正拳突き
「ハッ!」
ブオッ!
森が戦慄いた。
そう錯覚するほどに、アトラスが放った拳の圧は凄まじかった。
間近でそれを目の当たりにした巨人は一瞬、呼吸が止まる。体の芯から発せられるような冷気が、全身の皮膚を滑るように走っていった。
「こ、これは?」
何の意図があってアトラスはこれを自分に見せたのか。その問いを何度か舌先で躓かせながらも、何とか声に出した。
「この技は『正拳突き』、と言うらしい」
「正拳……突き……」
巨人が元いた世界のこと。中国という国がまだ唐と呼ばれていた時代のことだ。唐より伝わった武術を日本人は『唐手』と呼び、いつしか日本独自の武術、『空手』としたのだ。
数百年という連綿と受け継がれし歴史を誇る空手。
その空手の基本技術であり、空手を代表する技。
それこそが『正拳突き』である。
「もしかして、正拳突きをしろってこと?」
「その通り」
先ほどアトラスが実演した正拳突きはいたってシンプルで、複雑さの欠片も無い基本中の基本といった見てくれだった。
しかし、だからこそ桁外れの練度であることが容易く判断できた。
反復に次ぐ反復、研鑽に次ぐ研鑽、気が触れそうになるほど途方も無い繰り返しの果てにまで歩み続けた者にのみ許された領域。
武術の心得が無い巨人にも、それが肌で感じ取れた。
「鍛錬を始めておよそ八日、これからは肉体の練功と共に基本技能の功も練っていくぞ」
「や、やってやる!」
「その意気だ」
たかだか八日、されど八日。
彼らの生活武術濃度はあまりに高かった。
日の昇りきらない内に起床し、太陽が真上に昇るまでひたすら肉体を苛め抜く。森で食糧を集め、山の幸に舌鼓を打つのも束の間。直ぐ様、次の鍛練に入り、日が完全に沈む頃には指の一本も動かせなくなるまでに追い込まれていた。
何より最も恐ろしいのは、アトラスも共に鍛錬を行っているにも関わらず、全く疲労の色を見せないところだった。それも巨人とは比較にならないほどの高々負荷なのにだ。
巨人にとっては人生で最も肉体を酷使し、アトラスの底知れなさをひしひしと感じる八日間だったと言えるだろう。
しかし、基本とはいえ技の一つでも身に着ければ、アトラスに一歩でも近付けるのではと期待を胸に、拳に力を込める。
「正拳突きは基礎の技。完璧に行う必要は無いが、万法に通ずる理念がこれには込められている。それら一つひとつを丁寧に拾い上げるのだ」
「お、おう……」
いまいちアトラスが言っていることを飲み込めない巨人。抽象的な喩えは時に、解読する人間を選ぶ。
何とも言えない顔で曖昧な声で一応、返事をしてみる。
「武術における極意とは基本だ。そして、基本は文術における伏線のようなもの。伏線に気付かずして物語は完結しない」
「え? ん? …………おう!」
求道者特有の私論が展開される。
無論、巨人にその言葉の意味が分かる訳もない。彼の頭上に大量の疑問符が浮上する。
数秒ほど理解に時間を費やすが、彼の脳内では解に達することが出来ず、取り敢えず元気な返事をするという選択をしたのだった。
「まあ、今は分からんでもいい。やってみろ」
「よしっ!」
先ほど、アトラスが放った正拳突きを思い出しながら、構えに入る。
(こう、だったよな?)
腰は深く落とし、足は前後に広く開くと同時に地面を強く踏みしめる。拇趾球に力を集める。右の拳は腰に溜め、解放の瞬間に備える。『空』を握った拳を硬くして。
その時を待ちわびる全身が岩のように固く緊張する。
(ここだっ!)
刹那、全てを爆発させた。
「おりゃぁっ!」
話は変わるが、時に人は強さを動物に喩える節がある。
『虎のような~』
『飢えた狼の如き~』
『獅子にも勝る~』
勿論、言うまでもなくこれらは比喩だ。爪や牙、翼を持たない人間が、喩えに用いられた猛獣を相手にノーハンデで勝てる訳がない。
敵わぬ相手を想い、叶わぬ強さを言葉で発散する。想像力逞しい人間らしい。
だが、本日、彼の背後にはそれがいた。見えた。
人ならぬ何者かがそこにはいたのだ。
それはまるで──
プルンッ
「仔犬……だな」
──プルプルと震える仔犬そのものだった。
「えぇ……?」
「そうじゃない。こうだ!」
ブオッ!
「えっと、こうか!?」
プルンッ
「だから違う! こうだ!」
ブオッ
「こうだな!?」
プルンッ
「だから違う!」
………………
…………
……
「せいっ!」
ブンッ!
「ハァ、何とか形にはなったな……」
四六時中震えている仔犬のような弱々しい正拳突きは幾度ものダメ出しを経て、何とかそれらしいものに仕上がった。
稽古を始めた頃は真上にあった太陽も、その瞳を閉じんとしていた。汗だくの巨人の背中が濃い橙色に染まり、山々が影を伸ばしていく。
「やっと終わったぁ……」
隠し切れない疲労から四つん這いになる彼の姿は、本当に何かの弱々しい動物のようだ。脱力した背中が弓なりに垂れる。
そんな彼の姿をアトラスは不思議そうに見つめていた。
「終わり? まだまだこれからだぞ?」
「……は?」
事も無げにアトラスが言い捨てた。
耳に入った彼の言葉を何度か反芻し、絶望と驚愕が胸中に去来する。全く嬉しくないサプライズだった。
手足の脱力感がさらに重くのしかかる。
「左右合わせて千回」
「千回!?」
「それを毎日」
「毎日!? どっひゃー!」
昭和のコメディアンよろしく、およそ平成生まれとは思えない古臭いリアクションで驚嘆を演出する。
余裕があるのではない。自棄になっちゃったのだ。
しかし、昭和だ平成だなどは露も知らないアトラスが反応する訳もなかった。
「立て。やるぞ」
「ほげえぇ……」
そして、またも巨人の全身を筋肉痛が襲うのであった。三日ほど。
「待てコラァ!」
犬耳を生やした壮年の男が語気を荒らげ、街中を全力で追走していた。
その相手も獣人。それもかなり幼い少女だ。背丈は壮年の男の胸元にも届かない。毛は傷み、所々が煤けているが、その耳は銀に煌めき陽光を反射している。
やはり獣人だ。街中を疾走するその速度はヒトを遥かに超えている。壮年の男もかなりの速度で幼い獣人を追っていた。
しかし、その差は縮まるどころか、一方的に離されるばかり。捕まる気配など毛頭無い。
「誰が待ってやるか!」
幼い獣人の手にはパン、果実、肉等が腕いっぱいに抱えられている。状況から鑑みて盗みを働いたということなのだろう。
白銀の長髪が靡く。角を曲がった少女の姿が壮年の獣人の視界から消えた。
「待たんか!」
追随して男も角を曲がる。
しかし、そこに少女の姿は無かった。
まんまと逃げ仰せたのだ。
「クソッ! またか……!」
煤けた背中の見えない道を眺め、男は一人、忌々しげに呟いた。