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身一つで出て行けと言われたけれども。
あいにく追い出された先は庭だった。手入れの行き届いた花が目に楽しい。
ちゃんとした道に通じる正面だったのならまた違ったでしょうけど、これでは真っ直ぐ外に出るというわけにはいかないわ。
桜の花びらが吹き込んできたことからわかるように、桜並木の道が繋ぐ大門へはさほど遠くない。
ちょっとはしたないけれど、庭から芝生を突っ切れば大門への道へ出られるでしょう。こんなことができるのも、公爵籍を抜けた特権ね。
よいしょ。では行きましょうか。
誰に言うでもなく心の中で掛け声を言って、尻もちを付いていた体勢から立ち上がる。砂埃は落ちるかしら......風魔法で落ちるくらいだったらいいわねえ。
幸いにして、瀟洒なパーティー会場の設計と同じように、会場を囲む庭園の地面も洒落た石畳。それほど汚れてはいないはず。
あら、案外ヒールでも歩きやすいわ。石畳で良かった。
遊びにいらしていたらしい水の精霊の囁きを聞きながら噴水を横切り、東屋を通り、咲く花々の名前を頭の中で答え合わせしながら、庭を抜けていく。
やっぱり、外の方がずっと天気の良さがわかる。
暖かい陽光に知らず微笑み、ヴィオレッタは手の中の風呂敷......ではなく、スカーフの包みを抱え直した。
学園においても一等際立つ桜並木の大門は、自然中央校舎の正面から始まる。頭上に見える大きな白い建物を目指せば、さほどもせずに芝生に出た。
もともと、客人をもてなす用途のパーティー会場は、来訪者の多い中央校舎にほど近い。
さくりさくりとヒールで柔らかな芝生を踏んで行けば、もう道は見えてきた。
その一番大きな中央校舎と、一番大きな門をつなぐ道。
外との出入り口になることの多いこの道は、馬車が何台も止まれるほど幅広い。加えて、両脇に植わった美しい薄紅の花を咲かす桜......この世界で言われるセラムの木も盛りとなると、普段からひっきりなしに誰かが行き交っている。
芝生の緑に映える花びらを眺めながら芝生を通ってきたヴィオレッタも、舗装された馬車道に差し掛かったあたりで人影を目にした。
ちり取りと箒をそれぞれの手に持った、初老の用務員の男だ。
「こんにちは。精が出ますね」
ヴィオレッタは普通に世間話を始めた。
つい先ほど婚約破棄され、文字通りパーティー会場から放り出され、平民で成金で年寄り(らしい)な相手との結婚を強要された公爵令嬢にはとても見えない。
「おや! お嬢様! 申し訳ない、どちらのおうちのお方かわからねぇもんで」
「いえいえ、この学園にはたくさんの生徒がいますもの。わたくしなんて知らなくて当然ですよ」
「いやはや、ありがたい。親切なお嬢様だ」
「ふふふ、お上手。......まあ、ずいぶん集まりましたのねえ」
最後の言葉は、用務員の男がかき集めた花びらを覗き込んでのものだ。
「そうですなあ。セラムの木ってのは、散るのがあっという間ですからなあ」
「最近風も強くなってきましたからねえ。見てるぶんには綺麗ですけれど、これだけ花びらが散れば集めるのは一苦労でしょう。いつもありがとうございます」
「なんの、年寄りの小遣い稼ぎです」
一度満杯になったちり取りを持ち上げて、道脇に置いていた麻袋を引き寄せると中の花びらを流し込む。
それでひと段落して、男はまた地面に据えたちり取りに寄りかかり、ヴィオレッタに向き合った。
「そういやお嬢様、パーティーには行かなくてよろしいんですかい。今盛大にやっていなさるでしょう」
「ええ、そうですけれど、少々立て込んでいて......。実はわたくし、今日限りで学園をお暇することになって」
「ああ......なんです、ご結婚なさるんです」
「ええ。それで、パーティー会場からこんなに立派なセラムの木が見えたものですからねえ。ついつい立ち寄ってしまって。この木とも今日でお別れだと思えば、感慨深いものです」
ヴィオレッタはにこやかに応答する。
男は顎髭を撫で、ははあ、と感心したふうに頷いた。
「やっぱり嫁いで行かれるんですか。貴族のお嬢様となると若くで立派に一人前なんですなあ。うちの孫がこの年で嫁に出るなんぞ考えるだけで泣きそうになっちまう」
「まあ、お孫さん?」
ヴィオレッタは口元に手を当てた。まあなんて羨ましい。
前世では子宝に恵まれず、孫もいなかったのだ。
「そうそう。娘ってホラ吹ける年じゃねえなあ、あっはっは! 今年五つになるんですがね、もうこまっしゃくれてきて」
「あら! 一番可愛らしい年ごろでしょう? いいですわねえ、お孫さん。可愛くてたまらないでしょう」
「バレましたか。今日もね、ここでパーティーがあるってうっかり話しちまった日にゃあ、連れて行けって言ってきかなくて、宥めるのがこれまたてぇへんで......」
目尻にくしゃっと皺を寄せてから、誤魔化すように男は再び箒を取り上げて掃きだした。そんな様子をヴィオレッタも微笑ましげに眺める。
「なんにせよ、おめでとうございます。こんな知らんジジイなんぞが言うのもあれですが、どうぞお幸せになってくだせえ」
「まあ、どうもありがとうございます。そうですねえ、わたくしも幸せになれるよう頑張りますね」
ヴィオレッタは丁寧にお礼を言う。
男はちり取りを手に取りながら、照れくさそうにしていた。
和やかに男と別れたヴィオレッタは、まだ口元に微笑みを残していた。
なんだか幸せをお裾分けしてもらった気分だわ。
殿下のお話では、お相手の方はわたくしより相当年上らしいけれど、お子さんはいらっしゃるのかしら。
いたとして、時間をかければいつか、わたくしを母と呼んでくれるかしら。せめてたまにお茶をご一緒できるくらいには仲良くなりたい。
もしかしたらお孫さんもいらっしゃるかもしれない。
(ばぁば......素敵な響きだわ......。)
もはや平民で祖父ほども年上で成り上がりな嫁ぎ先を満喫する気満々で、ヴィオレッタはうきうきと歩を進める。
(熟年結婚するひとって、こんな気持ちなのかしら......。)
むしろ同年代と結婚するような心積もりでいた。下手をするとレイモンドとの婚約のときよりもやる気に満ちているかもしれない。
そして言われた通りに、着の身着のまま大門から外へ......行かなかった。
あっさりレイモンドの言葉を無視して向かうのは、出口とは正反対の中央校舎だ。
だってねえ。身一つで出て行けと言われても、使用人を雇う立場にあった以上、わたくしがいなくなるのはわたくし一人の問題ではないもの。
一言くらい残しておくのが筋でしょう。一度お部屋に戻らなくてはね。
その時間も含めての「今すぐ」ということにいたしましょう。部屋から何も持ち出さなければ、「身一つ」の条件も破ることにはならないのだし。きっと。
中央校舎の回廊沿いに進むと、建物の終わりから続く石畳の道が現れる。道の佇まいも正面玄関付近とは打って変わって閑散としてきて、そのうち学生寮へ辿り着いた。
誰ともすれ違わずに寮のホールに入ったヴィオレッタは、そのまま一階の自室に向かった。
部屋は家の階級順に、一階から割り当てられている。公爵家の令嬢であり、将来の王族でもあったヴィオレッタは、当然ながら一階の広々とした個室だった。それも今日までの話だ。
彫刻で覆われた華やかな書き物机と向かい合う。
ヴィオレッタはさらさらと手紙を書きだした。筆遣いに迷いがない。
もはやメイユールの者ではなく、この身一つが自分のすべてだと伝えられているので、使われる紙も私物の上質なものではなくただのレポート紙。これだったら、申請すれば誰でも貰えるのだ。
とりあえず、紹介状も用意できない急な解雇でごめんなさいね、という旨は書いておく。貴族ではなくなったヴィオレッタが紹介状を書いたところで、もはや何の役にも立たない。
婚約者になるにあたって、王家に用意された使用人だったのだから、もしかしたら承知だったのかもしれないけれど。
それでも解雇の際に紹介状を用意するのは、主人側の義務のようなものであるのだし。形ばかりでも主人であった以上、その勤めを果たせなかったことについては、やっぱりひとつ謝罪を残しておくべきだと思う。
今できるだけのことは書き残しておこう。
紹介状にはならないけれど、雇ってもらえそうな家はいくつか挙げておく。
退職金代わりに換金して皆で分け合うように、身に着けていたイヤリングを外して手紙の上に乗せておいた。身一つということは、今身に着けているものなら好きにしていいってことだものね。
ついで、今進行中の福祉事業などに関しても、勝手ながら引継ぎに相応しいと感じた方々を併記させておく。
最後に、ついいつもの癖で華やかな署名を書きかけたところで、もう必要ないのだと気づいた。下の名前のみの簡素な筆跡は、なんだかとても新鮮に見える。
とはいえ、すぐに直したとしても、書き始めのラインは少し装飾的に伸ばされている。どうせならと、その線を軸に花を一輪描き加えてみることにした。ヴィオレッタの名前とおりの菫の花。ちょっとした遊び心ね。中に顔も描いておきましょう。
吹き出しからコメントも言わせてみる。
あらあら、思った以上に上手に描けたんじゃないかしら。花丸に似てるわ。
満足して、ヴィオレッタは寮を後にした。
これで憂いはない。