強く恐ろしいもりのけもの
「かかってこいやボケゴルァアアア!!」
「……はっ?!」
地獄の業火のような叫び声に、僕は目を覚ました。パルダシス侯爵邸のメイドが優しく水を差し出してくれるが、それどころじゃない。
「君、この、この叫び声はまさか……」
「ご友人が当主様とお手合わせなさっております」
「そんなぁ!」
起き上がった体がまた仕立ての良いカウチへと沈みそうになるのをなんとか堪えて、僕はその場所へと案内してもらった。
近衛第四部隊の先輩として、僕が彼女を止めなければ。
騎士アデルさんはとても強い。初日に吼えながら近衛騎士を投げまくる姿は、その場にいた全員の恐怖心に深く突き刺さるほど激しかった。最初は地獄の日々が始まるかと思ったけれど、話してみると彼女も理性ある人間だ。ときどき、少し野生的なところがあるし、ドレスを着たご令嬢が聞いたら卒倒するほどに好戦的なところもあるけれど、それでも僕らを先輩として立ててくれて、親切にしてくれる。
近衛騎士の道を選ぶ前から、人生なんてこんなものだと思っていた。
優秀な両親と兄、何不自由ない生活、そして特に何の才能にも恵まれなかった自分。劣等感を感じることもあるけれど、それも遊んでいれば忘れるほどのものでしかない。社交会に出る年になると情熱的な恋愛を夢見たりもしたけれど、現実は厳しかった。もっと上位の貴族なら、分配される資産で何代かまで贅沢できる。もしくは長男なら家と領地を継いで安泰だ。ただ、中堅貴族の三男じゃ、財産も爵位もろくに貰えない。美しい女性とは楽しく遊べるけれど、選ばれないのだろうなとはなんとなく感じた。
ほのかに感じている疎外感は、騎士になってからはなくなった。同じような境遇の人間だけが集まれば、劣等感や嫉妬に苛まれることはない。毎日がただ楽しく、そして安穏に過ぎていた。
騎士アデルさんが来るまでは。
「なんぼのもんじゃボケエエエエエオラァアアアア!!!」
「な、なんてことだ……!!」
開けられたドアから見えた光景に、また気が遠くなりそうだった。
パルダシス侯爵が軽く腕を払い退けると、騎士アデルさんが吹っ飛んだのだ。死んでしまう、と思ったかどうかのその時、アデルさんは着地するなりくるりと転がって侯爵へと飛びかかっていく。攻撃をしては離れて、攻撃されては食らいついて。
終わりかけの夜会で見る酔っ払い同士の殴り合いなんて目じゃないくらい、おそろしい光景だった。
「ローナン、大丈夫? 壁にもたれるんだ」
「ワイズ、ルーサー、なぜ彼女を止めなかったんだい! ウダン、お父上に止めるようお願いするんだ!」
「無駄だよローナン、よく見るんだ。あの騎士アデルさんを僕らが止められると思うかい?」
肩を貸してくれたワイズも、背中を撫でてくれたルーサーも、僕と同じく手が震えていた。
体の大きい侯爵の鳩尾に2度肘を打ち込んだ騎士アデルさんが、首根っこを掴まれて地面に叩きつけられる。大きな体に押し潰されると思ったら、アデルさんが侯爵の顔に何かを当てた。砂だ、とワイズが呟く間に起き上がって蹴りを繰り出す。侯爵がそれを避けて同じく蹴りを騎士アデルさんに当てようとする。
世間話で、騎士アデルさんが「森で遊んで育った」というのは聞いていた。だから野生的な部分があるのだと思っていたけれど、そんなものじゃない。
相手に吹き飛ばされても、相手が怯んでも構わず吼えて襲い掛かっていく騎士アデルさんは、森の獣そのものなのではないかと思うほどの迫力があった。体裁や、身分や目的や、そんな人間の持ち合わせている理性なんてものを綺麗さっぱりと脱ぎ捨てて、ただ目の前の敵に牙を剥く姿は気高くすらある。
彼女の何も気にしないさっぱりとした姿勢が時に羨ましく思えるときがあるけれど、この姿はもはや畏怖の念さえ覚えるほどだ。
どうやったら、あれだけ戦えるのだろう。大きくて強い相手に怯まず、怪我から血が出ても迷わず、ボロボロになっても相手に立ち向かっていけるのだろう。
教えられた格闘術や、騎士としての矜持、マナーの欠片すらない彼女のその姿は、けれど僕には何よりも騎士らしい姿に見えた。
確かに、彼女が第四部隊にいるのはおかしい。
ご婦人は戦線に立つべきじゃない。そもそも戦争なんてバカらしい。そう思っているのに、この炎そのもののような、大きくておそろしい力をこんなとこに閉じ込めておくのは「惜しい」となぜか思ってしまった。
高らかに鳴いて俊敏に飛び回り、鋭い鉤爪で相手を切り裂く。彼女のこの強さは、きっと敵国を押し返す大きな槍となるだろう。
「そこまで!!!」
急に響いた大きな声に、僕らはみんな飛び上がった。パルダシス子爵の鋭い声は戦いの中へも届いたようで、侯爵の首を腕で締め上げている騎士アデルさんも、その騎士アデルさんを背面で地面に圧しつけている侯爵も、ゆっくりと体の力を抜いてそれぞれが立ち上がった。侯爵は子爵の方へ、そして騎士アデルさんは僕たちの方へとゆっくりと戻ってくる。
いつものように気負わず歩いているはずの騎士アデルさんの体から、炎が見える気がした。投げられたあのときよりも恐ろしいと感じたのはこれが初めてだ。
騎士アデルさんが眉を顰め、俯いて傍にプッと真っ赤な唾を吐いた。
「……あの、ハンカチ持ってませんか。鼻血止まらないんであります」
赤く腫れた拳で赤いものをぐっと拭って呟いたその声に、僕はまた意識が遠のいてしまったのだった。




