旅は道連れ世は情け
冷えた土に両手を着いて腰を下ろす二人の若い男。
周囲の木々は夜の風に吹かれ、各々がザワザワと囁き出す。
遠慮がちに燃焼する焚き火を前に、アトラスと巨人は肩を並べていた。
「我が師の名はロクハラ・ナギトと云ってな」
「凪人……ああ、確かに親父の名前だ」
「俺の武の全ては師の教えなのだ」
村を出てから二人は暫く歩き、木々生い茂る山中で夜を過ごすことにした。
夏前の穏やかな昼の温かさは鳴りを潜め、冷えた空気が辺りを漂う。
二人は風に揺れる焚き火を無感情に見つめながら、互いの身の上を打ち明け合った。
「なあ、アトラスさん……」
「『さん』など要らん」
「そっか。なあ、アトラス……オレ、異世界から来たって言ったら信じるか……?」
突然の告白だった。
言い終えると同時に、三角座りで腕の中に顔の半分を埋めた巨人。
荒唐無稽な問い。まるでお伽話の世界観だ。
しかし、アトラスは僅かに口角を上げ、彼の言をそのまま素直に受け取った。
「フフ、師匠も同じことを言っていた。質の悪い冗談だと思っていたが、きっとその通りなのだろうな」
「やっぱり親父なのかもな……」
二人は目を閉じ、過去に思いを巡らせる。目蓋の裏をスクリーンとして映し出される記憶の映像の中で、一人の男が笑いかけてくる。
「親父ってさ、スゲェ武術オタクでさ」
「おたく?」
「ああ、一つの物事に熱狂的な興味を持ってる人のことを指すオレの元いた世界での呼び方だよ。気持ち悪いくらい武術が大好きで、世界中を旅してたんだって。家族のこと放っておいてさ」
苦々しい顔で苦言を呈してながらも、憎々しげに思っているような声には聞こえない。懐かしいあの顔を愛おしむ面持ちは子どもの表情そのものだ。
「月に一度は手紙をよこすし、たまにあんまり美味しくない外国のお菓子なんかを持って帰ってきて、顔を見せに来るんだ」
「それが突然途切れた訳か」
「うん……。よく分からないところで律儀な人だから、忘れてるなんてあるわけないんだ。だから、何か事件に巻き込まれたのかって家族全員心配して……」
膝を抱え込む両腕にキュッと力が入る。思い出を語る彼の目は一転し、憂いと悲しみの色が浮かび上がる。寒さに震えるのは身体か、心か。
そんな彼の隣に座すアトラスは、そっと少年の肩に手を乗せた。励ますように優しく、力強く。
「安心しろ、ナオト。貴君の父上は生きている」
ハッキリと断じた言励が巨人の心を響かせる。
固くなった肩肘が緩み、口元を覆っていた前腕が露になった。笑み、と呼べる程のものではないが、その唇は安堵で柔らかくなる。
「ありがとう、アトラス……」
「何てことはない」
視線を目の前の焚き火から動かすことなく礼を述べる。まるでその場の雰囲気を読み取っているかのように静かな火は、時折吹く風に揺れるだけで、音を発しない。灯火に照らされた二人の間には不可思議な友情が生まれていた。
「時にナオトよ。貴君はこれからどうするつもりだ?」
巨人の肩に置いた手を退かし、質問を投げかける。
「これからか……。親父を探したいところだけど、この世界は不慣れだから……」
「そうか、それは奇遇だな」
「え?」
不安げで不満げな感情が、少年の眉間に皺を集める。語尾に進むにつれて小さくなっていく声がさらに不安そうな感情を際立たせる。
その答えに対し、アトラスはとうに用意していた相槌を返した。
「俺は旅をしているのだ。人探しのな」
「人探し……?」
「俺の師匠、つまりナオトの父君をだ」
目を丸くする巨人。深刻そうな表情が一転し、酷く驚いた様子でアトラスの方を振り向いた。
「どうだ、一緒に来ないか?」
「い、いいのか?」
「良いも悪いも無い。それに師匠も仰っていた。『旅は道連れ世は情け』とな」
地獄で仏に逢うたような目でアトラスを見やる。異世界という未知中の未知な領域に突然放り込まれた彼にとって、これ以上無く心強く思えたことだろう。潤んだ瞳が捉えるアトラスの姿が大きく、頼もしく映る。
「それに、一人旅に憧れてはいたのだが、存外寂しいものだと気付かされてな」
「アトラス……」
「ナオト、共に行かんか?」
冗談交じりに旅に誘うアトラスの顔は朋友のように柔らかく、そして父親のように威厳のある色をしていた。
巨人の答えは既に決まっている。
「もちろん。こっちからお願いしたいくらいだよ」
笑顔には笑顔で。自壊しそうだった少年の脆さが姿を消し、覚悟を決めた一人の男の顔になる。
互いの目を等高に合わせ、笑みを交わす二人。
二人の友情が固く結ばれた瞬間だった。
「フッ、これで道連れを確保した」
「何だよ、その言い方」
冗談交じりの穏やかな雷管が鳴り、二人旅が始まる。
「それでだな、一つ提案があるのだが────」
月は目蓋を閉じ、日が開眼する。木深い森にありながら、偏く木々は徐々に金色の光に染められていく。小鳥の軽快な歌声を耳にした動物達が、急ぎ足で自らの巣へと戻っていく。夜の住人と朝の住人が交錯する僅かな刻。
朝ぼらけの森の中、一人の少年が苦悶に喘ぐ声が響き渡っていた。
「キツイキツイキツイキツイキツイ、キッッッツイッ!!」
「まだまだだ。焚き火が消えるまで耐えろ」
大きく足を開き、深く腰を落とした姿勢を巨人は必死に維持していた。腿が地面と水平に、脛が地面と直角に交わるような広く深いスタンスは、四股立ちの姿勢そのものである。
汗が顔から肩から背中から滝のように流れ落ち、自前のTシャツをぐしゃぐしゃに濡らしていた。
辛さを訴える語彙も今は出てこない。巨人は「ただひたすらキツイと叫ぶbot」となってしまっていたのだった。
「腰が高い。下げろ」
「ムリムリムリムリ! し、尻がッ……腿がッ……壊れるッッ……!」
生まれたての仔鹿のようにプルプルと震える足腰。下半身に血液が送り込まれては登っていく忙しない感覚が、嫌というほど走り回っている。
脳は体勢を維持しろと命令するが、肉体は制御が効かない。時々、膝の力が抜けて尻餅をつきそうになる。それを既の所で堪える。
しかし、いい加減それも限界に近そうだ。
「も、もう……ダメだぁぁ……」
トスッ
耐え切れなくなってへたり込む。その場で五体を投げ出して大の字に寝転がり、酸素を繰り返し荒く吸引する。顔を真っ赤にして。
焚き火は未だその勢い衰えないままに。
「なんとひ弱な足腰か……」
「クソッ……こんなもんいきなり出来るかよ……」
憐れむような目つきで巨人を見つめるアトラス。彼の予想を遥かに下回る結果だったらしい。
アトラスの無茶振りに巨人は息も切れ切れに悪態をつく。今の巨人には、辺りを美しく照らす朝日さえ煩わしい。
「っていうか……何でこんなことを……」
全身に鉛を仕込まれたかのように重くなった全身をそのままに、何の心の準備も無しに始まった修行の理由を問うた。今は指先と口先を動かすことで精一杯だ。
「言っただろう。異世界とやらがどういった場所かは知らんが、この世界で己の身を守れるのは己だけだ。だが、俺も巨人も魔術は使えない。なればこそ、その五体に力を宿すことが最優先だと」
確かに、巨人のいた世界では人民が法を遵守し、法が人民を守護していた。悪意、暴力、殺意、ほとんどの人間がそれらとは無縁の生活を過ごしていた。
しかし、この世界では少々事情が異なるようだ。
「俺の旅に連いてくるのなら多少なりとも強くなってもらわねば」
「うへぇ……マジか……」
焚き火に土をかけながら諭すアトラス。火の勢いが徐々に衰えていく。弱々しい揺らめきがやがて完全に消え去る。
巨人はこれから自分を待つ苦行の連続を憂い、苦々しい顔をする。だが、それもほんの僅かな間だけだった。朝風に吹かれる枝葉の間から、時々染み出す暁光が彼の眼を射す。眩しさに目を細め、そして吹っ切れたように勢いよく上体を跳ね起こした。
「よしっ、やるか」
「やる気になったか?」
まだ足腰の疲労は抜けない。しかし、冷えた地面が熱を吸い取る感覚がとても心地よく、彼の心に爽やかな風を連れてきた。
表情はとても晴れやかなものとなっていた。
「おう、頑張るよ」
「そう来なくては」
「それにさ……」
「む?」
巨人は意気込んで、アトラスは手応えを感じて、共に笑みを浮かべた。
そして、一呼吸置いて言い放つ。
「とりあえずイッパツ、親父にぶち込みたいからな!」
物言いは物騒ながらも、満天の笑顔がそこに咲いた。未熟な拳をかざしながら。
「フフ、ならばさらに負荷を上げなければな」
「望むところ!」
そして修行が本格的に始まった。
ちなみに巨人は向こう三日間、筋肉痛が治まらなかったとか。