大事だけれど、殿下はそれ以上に大事なことを伝え忘れていらした。そもそもお家はどちらなのかしら。
うっかりなのはよろしいけれど、公務にだけは差し障りないようにしていただきたいわねえ。あと数年も経つと、実際に国政に関わられることも増えるでしょうし。
わたくしはもうお小言を言う立場ではないから、お一人で頑張ってほしいわ。いえいえ、もしかしたらマリアンさんも一緒かもしれない。青春ねえ…。
もはやヴィオレッタに関係のない先行きに思いを巡らせつつ。手がかりを探そうと書類を取り出す。
一応、王家の印が見えたからと人目に触れないようにしたのだけど。そうするまでもないほど簡素な内容だった。
そこにあるのは書類三枚。
一枚はただ、レイモンド・ロジェ=ラコンテ第二王子とヴィオレッタ・メイユール公爵令嬢の婚約を破棄するとの宣言が記されたもの。
もう一枚は、メイユール公爵家からの絶縁状。
そして三枚目が、どうやらヴィオレッタの結婚証明書だった。
これもまた簡素な内容だ。王家の印と承認の言葉のみで成り立っていると言っても過言ではない。お相手のお名前さえも書かれていらっしゃらないのだし。
書類に使われている紙も、三枚とも王宮で通常の事務処理に使われるようなもの。
はっきり言って、結婚の文書など何も知らない人間が、見様見真似で作ったと言われた方が納得できるほど。王家の印があまりにも似つかわしくない。
(……学生が用意したにしても、もう少し頑張れたのではないかしら…。)
まあいいとしましょう。
幸いなことに、夫側の証明として押されている印で、どうにか場所は特定できそうだった。
押されているのは平民印。
平民印は、書類上において、爵位を持たない者が使用する印だ。
貴族であれば、証明の印として家紋を使えるだろう。けれど平民だとだとそうはいかない。
だからその代替えとして、それぞれの住んでいる地区ごとに押される定式の印がある。それが平民印。前世の郵便印に似ているかしら。
そんなものだから、出身地が同じ人間が同じ印を使うのがざらだ。あくまでも形式上の家紋の代替えに過ぎず、しかも貴族と平民が同じ書面で契約を交わすときくらいにしか使われないのだから。
貴族同士では家紋で、平民同士では直筆のサインでそれぞれ事足りる。
他の貴族が治める領地だったら、その領地ごとの紋とあとざっくりした村や町くらいしか印に含まれていない。
でも押されているのは王都の印だった。そのため、街の区分けの複雑さと人口の多さから、識別のためにもう少し情報が詳しく載ってる。
(王城から少し北の、旧市街の地域ね。たしかここは住宅街だったかしら......あまり覚えのない場所だわ。)
記憶の地図を辿りながら、印が見やすいように紙を折り曲げていく。
最初の二枚は現時点であまり役に立たないので、僭越ながら小さく畳んで仕舞わせてもらった。髪留めのピンを一本引き抜き、それで折った紙ごとスカーフの隅にブローチのように留めたのだ。ドレスにポケットが付いていないのが残念なところ。
スカーフは元通りに肩にかける。
さらに幸運なことに、この印は一般的な王都の平民印のよりわかりやすい。
一定の功績を挙げた者に使用される場合、他の平民印が押された書類と区別がつくように、印の文様が少し変えてあるのだ。印章の輪郭の円が二重になっている程度だけれど、それでも違いがある。
(成り上がり......というのは、あながち間違いではなかったみたいねえ。)
単に富を持っているだけならば、貴族籍を購入したり、発注して自分の家紋印を作らせたりするのがざらだった。
現にサフィール商家がその良い例だ。あそこは平民だけれど、商標としても使われている家紋がある。
特殊な平民印は、富だけでなく名声の証。
これはなかなか良い目印になる。
そのような功績を挙げている平民は、小さな旗だったり、何か目印になるものを家に備えていることが多い。
貴族がその秀でた技能を見込んで依頼に訪れたら、他の家々と見分けがつかなくて結局会えませんでした、なんてことが大いにあり得るのだ。長時間家のまわりを大きな馬車にうろうろされるのも、迷惑な話なのだろう。
なぜヴィオレッタがそこまで詳しいかというと、未来の王子妃として慈善活動を行うときに、民間と提携することもあるからだ。
そのためにヴィオレッタはひととおり、こういった知識を頭に入れていた。
流石にこのように役に立つとは思わなかったけれども。
旧市街区の、目印のある家。あたり一帯は閑静な住宅街。
これだけでもう、かなり絞り込めるのではないかしら。最寄りの教会に行ってお尋ねすれば、暗くならないうちに辿り着けるかもしれない。
旧市街に行くには辻馬車を拾えばいい。今は手持ちの現金がないけれど、装飾品のひとつでも換金すればすぐに解決するものね。
王家の予算がたっぷりと使われた「身一つ」だなんて、本当に太っ腹だわねえ...。
さっそくヴィオレッタは、学園からすぐ近くの学生街に近づいていく。少し歩けばもう、華やかな通りが目に見えた。
学生寮もあり、若者の多い地域で、若者をターゲットにした商店が立ち並ぶのは当たり前の話だ。その若者たちに富裕層が多いとなればなおのことだ。
案外、この学生街には貴金属の売買を専門とする店が多い。貴族生まれの学生が、飲食店や雑貨屋での買い物を楽しむために、私物のアクセサリーを現金に換えるのはよくあることなのだ。
ヴィオレッタもすぐに店を見つけられた。
「こちらの買い取りをお願いいたします。あと、こちらも」
カウンターの女店主に、髪から抜き取ったピンを渡す。もう一つは折りたたんだ紙を留めていたものだ。今日は結い髪ではないからこの二本しか無いけれど、これで十分でしょう。
金色のピンに据えられた宝石がきらりと光った。
ねじって留めていた髪が頬に落ちてきて、ヴィオレッタは耳にかける。
「はい、どうもね。これだと金貨六枚、あと銀貨四枚はいきますでしょうね」
女店主は秤やらの器具を取り出しながら、小さな拡大鏡を目に当て、ベルベット敷きのトレイの上でピンを見る。
「使われている宝石は王家や高位の貴族に使われることが多いものですね。魔力が籠めやすい。土台の本物の金の配分も結構なものです」
そう言いながらも、店主が動揺している様子は一切ない。良家の子女がお忍びで換金するのなんて、きっと日常茶飯事なのだろう。
あっという間に引き出しから貨幣を取り出して、カウンターの上に並べる。
「あともうひとつお願いしたいことがあって、銀貨一枚を銅貨に両替いただきたいのですけれど」
「よろしいですよ」
すぐに金貨六枚、銀貨三枚、銅貨十五枚が並んだ。
「お嬢様、お財布は持っていらっしゃいます?」
「いいえ、使えそうなものが手元になくて...お恥ずかしいわ」
ヴィオレッタは頬に手を当てた。
「身一つ」だものねえ。金貨何枚にもなる装飾品はあっても、そのような物は持ってこられなかった。所持していた私物はすべて、メイユール公爵家あるいは王家からの資金で買われた物だもの。
女主人はまた動揺せずに頷く。
それからカウンターの後ろの壁から、積み上げられた布製のポーチを一つ引き抜いた。
「でしたら、財布代わりにこちらをお使いになりますか?」
ポーチを手に取って見てみる。麻の一枚布で作られ、仕切りも何もない質素なものだったけれど、中には重さ軽減と容量拡張の魔法陣の紙が貼り付けられていた。
貴重品類を入れるために置いてあるのかと思ったら、まさにこのためにあるものだったらしい。
現金は手に入れたものの、財布を持ち歩く習慣のないお坊ちゃまお嬢さまをお相手するのだって、いつものことなのだろう。
「まあ、ご親切にありがとうございます。使わせていただきますね」
「銅貨一枚になります」
商売上手ねえ......。
資金を手にしたヴィオレッタは、意気揚々と店を出た。さあ、これで学園区を出られる。
ただ、その前に。
ヴィオレッタは繊細に光を放つドレスと、華奢なヒールの靴を見下ろした。
この服装をなんとかしなくてはね。お金が手に入ったことだし。
靴はいらないわねえ。いくらで売れるかしら......。




