1:2 『チュートリアル』
「……………………………ぇ」
この体験をどう表すべきか。
いつの間にか、生きていた。
いつの間にか、世界があった。体があった。意識があった。
本当に、この状態でこの世界に生まれたのではと思ってしまうほど、忽然な変化だった。
謎の倦怠感が確かに消えている身体を見下ろすと、肉付きや背丈は記憶にある自分の体と瓜二つのようだ。
耳を指先で触ると、ハーフエルフの証拠である少しだけ尖がった感触もしっかりと伝わった。
しかし身に着けている服装はと言うと、直前まで着用していた黒いジャージではなく、白色の線の模様が入った黒いタイツを身に着けていた。
手首足首まで肌に密着したそれは、他人に水着だと言って見せても納得するだろう。
「ここが、チュートリアル?」
広大な円状の砂場の中心にミデルは立っており、周りを見渡せば観客席と思われる巨大な石造物に包囲されていた。
つまり、闘技場だ。
観戦者は誰一人いないようだが……。
『チュートリアルへようこそ』
「お」
案内人の女性が言っていたのはこのことか。
頭の中で聞こえてくるような声は先程までの電子的なものではなく、女性の肉声にかなり近い響きだった。
『ここは試験本番で必要となる知識を提供する講座の場となります。終了時に分からない部分があれば講座を繰り返すこともできますが、一度この場からリザインすれば二度と戻れないのでよく聞いておいてください』
孤独な闘技場で棒立ちとなるミデル。
声を傾聴しょうと天を仰ぎながら聞いていたが、ふと青空に浮かぶ眩しい太陽に意識が奪われた。
何故なら、体に注がれる直射日光が確たる熱を持っていたからだ。
仮想現実でも温度とか感じられるのか。どうやって再現してるんだろうなぁ……おっと、集中しろ集中。
『視界の左上に緑色のバーが見えると思います』
視界の左上には確かに緑色のバーが現れていた。
遠近法に服さないそれには違和感を覚えてしまう。
眼鏡のレンズにシールを張り付けたと言えばイメージしやすいだろうか。
それに、他の所に目線を移しても全くブレない。
左右の目の位置に合わせていたりするのだろうか、良くできたものだ。
バーのすぐ横には『50』と記された数字も見える。
『緑色はHPバーであることを示しており、50の数はHPの数値を表します。HPとは、つまり残りの体力のことです。0になると30分前にいた場所と状態へのリスポーンが起きるのでご注意ください』
だいぶ大雑把にまくし立てられている気はするが、ギリギリ追い付けている。
『卑域』のテレビ画面に映るヒーロー・ゲームを見るだけでは、こういった詳細な内容までは知れないのだ。
『攻撃を被った場合、その攻撃の威力と攻撃を被った体の部分によって削られる量が測定されます。HPは睡眠をとること、又はフィールド上に存在する食物や商店などに売られてある薬を飲食することで回復することができます』
プレイヤーが食物を食べる場面なら幾度も見たことがある。
ゲーム内で腹を満たす理由がずっと分からなくて気になっていたが、ここでやっとその疑問が晴れたわけだ。
『HPバーの下に、三つのハート形の印が見えると思います』
言われた通りに❤❤❤が出現する。
水色のそれらは大切であると主張するかのように点滅している。
『ライフと呼ばれるもので、HPバーが0に陥ると一つ失います。三つとも失えばゲーム脱落となりますので気を付けてください』
説明の内容に合わせて、❤の一つが黒くなったり三つとも黒くなったり、視界の中心に『GAME OVER』の文字が現れたりする。
分かりやすくて有難い。
ライフ、即ち命か。
ライフの数だけ状況とか立ち回りとか変わってくるんだろうな。
『これでステータスの講座は以上になります』
「お、速いな」
どうやら身の上で気にしないといけないことはHPとライフの二つだけらしい。
もっと複雑な設定などを想定していたために少し意外だ。
『次に、左手首に括られたリストマップについて説明します』
左手首を見てみると、いつの間にか白い腕時計のようなものが括りつけられてあった。
いや、気付いていなかっただけだろうか。
『下部に位置してある赤いボタンを押してもらうと、フィールドの地図が表示されます』
重さを感じないそれを眼前まで持ってきて見ると、分かりやすいように赤いボタンが淡く点滅している。
押してみる。
「うお!?」
腕時計――『リストマップ』の上に、島が浮かび上がった。
正確には、地形を無数の線で象る透き通った50㎠程の立体地形が浮かび上がった。
そして、島ではなく、闘技場が浮いていると言った方が正しい。
今自分がいる世界を示すマップだ。
『マップ上には二つのマークが浮かびます。自分の居場所を記す黄色い三角形と、姫様の居場所を記す赤い点です』
声が言う通り、その二つのマークが立体地図上に見て取れる。
闘技場の中心に黄色い三角形、そして……自分の眼前に位置された赤い点?
そんな筈がないと正面に視線を戻すが、少し離れた位置にいつの間にか姫様の人形が置かれていた。
世界に勝手にオブジェクトをポンポンと沸かせているのか。
『ヒーロー・ゲームでは、その赤い点に居る姫様を先に救済できた者が勝者となります。ルールはそれだけになります』
そう、プレイヤーが従うようなルールがそれ以外にないことが、このゲームの特徴である。
囚われた姫を、勇者が救いました。
――その一文から、物語を構築することができる。
即ち――、
『ゲームの内容によって新たなルールが追加される時もありますが、その時は臨時応変に対処する能力がプレイヤーに求められます』
その一文を取り巻く世界が、人が、物語が、毎回異なったもので毎回ユニークであると言える。
確かに今まで目を輝かせながら見てきたヒーロー・ゲームの中でも奇抜な内容のものは幾つもあった。
ミデルのようにゲームに憧れていつも見ていたとしても有利であるとは言い難い。
内容がどれも違って勉強の仕様がないからだ。
『続きまして、戦闘に慣れるためのトライアルを開始します』
「ちょ、いきなりかよ」
ルール説明から突然そう切り出してきた声。
直後、ミデルの正面にあった姫様の人形が黒く変色し始める。
いや、変色ではなく、この世界から取り除かれた虚無の空間がそこに現れたと言うべきか、人形を象った黒い世界の中で無数の水色の曲線が錯綜しているのが見える。
そして、完全に消失されたかと思うと、今度はミデルの眼前の地面と少し遠くの方に二つの新たな『黒い虚無の物体』が出現する。
そして、1秒もしない内に、一本の剣とスライムのような生き物がそこに出来上がる。
『正面に見えるスライムを倒し、チュートリアルを終了します』
声がそれ以上のことを発することはなかった。
あとはプレイヤーに任せた、と言うことだろう。
眼前に置いてあるごく普通の片手剣を持ち上げる。
「……剣か。いいね。これはいいぞ。来たぞ来たぞお! かかってこいやスライム野郎‼」
水色の生々しい物体がミデルに飛びついてくることもないが、一人、ついに勇者の気分を味わい興奮してしまっている。
これがしたかった。
ずっと、ヒーロー達がするみたいにモンスターを凄烈な一閃で屠りたかった。
「おっらああああ‼」
一方的な力の差にも関わらず、強敵を殺しにかかる勢いで突進。
――スライムの中にある心臓のような赤い球体目掛け、渾身の一振りで斬り掛かる。
シュパーン!と、水風船が割れた時のような音が闘技場に響く。
見れば、そこにいたスライムは軽々と姿を消していた。
「……え、弱くね?」
剣を振る快感は良かったが、少し物足りない気がした。
『戦闘に慣れるためのトライアル』と声は言ったが、これでは意味を為さないのではないだろうか。
これからもっと強い敵と戦うのか? と思ったが、
『よくできました。これでチュートリアルは終了しますが、もう一度受けることを望みますか? 一度抜けると再受講はできません』
「……え、えと……」
想定する流れの通りに進まず、少し混乱してしまう。
これで講座はもう終わりとなるのか。
スライムをもう一度斬りたい気持ちもあるが、最初のステータス説明をまた受ける気にはならないな。
と言っても、どうやって返答するんだ?
選択肢のような表示パネルも現れないが、口で言えばいいのか?
「い、いいえ。望みません」
『分かりました』
「おおえ?」
途端、ミデルのいた闘技場が姿を消し、水色の曲線が無数に蠢く漆黒の世界が身を包む。
『リザインと口にすれば現実の世界に意識を戻すことができますが、これからプレイヤー様が訓練を行える場所となる練習場への転移もできます。練習場への転移を望みますか?』
練習場か。
想像するに、剣を手にしてモンスターを斬りまくる訓練とかもできるのだろう。
見てみたいし、現実世界に戻る理由も今はない。
「……はい、望みます」
『分かりました。チュートリアルお疲れ様でした』
「え? お、おお……」
人工知能である声がそんなことを言うとは思わなかった。
女性の声なのもあって、肩を跳ねさせてしまう。
ブウウン、という音と共に、ミデルの周りを蠢いていた無数の曲線が動きを加速させる。
この感覚を表すなら、巨大なボールの中にいてそのボールがいきなり回転しだしたような感覚だ。
そして5秒もしない内に、ミデルの足元から明白な地形を象った線が周囲に拡張する。
瞬く間に広がり、遠目には山と思われる放物線も形作られている。
地形の拡張が見えなくなった頃、形しか存在しなかった世界が色を取り込み始める。
「…………なるほど」
石壁に囲まれた、広大な草原。
間隔を空けて点在する樹木と色の薄い草は、サバンナのそれを連想させる。
そして、随所に設けられた人工物――藁人形を集めた場所や矢を射る的を張り付けた壁などは、プレイヤーが訓練をするところで間違いないだろう。
丁度今、ミデルと同じ黒のタイツを身に着けた人物が矢を――。
「……共同、か」
間違いない、あれはプレイヤ―だ。
他にも、施設と向き合って訓練に励んでいるプレイヤー達の姿が目に入る。
その数、ざっと10人ぐらいだろうか。
練習は一人で行うものと思っていたために、少しの緊張が胸を襲った。
「まあいい、とりあえず剣の練習でもしておかないとな」
今から試験本番まで残り一週間。
その間、この場所で練習に励むことになる。
ここで技量を身に付けるか付けないかで、本番での差が生まれるだろう。
幸いなことに誰も使っていなかった近くの施設へ赴く。
剣の練習ができるところらしい。
広い範囲を柵で囲まれたそこは、実際のモンスターAIと交戦できる場所となっている。
武器を手に取り、ポンポン湧いてくるモンスターを屠り続ける。
「ふぅ、気持ちいぜぇ!」
自分がヒーローになるシーンを妄想しながら敵を斬るのは最高の気分だ。
それに、意外と動ける。
自分自身、剣に才能があるのではないかと思ってしまうほどだ。
これなら、試験本番も無双してヒーローの座を勝ち取れる筈!
「――とは、いかないんだよな」
ミデルは、知っている。
テレビ画面でゲームを幾度も見てきたミデルは、これだけは知っている。
ゲーム内で、敵になるのはモンスターではない。
彼等がプレイヤー達に与える脅威など、比較的小さいものであると言っていいだろう。
最恐の敵は無論、共に戦うプレイヤー達。
所詮、一番先に姫様を救うのが勝利の条件だ。
どんなに聡明で狡猾なプレイヤーと戦うのか分からない。
「つまり、彼らと共同でいるこの場も危険地帯……できれば俺と絡んでほしくないんだが……」
剣の鍛錬から一呼吸置く、そんな頃。
――遠目に、可憐な少女がこちらへ歩むのが見えた。