獣人の国
獣人とは、獣のような外見と身体能力に長けた人類種である。その膂力は然ることながら、尖鋭な爪や獰猛な牙、個体によっては大空を駆ける翼や強烈な毒を有する者も存在する。魔力量は全人類種の中でも最低で、それ故に魔術に関する知見は後進であるものの、戦闘の際は持ち前の肉体がそれらを補って余りあるほどの働きを担う。
ディコィ・カムイ専制公国は、そんな獣人が数多く住まう国である。
ヒトなどはここにいるはずもないのだが……
「だからぁ、オレもなんでここにいるか分かんないんだって!」
「嘘を吐くな! 劣等種のヒトの分際で!」
「この密入国者めが!」
一人のヒト種が獣人と揉めていた。
村の入り口に常駐しているのであろう守衛らしき犬耳の獣人と猫耳の獣人が、彼らの身長ほどもあろうかという棍を手に、目の前のヒトを取り押さえようとジリジリ詰め寄る。まさに筋骨隆々といった出で立ち。肉体を強調するような袖の無い衣服から伸びるそれぞれの腕は、目の前の男の太腿ほどの太さはある。
対するヒト種の男の方は、二人の獣人の圧を一身に浴び、腰が引けている。どこを取っても平均的な男子の体躯だが、眼前の獣人と比べてみれば、風に吹かれてしまえばすぐに飛ばされそうな華奢な薄さが目についてしまう。彼の着ている真っ白な半袖のシャツからは、頼り無さげな細腕が伸びていた。覚束ない足取りで後ずさる男だったが、二人の獣人と男を中心として形成された野次馬の人だかりがそれを許さない。
「劣等種って何だよぉ!? やめてくれぇ!」
「フン、脆弱な肉体で我らと対等のつもりか?」
「ヒト種など我らの手にかかれば一捻りよ!」
半分泣きそうな顔で両手を突き出し、懇願するヒト種の男。思ったように足に力が入らず、その場に尻餅をつく。それでも尚、這ってでも後方へ後方へ退こうとする。情けなくも懸命に逃れようとしていた。しかし、二人の獣人は知ったこっちゃない。
ゆっくり歩を進めていく二人の獣人。徐々に間合いが狭まる。
一足一刀の距離。
男がギュッと目蓋に力を入れて視界を閉ざす。
己の命の終着が直ぐそこまで迫っていた。
(死にたくない……!)
その時だった。
「すまない、アッパケ村というのはココのことだろうか?」
野次馬達の集団後方から声がした。その場の緊張感と全く不釣り合いなカランとした声。
囲まれていた男も二人の獣人も、そして野次馬達の誰もが反射的に声のした方へ振り向く。
肩に荷を引っ提げたヒトらしき男。
そこにいたのは、アトラス・ヘレニウス、その人だった。
「何だ、テメェ?」
「今日は自殺志願者がよく来るなぁ」
二人の獣人は、声をかけてきた方のヒト種に歩み寄った。突然現れた訪問者に多少驚きはしたものの、ヒト種であることを確認して警戒度を下げる。先の戦で獣人軍と激戦を演じたアトラスということには気付いていない様子だ。
背丈は自分達よりも頭一つ分ほど小さい。目算ではあるが、平均的なヒト種の身長程度だろうと推測する。
獣人の敵ではない。
多少魔術が使えるからといって、獣人とヒト種の戦力差が埋まるわけではない。肉体の機能がヒト種を遥かに超えている獣人種ならば、ヒトが一歩踏み出そうとする前に片を着けられる。
そう、これは勝負などではない。勝負にすらなり得ない。
始まるは蹂躙────
「オラァァッ!」
────のはずだった。
「危ないじゃないか」
ブオォン!
「は!?」
犬耳の獣人が繰り出した棍の横薙ぎは空を切った。予想外の出来事に、犬耳の体が大きく泳ぐ。
ヒト種が武器を振るう速度とは訳が違う。
より速く、より鋭く、より力強いはずの一振り。筆舌には尽くしがたい圧倒的力量の差。反応も出来ようものか。
しかし事実、アトラスはいとも容易く躱してしまったのだ。
それも半歩ほど後退しただけで。
「ま、まだだぁッ!」
「よっ、そいっ、ほっ、はっ」
ブンッ
ブンッ
ブンッ
ブゥンッ
突き、薙ぎ、打ち。
何種にも及ぶコンビネーションが空を切る。棍の先端が空気を割る音だけが鳴っていた。
肉体で勝るはずの獣人の棍が全く当たらない。その場にいる誰もが目を皿にして攻防の行方を見守っていた。
相対するアトラスの顔は涼しいものだ。未だ荷を肩に提げたまま、次々襲い来る連打を難なく回避する。恐怖や焦燥など微塵も感じられない。
カランッ
やがて犬耳の獣人は息を切らし、連撃の手を止めてしまった。
棍は手放され、地面に横たわる。
「ハァッ、ハァハァ……クソッ、何で、当たら、ねぇんだよ……!」
「貴方が正直者だからさ」
「は?」
膝に手をつき、肩で息をする犬耳とは対照的に、アトラスは全く呼吸が乱れていない。それどころか、柔和な微笑さえ浮かべている。
「確かに棍のような長物の末端速度はヒトの目を超える。観てから躱すのでは到底、間に合わない。しかし、棍の術者は別だ。術者の手捌き、運足、体の向き、目配せ、呼吸に注意するのは対武器戦において基本中の基本だ。それに、玄人ならいざ知らず、貴方のような腕っ節に頼った素人なら造作もないこと。いかに貴方の腕力が優れていようとも、その速度は高が知れている」
棍のような長物の末端速度は、肉眼による視認の許容範囲を超える。アトラスの言う通り、その場合は術者に目を向けることが肝要だ。
しかし、それを実行するのはあまりに困難だ。いかに術者の腕が未熟であっても、徒手対武器のハンディキャップは大きすぎる。常人ならば、戦力的ハンディキャップの差に立ち竦み、身を強張らせて討たれるのが関の山だろう。連撃ともなれば尚更だ。
この男は、それさえも易々とやってのけた。
「ナメるなッ!」
「むっ」
猫耳の獣人が男に飛びかかる。
アトラスは前に伸ばされた両手を反射的に掴み取った。たまらず肩の荷が落ちる。
「フッ、捕まえたぞ」
「いいのか?」
不敵な笑みを浮かべる猫耳に対し、キョトンとした顔で相手を見つめるアトラス。軽く驚きはしているものの、そこに危機感は見て取れない。
「なに?」
「これは俺の領分だぞ?」
いけしゃあしゃあと言ってのけた。
圧倒的なヒトと獣人の力の差は周知のもののはずなのにだ。
「ッ! ナメるなと言っているだろうがぁッ!」
アトラスの手を握り潰さんと目一杯力が込められる。アトラスの腕が特別か細いわけでもない。しかし、獰猛な爪を拵えた獣人の剛腕とは比べ物にならない。
万力の如き握力が両手を容赦無く襲う。打ち勝つことは勿論、逃れることも出来ず、瞬く間にアトラスの手は粉砕されるはず。
が、それも一蹴される。
「よっ」
フワッ
猫耳の獣人の体が宙に投げ出された。
一枚の落葉の如く、軽々と放り投げられたのだ。
「えっ?」
ドスン
「グフォッ……! は? な、何が……?」
宙空に浮いた猫耳の体が、そのまま地面と激突する。受け身も取れずに落とされた猫耳の胴体に、鈍重な衝撃が嘶く。
「師曰く、隅落とし、別名『空気投げ』とも呼ぶ技だそうだ」
払わず、刈らず、背負わずして投げる技巧。
傍から見れば、男が腕の力だけで自分より一回りも二回りも大きな猫耳の獣人を投げたようにしか見えない。しかし、実際には精巧にて鋭敏な足捌きと体捌きと、それらを刹那とも言える僅かな間隙を縫って行う判断力と度胸が求められる技術を一瞬の内にやってのけたのだ。
「ふざけん痛デデデデデデ!」
「おお、凄い膂力だな。だが、抵抗はしない方がいい。折れるぞ」
地面に叩きつけられ、土に塗れながらも必死に抗う猫耳。
しかし、既に指を極められ、その身を起こすことも叶わない。哀しいかな、無駄な足掻きに過ぎないのだ。
片手で猫耳の小指を可動域ギリギリまで反らして動きを封じ、あまつさえ相手の心配さえしてみせる余裕ぶりを見せる。錬度が違う。
ものの一瞬で勝負を決したアトラスだったが、それ故に勝負の行方を見守っていた野次馬達の視線の色が変わった。
「ヒト種ごときが調子に乗りやがって……」
「やっちまうか……?」
「その鼻っ柱へし折ってやる……」
「獣人の恐ろしさ、見せてやろう……」
二人の獣人を軽くあしらったヒト種の男がどうにも気に入らないようだ。守衛らしき二人の獣人と素行の知れない二人のヒト種を囲んでいた野次馬達が、今にも飛びかからんほどの気迫で中心となるアトラスを睨む。
徐々にその円が狭まっていく。
「ヒィッ! 何だよ、もおぉっ!?」
「ふむ、少し面倒だな」
ジリジリと小さくなる円周。
ある者は牙を、ある者は爪を、又ある者は角を向け、闘気を漲らせる。
一触即発。
いつ火蓋が切られてもおかしくない。
これから起こり得るであろう展開を危惧したアトラスが、その場にへたり込むもう一人のヒト種の男に声をかける。
「おい、そこの」
「へっ? オレ?」
「貴君しかおるまい」
「き、貴君って……初めて聞いた……」
飽和するほどにその場に滾る緊張。
ゆっくりと構えるアトラス、囲む獣人達。
「俺が合図を出す。貴君は逃げろ」
「あ、ああ」
「三、二、一…………」
徐々に腰を落とし、右足に体重を乗せる。土を踏み均す音がやけに大きく聞こえる。自重を集約した拇趾球と緊張したアキレス腱に意識を集中させていく。
獣人達もそれに呼応するように、姿勢が低くなっていく。四方から照射される濃密な害意がアトラス達を覆う。
何分、何秒たっただろうか。
奇しくもその場にいた全員の拍子が重なった。
エンジンは端からフルスロットル。
そして、二回戦の鐘が今────
「待たんか!」
鳴らなかった。
「長老!?」
今にも飛びかからんと爪を、牙を、角を構えていた獣人達が一斉に声のした方を振り向き、一様に驚いている。バネのように撓ませた上体も解き、全員が全員その場で棒立ちになる。
アトラスも構えを解き、その方を向けばそこには一人の白髪の老人が立っていた。
「止めなさい。これ以上は双方損しかない」
厳めしい面をした老人は、その顔をさらにしかめて彼らを制止した。その目からは疎ましさと畏怖の念が覗く。
「助かったよ、御老人」
両腕を降ろし、完全に警戒態勢を解くアトラス。鼻から短く息を吐き、安堵の表情を浮かべた。
対する獣人の群れは納得いかない様子だ。皆が煮え切らない顔で老人の方を見つめ、戦闘続行の意を唱える。
「長老!? 何を弱気なことを!」
「コイツ、門衛をやりやがったんだ!」
「放っといてたまるか!」
拳を止められ、やり場の無い憤りが老人の方へ向く。その目は大きく見開かれ、ヒトには無い立派な犬歯を剥き出しにする。今にも噛みつかんばかりの勢いだ。
だが、老人は彼らを相手にすることもなく、ただ一点、アトラスだけを見つめる。
「どうかお引き取りを」
「そうだな。お騒がせしてすまなかった」
「ちょっ、待って待って!」
荷袋を拾い、土を払って肩に提げ、背を向ける。腰を抜かしていた男もその後に続き、その場を去る。
彼らを囲む獣人の群れは渋々道を開き、彼らを通した。悠々と目の前を通り過ぎる男を忌々しげに睨みながら見送る。
「長老、何でだよ!?」
「お主ら、気付かんかったのか?」
もどかしく男達の方を見やりながら老人に噛みつく若い獣人。歯を食い縛り、吊目がちな眦をさらに吊り上げて怒りを露にしている。
やり場の無い憤りを一身に浴びる老人は力の抜けた溜め息を吐き、口を開いた。
「ヒト種の勇者、アトラス・ヘレニウス。『最悪の災厄』、今しがたお主らが拳を向けようとしていた奴の名じゃ」
「待ってくれってば!」
村から暫く離れた野道に二人の男が歩いていた。
獣人の国にあって、彼らには牙も爪も角も尻尾も、ましてや翼も無い。紛うことなくヒト種の人間だ。
肩に荷を引っ提げた男を少年は小走りで追う。
「ああ、貴君か」
「さっきは本当に助かったよ。ありがとう!」
「構わん。礼を言われるまでもない」
少年は頭を垂れて礼を述べる。ピッチリと両足の踵をくっつけて手の指先をぴしりと伸ばし、体側に沿わせる。頭を尻よりも深々と下げる姿に、肚の底からの感謝が見て取れる。
それに対する返答は随分とアッサリしたものだ。声のトーンに一切の抑揚が無い。本当に何とも思っていないのだろう。
「なあ、アンタの名前は?」
バッと頭を上げ、少年が男の名前を問う。
「アトラスだ。アトラス・ヘレニウスと言う」
「へぇ、アトラスさんかぁ」
「貴君は?」
「あ、まずは自分からだよな。オレの名前は──」
見晴らしの良い野道で、不意の戦闘に巻き込まれた見知らぬ者同士互いに自己紹介するという物珍しい状況。それを思い、若干の失笑を浮かべ、アトラスは少年の言に耳を傾ける。
そして、一筋の雷撃が彼の身に走った。
「六原巨人って言うんだ。えーっと、姓が六原で名前が巨人だ」
頭蓋の内側を稲妻が走った。
笑みに緩んだ面の皮は瞬く間に硬直し、限界まで目を見開かせる。
それは、彼にとって大きな意味を持つ名前。
「ロクハラ……」
無意識にその名を口にするアトラス。
まるで信じられないものを見たかのような面持ち。
彼の時間だけが止まっているように微動だにしない。出来ない。
「どうしたんだ?」
様子のおかしなアトラスの顔を覗き込む巨人。
二人の間に妙な沈黙が生まれる。彼らの肌を撫でるような風に吹かれるだけ。そこかしこで背の低い野草の騒ぐ声が聞こえる。
青い匂いが巨人の鼻腔を抜ける頃、アトラスは口を開いた。
「……同じだ」
「え?」
ポソリとアトラスは呟く。
「我が師の姓と同じなのだ。貴君は」