門出
一糸纏わぬありのままの裸体が激しくぶつかり合う。
大地を踏み抜く四本の脚、スコールのように止むことを知らない四つの拳。
肌が触れ、血が沸騰しているかのような熱を少年は、少女は互いに感じ取る。
培ってきた技を、力を放つ瞬間がこの上無く心地好い。何処と無く射精感にも似ている。
五体が果てぬ限り続く終わりの無い絶頂。
至上の快楽。
色を知らぬ彼らではあるが、両者共に確信していた。
存分に拳を振るえる時が、相手が存在していることこそが我が人生最大の幸福であり、快楽であると。
肉体言語という意味ではセックスと似ているのかもしれない。
互いの肉に触れ合い、互いの温度を共有し、互いの獣欲を慈しみ合い、互いが互いを満たし合う行為という意味では。
だが、彼らの心の内に燃えるものを情欲と呼ぶには、あまりにも眩しすぎた。愛欲と呼ぶには、あまりにも暴力的すぎた。恋慕と呼ぶには、あまりにも烈しすぎた。
そして今日、そんな狂人共が棲まう魔境の門を開いた憐れな少年が一人。
(息、しんど……)
不意に胸部を襲った打撃は、その内部にまで衝撃を及ぼしていた。
肺は突然の打突に驚愕し、縮まったまま痙攣している。お陰で思うような深い呼吸が儘ならない。
巨人は不随意の浅薄な呼吸で何とか酸素を吸入する。
(でも……)
息苦しい。気持ち悪い。恥ずかしい。
ダメージに加え、自身の男根を眼前にぶら下げられた尊厳を著しく欠く屈辱的な体勢まで。
辛かろう。苦しかろう。消え失せたかろう。
心が恥辱と苦痛に染まる。
筈だ。
だのに、彼は異様に爽やかな、晴れやかな心持ちであった。
(何か、こう……)
今、この瞬間に生まれ落ちたわけではない。
ここ数日、朝も晩も無く、ただひたすら拳を磨き続ける内に芽生え始めた感覚。
夜が明けて朝日が胸の内を蝕んでいく感覚を。
これまで自分を構成していた虚ろな何かが壊れていくような、それでいて自分さえ知らない新しい自分が萌芽するような。
未知だ。読んで字の如く、未だ知らない快感。
視界に広がる全てが色鮮やかに映る。
鳥も、木葉も、空も、男性器も。
この時、六原巨人は初めて、真の意味で足を踏み入れた。
美と狂気に彩られた『武』の世界に。
「よいしょ」
ごろんと転がり体を起こし、天へ向けていた尻を地に着ける。
呼吸のリズムは未だ戻らず。
しかし、血が騒ぐ感覚を抑え切れない。
彼にとって生まれて初めてのざわつき。
全身の全細胞に至るまでが刺激を欲している。
(うん、いける)
指先の感触を確かめる。
問題は無い。
「うん、よし……」
立ち上がった巨人は目標を定めた。
少し離れたところで、楽しそうに力を解放している男の後ろ姿。
少女が放つ怒涛の連撃を難無く処理し、反撃を加えている。
アトラスはおろか、少女の動きすら巨人の目には追えない。
今の彼に敵う相手でないのは明らか。
だからこそ、と巨人は心を沸き立たせる。
「胸、借りさせてもらうぜ」
足趾が地面を掴む。
土が足形にめり込む。
巨人はアトラス目掛け、疾走り出した。
「おらァッ!」
ブンッ!
アトラスの後頭部へ向けた拳撃。
投手よろしく振りかぶって放たれた一発は弧を描き、アトラスへ襲いかかる。
「甘い!」
「ブッ!」
ベチン!
振り向き様の手甲打ち。
拳こそ握られていなかったものの、反撃を想定していなかった巨人は頬へモロに喰らった。
拳が逸れて大きく体が泳いだものの、何とかその場に踏みとどまる。
そして次弾へ。
「まだだッ!」
「おらよォッ!」
巨人の中段正拳突き。
セタの上段廻し蹴り。
前後から同時に二発、偶然にも同じタイミングでアトラスの首を狩らんとする。
「悪くないな」
パシッ
しかし、当たらない。
それどころか、右手は突きを放った巨人の右手首を、左手は背後より蹴りかかったセタの右足首を見事に掴んでいた。
異常な気配察知能力ありきの人間離れした芸当。
「耐えてみせろ」
アトラスは二人を掴んだまま、その場で身体のみを転回する。
その体勢はまるで、剛力に優れた投手の予備動作にも似ている。
投げる気だ。
「ふんッ」
ブンッ!
その時、二人の目には何が映ったのか。
青空? 繁る木々? 自分達を軽々と投げた男の姿?
きっとそれら全てだ。
焦点を合わせる刹那も与えられぬまま、彼らの視界はそれら全てを捉え、
最後には投げられた者同士の視線が交錯した。
「あれ……?」
目蓋を開くと茜色の空が目に映った。
「やっと起きたか」
少女の声。
頭の中ではぼんやりと靄がかかっている。
何も考えられないままに声のした方を振り向いた。
「遅ぇよ」
寝転ぶ巨人の隣に寄り添うように、セタが座り込んでいた。
服は着ている。
見たところ彼女一人だ。
「アトラスは……?」
何となく口をついて出た疑問を彼女にぶつける。
セタは視線を巨人に合わせることなく返事を返す。
「シショーなら今、アタシたちの晩メシを調達しに行ってくれてるよ」
つまり、この場は二人っきりだ。
はっきりとした思考が戻らないままに、巨人は少し気まずい気持ちを抱える。
「ん?」
彼女から視線を外すと、外套が掛け布団として自身に被さっていた。
「これ……」
「風邪、引くだろ」
巨人は全裸のままだった。
どうやらセタはそれを危惧して外套を巨人に掛けてやったらしい。
相変わらず彼女の視線は巨人の方を向かない。
「そっか、ありがとう」
若干気まずい雰囲気は拭い去れないものの、巨人は少し嬉しくなった。
彼女とは正直、仲良くなれるビジョンが思い浮かばなかった。
だが、ほんの少しでも心配してくれる程度には近しくなれたのだろうと思い、顔が綻ぶ。
「ヒト種は弱ぇからな」
侮蔑や嘲りではない。
その発言からは、彼女なりの優しさが感じ取れた。
「それを言うならアトラスもだろ?」
「バカか。シショーは別格だよ」
思ったことを口に出しただけだった。
すると、セタは苦笑いを含んだ表情で巨人の疑問に突っ込んだ。
初めて彼と視線を合わせて。
「確かに」
彼女につられて巨人も苦笑を浮かべる。
初めて心が一つになった瞬間だ。
そして一通り笑い終えた後、視線を合わせたまま静寂が訪れる。
「ロクハラ・ナオト……だっけ?」
「そうだよ。覚えとけよ」
彼女が巨人の目を見据える。
冗談交じりに巨人は返答するが、彼女の目つきは真剣そのものだ。
その雰囲気を感じ取り、呼応して彼の顔つきも真面目なものに変化する。
「アンタのこと、ちょっとは認めてやる」
顔を合わせて言い切った。
ヒト種が云々と侮り、蔑みがちな獣人が認めたのだ。
拳士としても生物としても数段は格の違うヒト種の少年を。
「そりゃまたいきなりだな」
突然言い渡された認めてやる発言に少しばかり目を剥いて驚く巨人。
胸の内に生じるむず痒さ。悪くない気分だった。
「アンタのニオイ、ちょっとだけ変わった」
「臭い? 何か臭いの?」
獣人は五感が特別優れている。
しかし、セタが言いたいのは物質的な話ではない。
精神、心、魂とでも形容しようか。
彼の人格を支える柱の変化に彼女は反応したのだ。
それに気付けない巨人は、確かめるように自身の体のあちこちを嗅ぎ回る。
「戦士だ」
「へ?」
「つまんねぇフツーのニオイが戦士のニオイに変わった」
彼女の言葉を頭で理解することはできなかった。
しかし、自身が味わった心境の変化に依るものではないだろうかという想像はできる。
殻を破ったような、厳重に封鎖された門扉をこじ開けたような解放感。拳脚が疼き、嫌悪や恐怖すら塗り潰す刺激への渇望。麻薬にも似た陶酔と高揚。
それはきっと、戦いに生きる者の業なのだ。
嬉々として拳を振るうアトラスを目の当たりにしてきた巨人はそう感じざるを得ない。
そして、自らも彼と同じ道へ足を踏み入れたことも。
「そうか、そうか、そうか……。オレはもう、そっち側だったんだ」
彼の元居た世界において、腕っ節的な意味での強さがどれだけの意味を持っていただろうか。肉体的な頑強さが、堅牢さが何をもたらしただろうか。
ナイフ、銃、戦車、軍艦、戦闘機、ミサイル等々、卓越した徒手空拳の力量を以てしても、それらの殺傷能力とでは比較対象にもならない。肉体の鍛練に励み、武技の研鑽を積んだとて一個人が到達できる地点など、たかが知れている。
己の正義を認めさせるために、大切な人を守るために古来より洗練を繰り返しながら受け継がれてきた格技、武術はいつしか本意義を失い、人格形成や健康維持という建前の下、ただの遊戯と成り果ててしまった。
いつしか己の五体のみを用いて戦う行為は、大した意味を持たなくなってしまったのだ。
だが、異世界は違う。
常につきまとう生命の危機から我が身を守る術は拳のみ。
上等ではないか。
男なら誰もが一度は憧れる『最強』という称号。
巨人はそれを得る資格を手にした。
そして、自覚したのだった。
「よぉし、もっと強くなってやるぜ!」
強く握り締めた拳を掲げ、意志を表明する巨人。
そんな彼を笑顔で、しかし馬鹿にすることはせず見つめるセタ。
彼が歩む道は遥かに険しい。
頂は遥か遠い。いや、頂が存在するのかどうかさえ不明瞭だ。
幾千、幾万という先人の屍が舗かれた道程。明日は我が身という世界。厳しいという言葉さえ生温い。
彼はまだ、山麓を進んでいるだけだ。
だが、後退は許されない。
この世界に一人、迷い込んだ彼には選択肢など無いのだから。
ただ、今はもう少しだけ、夕暮れ刻の侘しさと妹弟子との間に築かれた絆に浸るのも悪くはなかろう。