21/狂って狂って狂って……
「そう言えば、安西どこにいったんだ? もしかして先に帰った?」
「あ、さっき見かけたけど……鞄まだあるし戻ってくるんじゃない?」
放課後。人の少ない教室。
特筆する程のこともない会話に気を取られ、一人の人間の消失を気づけなかった。
それにしてもどこへ行ったのか。俺達に何の断りもなく姿を消すなんて、あまりないことだ。
「どうするカナデ来る迄待つ? 置いてっちゃうのは可哀相だし、それとも探しに行こっか? 私心当たりあるから」
「心当たりって、なんだよ?」
「まあいいからいいから~」
そう言って本来淡野の席である俺の左隣の席から立ち上がる神田。
鞄を手に可愛らしく微笑み、軽く前髪を整えると俺にも立つように促す。
まあいいか。時間はいくらでもあるのだ。自由ばかりが幸せとはいわないが、堕落が好きな自分は、この先も何を成し遂げることはないのだろうなと思う。
そんな自分が嫌になるが、それを考えないようにして自分はいきている。
そうしていればいつか自分にも何かを変えられるのではないか、そんな風に思考をすり替えながら生きている。
自分を騙しながら、生きている。
「いこいこ~」
そうして二人で教室を後にした。彼女の言う心当たりという場所を目指す。
「そう言えば大丈夫かなあいつ……」
「あいつって?」
「ほら淡野、だよ。今朝色々あっただろ。色々さ……」
本当に色々なことがあった。彼女が崩れ落ちて色々な感情を吐き出すのを、俺はその場で見ていた。
……でも俺の中では変わった一つの思いがあった。いつもとは全然違う身に付けた見えない鎧を全部外したみたいな、そんな魅力を感じた。
あいつあんな顔するんだ。あんな強いくせしてあんな表情ができるなんてずるい。
本当に美人は得だよなあ、と思ったり思わなかったり。
「でも××君ちゃんと言えたじゃん、友達だからって格好良いこと言ってた気がするよ」
「まあ、そうなんだけど、あれで良かったのか……あれで合っていたのかって思わないでもない、んだよ」
自分に誰かを救い出せるような力があるとは思えない。そんな高尚な、聖人のようなことがなせるとはどうしても思えないのだ。
だから今でも疑っている、だから俺はただ安西の真似をして調子に乗っているだけの愚か者なのではないかと。
彼女に憧れるあまり、彼女が眩しすぎるあまり自分にもそれが出来たらどんなにいいかと。
そしてそれを淡野で試しただけなのかもしれない。だとしたら最低だな。俺。
お前に淡野の気持ちを弄んでいい理由等ないだろうが。奇麗事を並べて上等な人間にでもなったつもりかくだらない。
俺はまた一つ自分を嫌いになってみた。
「ふうん、難しいんだね」
「ああ難しいんだ」
そっかそっかと、歩を進める彼女。気がつけばいつか来た体育館が見えてきた。
「もう部活終わってるよな、剣道部」
「うん、もうこんな時間だしね」
長話が過ぎたらしい、何時までも帰ってこない彼女も彼女だが。
そして扉の前にたどり着く。この辺りの周辺は二人で見て回った。つまりこの中に彼女がいるのか? こんな時間にどうして何も告げずにそんなことを……。
「……安西ここに入ったのか? もうここしかないよな。ここしか。……でも変だよな。なんで剣道部の活動場所なんかに用があるんだ? 誰もいないぞきっと。淡野だって、きっともう帰ってる」
「う~ん。おかしいね。ここだと思うんだけど。カナデがこっちの方に行くの、見えたんだけどな」
「本当か? 神田?」
「あ~信じてないでしょ? 本当の本当に、見たんだってばあ」
彼女が嘘をつく理由もないだろうが、それにしてもおかしい。理由は上手く言えないが、この何とも言えない息苦しさはなんだ。
一体俺は何を恐れているんだ。馬鹿馬鹿しい。
「とりあえず鍵開いてるか確かめるか」
俺は鉄の扉に手をかける。もとから重いそれだが、どうやら鍵はかかっていない様子。まさかとは思ったが……本当に誰かいるのか。
扉をゆっくりと、ゆっくりと開けると…………
そこには、目の前には、眼前には、
「なにこの鉄みたいな臭い。……あれ鉄っていうかこれは……っっっっっ?????」
神田はそこに何が倒れているのかよく見ないままにまずその異臭に気がついたのだろう。それはそうだ。
今この閉ざされた空間は鼻をおおいたくなるような異臭に満ちている。
確かにそれは、そうなのだが……
俺はそんなことが頭の中から吹き飛ぶ程の戦慄と恐怖とそれから何より無理解に襲われていた。
そこで起きている何かが何なのか理解不能。意味不明。掌握することができないのだ。
それはどう形容すればいいのか表現しづらい行為の現在進行形だった。
こんな状況じゃなければ「失礼しましたっ」とでも言って回れ右すべきかもしれない。
そんな見ようによっては色っぽい状態かもしれない……それが、
二人ともチマミレの身体をしていナカッタラ……。「っっっっっっ?????」
チマミレの身体をしていナカッタラ……。
制服を着た男女が二人赤くなって倒れていた。
勿論赤くなって、と言うのは前向きな意味ではなく後ろ向きでの意味でだ。
途方もなくネガティブで、絶望的に後ろ向きな意味でだ。
出血多量の人間が二人倒れてんだよっっっっ!!!
神田が口を両手で抑えて今にも嘔吐しそうな顔で絶叫を解放するのを横目に、俺は走っていた。
それはもう全力でだ。全力疾走。
倒れている女子生徒の方の顔に、とてつもなく嫌な心当たりがあったからだ。
そして嫌な予感は外れない。世界は、現実は本当に意地悪だ。
くそっっくそっっくそっっ………くそっっくそっくそっっ……。何で、何なんだよ。どうしてそんな……こんなことが。
「安、西……」
倒れているのは安西奏だった。信じたくなくても現実は嫌な位に現実そのもので……そしてすべからく残酷で最悪だ。
最悪で最低で、救いなく、終わりない絶望。どこまでも堕ちていく、気が、した……。
安西に覆い被さるように男子生徒が倒れている。その制服にも塗りたくったように血の跡が……いやこいつの血じゃない。
これは安西の血液が付着しているだけで……まさか……
絡み合うように倒れている二人の身体に触れようとしたそのとき、ゾクッと冷ややかな戦慄が走る。
直感だけで自らの身体を無理矢理回転させてその刃からギリギリで避けた。
怪しく光る鉛色の突起物。瞬間に振るわれるそれ。振り下ろされる狂気。
はあっ……は~あ~っっ……包丁っっ!!
倒れて動かないと勘違いしていたが、この男はまだ動いている。それどころか……俺に向かって凶器を振るってきた。
何なんだ、何だこいつ? 誰だよこいつ一体なんだっっ!
安西を赤く染め上げたのはこいつに間違いない。その赤黒く染まった鉛色の物体が何よりの証拠。
それを今、この俺に向けて斬りつけてきたのだ。知らない奴だ。誰だこいつは。
「……あ~お前知ってるぞ」
俺は知らないっ。目の前のそいつはまるで懐かしの旧友にでも会ったかのような気軽さで俺を見る。繰り返すが、俺は知らないこんな奴
「お、お前何してんだよっっ。俺はお前なんか知らないっっ!」
ゆらり、ゆらりと不気味な笑みを浮かべた。
「お前は先輩に付きまとう、《悪》だ」
「は? お前何言ってる? 意味が分からない……お前何なんだよそこどけっ」
俺と倒れて動かない安西との間に狂気を片手に立ちふさがる男。とても正気とは思えない。通常の精神をとっくに踏み外した人間だっこいつ。
狂ってやがる。その狂った狂気が今俺の前に立ちふさがる。
「先輩待っててください。こいつをまずぶっ殺してから、俺もそっち行きますから……大丈夫です安心してください。俺達が行くのは天国で、こいつは地獄ですから……もう邪魔できませんよ」
そういって男はその手の凶器を俺の顔に向けた。明らかに戦闘体制。目の前の敵を倒す構えだ。
俺はこいつにとって殺すべき、消し去るべき存在。このままではやられる……
男の包丁が鈍く光る。嗚呼っっ凶器っっ。包丁……あれを受けたら俺は、どうなる?
男の制服を濡らす血液をまた見てしまった。くそっっ血だっっ安西の血だ……俺もあんな風に、肉体を貫かれ……赤い血が、ああ……嗚呼嗚呼嗚呼嫌だっっ。怖い怖い痛い痛い。
そして血だ。包丁だ、殺される。死だ。そこまで、すぐそこまで死がきている。
もうすぐ俺を死が殺す。嫌だっっ死にたくないっっ。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないっっ!!
男は無表情になりその目を鋭く俺に向けた。その視線だけでもう死から逃れられないような気になる……怖い怖い怖い。嫌だ死にたくない。
人形のように動かない安西が目に飛び込んできた。血だ。チマミレだ。
みるみるうちに彼女の生気が消えていくような気がした。一分一秒が彼女をじわじわと殺す。それは明らかだった。早く彼女を安全にしなければ待っているのは死だ……
彼女が死ぬのは嫌だ嫌だ嫌だ死なせない。でもでも、それ以上に恐ろしいっっ刃っっこの存在そのものが人を殺したがっているような悪党が、きっと俺を簡単に殺す悪党に立ち向かうなんて無理だ無理だ。
「さあ殺す。今すぐ殺す。これでお前を簡単に死なす。死なす死なす死なす」
死ぬのは嫌だ。死にたくないっっ。痛いのは嫌だそんなのは耐えられない。
…扉は開いている。走れば逃げられる。逃げれば、助かる。命は助かる。
俺は死なないことができる。そうすることができる。でも、でも……
死に真っ逆様に向かっていく彼女の顔が浮かぶ。死に顔が浮かぶ。
安西奏を、俺は見捨てるのか。見捨てて自分だけ……自分だけ助かるのか。
そうすれば痛くない。そうすれば苦しまないで済むぞ。良かったじゃないか。助かったじゃないか。
さあ早く走れ。神田は放心状態。正常な判断と行動ができなていない。
きっと俺が逃げれば彼女も殺される。
この男はきっと殺るだろう。俺を殺すのも神田を殺すのもきっとこいつには変わらない。
同じ、ただ一人の人間が死ぬだけ。それだけの違いでこの男は殺人をやめない。きっと殺す。
それもいい。彼女を見捨てて俺が生き残る。そうしなければ俺が死ぬ。それだけは駄目だ駄目だ。
死ぬのは痛い苦しい怖い。そんなものは他人に与えておけ。他人の痛みは自分には届かないのだから。
「……助、けて……」
頭の中を電気が走ったように走り抜ける衝撃。ショックによりようやく動き始める思考回路。
死にかけている、それでも生きている。今確かに彼女の声が聞こえた。
彼女が俺に助けを求めている。おい俺は何を考えていたんだ。馬鹿馬鹿しい、全く馬鹿馬鹿しい。彼女を見捨てるだと。そんな位ならその腐った頭の中身を全部捨ててしまえ。さっさと目を覚ますんだよっっこの馬鹿が。
自分で自分の頭を殴った。心地良い痺れ。心地良いショック。衝撃が壊れかけた思考を冷静にしてくれた。もう大丈夫だ。俺は目覚めた。
目の前、男。背が高い。筋肉質。右手に包丁。慣れた手つき。それがどうした。俺を誰だと思ってる?
思考を研ぎ澄ましていく。少しずつ、少しずつ戦闘体制に持っていく。
ゆっくりと、ゆっくりと死の戦慄にも馴れてきた。死ぬのは負ければの話しだ俺は負けない。こいつを負かす。
両手を構えた。誰にも負けなかった頃の感覚が徐々に戻ってくる。ブランクを埋めていく戦いの興奮。いい具合にそれが俺から恐怖を消し去った。今ならやれる。
包丁を持つ手が少しずつ俺の身体に近づいてくる。常に包丁の先端を俺の顔に向けているのは効果的だった。
まず凶器は人間に恐怖を与える。それが凶器のもつ本来の殺傷能力を遥かに上回るのだ。
それが凶器の持つ最大の利点と言っていい。凶器の恐怖に捕らわれ、怯んでしまうのが一番不味い。ならばどうすべきか。
昔道場の師範が言っていた。そのこと自体は恐らく冗談半分で面白可笑しく語っていたのだとは思う。
凶器を持つ相手なら、それが相手の身体の一部だと思って闘うのが効果的だろう、と。
ならば相手が包丁を持つのならそれが相手の拳の延長線だと考えればいい。
恐ろしく切れ味のいいパンチを繰り出してくる相手だと自分を騙せばいいわけだ。
よしやろう。相手は素手だ。素手のしかも自分と同年代の相手になど俺は負けたことはない。
受ければ身を斬られるパンチなど喰らわなければ全く問題ない。
今迄俺は何を迷っていたんだ。こんな奴さっさと倒して安西を助けなければ。
仕掛けてきた。俺に向かって突進。その右手の包丁が突き出された。こんな鉄の塊、恐れるに足らない。ただの尖った金属だ。
その攻撃を簡単に避け、男の顔面に渾身の拳を叩き込む。
それは相手の動きを止める為だ。顔を狙われれば誰でも動きが鈍る。さっき迄のお前の戦法を真似させて貰ったわけだ。悪いな。
思った通り、両目をつぶり苦痛に悶える男。空いている左手で顔を押さえた。おいおいそんなこと、してていいのか……。
その隙を、最大限に利用し右拳を思いっきり強く握る。パワーを限界まで溜め、そしてそれを男の腹部に叩き込んだ。
肉体を貫く感覚が痺れる。物体を貫く感覚が快感。男の身体が一瞬宙に浮いた。
そのままバランスを保てなくなり、男は転倒。右手の凶器を取り落とす。それは神田の方に飛んでいった。
……は~……ああっっ……倒せた。なんとかやれた。全力の一打はそれだけで男の動きを奪っていた。苦しそうにまだ呻いていた。その顔にさっき迄の余裕は無かった。
近づいていって顔面に一発。それだけでもう男は気絶した。本当に誰なんだこいつ。今はそれより……
「神田、大丈夫か?」
扉に身体を預けてただ震えるばかりの彼女に声をかけ、平静を促す。
「……」
するとゆっくりこちらに歩いてきた。顔を下に向けながら、歩いてくる彼女。
「助けを早く呼ばないと……」
安西の身体は既に全く動いていなかった。今は一分一秒を争う。彼女を助けなければ……
俺は誰かいないかと出口に向かって走った。そのとき……そのときに、俯きながら笑っている神田の顔が見えた気がした。
え……?? なんでどうして笑っている、んだ……
背筋を這い上がってくる冷たい何か。神田の表情があまりにも不気味で、不可解で……立ち止まって彼女の方を振り返る。
「神田……どうし、た……」
時間がゆっくりに、なった気がした。目の前の光景が、スローモーションになったような、そんな錯覚。
見れば神田は男の身体の横にかがみこんでいた。何で、どうしてそんなことをしているんだろう。
その手に握られた鉛色の物体を見つけて血の気が引いた。神田の右手にさっきの包丁がっっ!!
機械のように、冷酷に振り下ろされる狂気。その向かう先は倒れた男の首、彼女が何をしようとしているのかようやく理解し、叫ぶっ。
「止めろっっ!!」
駄目だ間に合わない。何の躊躇いもなく男の急所を狙って包丁を振り下ろすのが見えた。……神田っっ!
ビュンッそんな空気を切り裂くような、何かが俺の横を通り過ぎた気がした。
細長い何かが射出され、そして後ろから弱き強者の声がした。
その叫び声は今の俺にはとてつもなく頼もしく感じられた。
もう大丈夫な気がした……