研究バカと過保護さん
「ハイジ! お前どうしたんだよ!?」
「え、何が?」
「何がってお前のその格好に決まっているだろう?」
いつもはアイロンがかかってパリッとしたブラウスはしわしわで。ハイジの特徴とも言える綺麗な黒髪サラサラストレートはぼさぼさで寝ぐせまでついている。
そんなことをあいつが許すなんて、今日は午後から雹でも降ってくるのだろうか?
周りのゼミ生たちはいつもハイジの身の回りの世話をしている人物がいることを知らないから、ハイジに熱でもあるのではないかと心配している。
俺はその心配はしていない。
だって、バカは風邪をひかないっていうだろ?
研究バカのハイジが風邪なんかひくわけがない。
それにハイジが風邪をひくことをあいつが見過ごすはずがない。
そうハイジの幼馴染兼恋人の浩司が。
「浩司、風邪でも引いたのか?」
「いんや? こうちゃんなら元気だよ?」
「じゃあ、旅行にでも行ってるのか?」
いつも半日以上家を離れる時は俺に『ハイジを頼む』とメールを送って来る浩司からは何も連絡をもらっていない。
だが、浩司がいるにも関わらずこんな格好でやってくることは今までなかった。
「ううん。こうちゃんなら家にいるけど?」
「じゃあ、何でお前そんな格好してんだよ!? いつもは浩司がしてるんだろ?」
「ああ、それ? もういいって言ったの」
「は?」
一人じゃ何も出来ないハイジがお世話を断るだと?
天変地異の前触れか何かかと悪寒が走る。
「こうちゃんも恋人がいるのにさ、いくら幼馴染とはいえこんな奴の世話させられているなんて不憫じゃん」
「お前、何言って……」
恋人はお前だろ?
大学1年の時に浩司と恋人になったんだって嬉しそうに話してたじゃないか。
「いや、波留ちゃん。考えてみなよ。こうちゃんも私もいまやもう立派な大学生」
「お前を立派と言っていいかは疑問だけどな」
今時小学生でも自分の服にアイロンがけできるし、3つになったばかりの俺の姪っ子は最近自分で髪の毛を梳かすようになった。
それらの行為を一人じゃまともに出来ないハイジを『立派』とは認められない気がする。
「まあ、そこは置いといて」
「置いとくなよ!」
「大学生ともなれば恋人の1人や2人できてもおかしくはないわけで」
「2人はいちゃまずいだろ」
うちの学内には5人の彼女がいる奴もいるけど、彼は彼でうまく彼女たちとやっているから一概にダメだと否定するのはよくないのかもしれないが……。まぁ一般的には二股とかはあんまり良くないと思う俺は多数派だ。
「コウちゃんにも恋人がいたのですよ」
「話聞けよ! って、いるだろうよ。浩司にもお前という恋人が。それをなんだ。まるで、浩司の恋人がお前ではないみたいに言いやがって」
「うん、だからね、私とこうちゃんは別に付き合ってなかったの」
「……何を言っているんだ? お前、浩司と付き合ってるって言ったじゃないか」
そうハイジの口から聞いたのはもう四年も前の話。
中学の頃から二人を知っている俺としてはやっとかよ!とツッコミをいれたいくらいには知り合った当初から付き合ってはいない二人をいじらしく感じていたのだった。
だから報告を聞いたときには喜んだ。これが孫の成長を見守るおじいちゃんの気持ちか!とも思った。今になって思えばそれは大幅に違うものなのだが、その時の俺は少し冷静さを欠いていたのだ。6年以上も見守り続けてやっと……だぞ? 少しくらい冷静じゃなくなったっていいじゃないか。
だがその時と同じくらいには俺は今、冷静さを欠いている。
以前のように一気に手放したわけではない。着々と、ハイジの話を聞くたびに、だ。
「だから、それ。私の勘違いだったの」
「勘違いって、そんなわけがないだろう!」
「コウちゃんは多分私と付き合ってるつもりなんかなかったんだよ」
「は?」
こんなにも声を荒げてしまうのは初めての経験で、二度目があるのかさえハッキリしない。
あるとするならば、将来億が一の確率で出来た娘が初めての彼氏に浮気されたら……なんてシュチュエーションに出くわした時くらいだろう。
俺にとってのハイジは同級生や友達というより娘や孫と同格なのだ。
「最近、うちのゼミ忙しいでしょ?」
「まあ、そろそろ学期末に向けて論文とかのための実験とかやらなきゃいけないからな」
「なかなかこうちゃんに会えなくて、この前連絡なしに会いに行ったら」
「会いに行ったら?」
「姉さんの声がした」
「和江さんの?」
ここでようやく少しだけ冷静になる。
ハイジの話がおかしいことに気づいたのだ。
初めから思えば、ハイジバカの浩司がハイジ以外の女のことを考えるだろうか。答えはノーだ。新種のウイルスに感染して頭がおかしくなったとしても浩司のハイジバカは治らないと断言してもいい。
「うん。楽しそうだったよ」
「そんな……」
ありえないだろう。
ありえたとしてもそれはシスコンを拗らせている和江さんとハイジバカの浩司によるハイジについての会話ではないのか。
「よく考えてみれば私と付き合っているって言われるよりも姉さんと付き合ってるって言った方が自然だな~と思って」
「は?」
「私とこうちゃんって二人でデートとかしたことないの。いつも私と姉さんとこうちゃん、三人でお出かけするの」
「あれって俺が一緒に行くときだけじゃなかったのか……」
俺が初めて出会ったときにはすでにシスコンを盛大に拗らせていた和江さんはハイジがどこに行くにもついて行っていた。そして連れて行った。
今でこそ少しだけ、ほんの少しだけ妹離れが成功した和江さんは長年ハイジの友人を務めている俺を信頼して、俺たちとは別の大学へと進学を決めたのだった。
理系で研究バカのハイジと文系で理論責めが得意の和江さんではそもそも進むべき道が違いすぎたのだ。
無事に別の、その手の有名な大学へと進学を決めてくれた時にはハイジと和江さんの両親から深く感謝されたものだった。
さすがにお礼にと用意された高級腕時計は遠慮したが……。
まぁそれはともかくとしてハイジとは別の大学に通っている和江さんだが平日に過ごせる時間が減った分、休日は常に一緒に過ごすようになり、俺とハイジが論文作成のために資料採集をする時なんかは必ずついてくるのだった。
俺は友人で、和江さんのこともよく知っているからあまり気にはならないもとい諦めていたけれどまさか彼氏との時間にまでも食い込んでくるとは思わなかった。
「うん。いつも一緒。よく考えてみればおかしいよね」
「いや、もっと早く気づけよ!」
「あれ、私が姉さんのおまけって考えるのが普通よね。で、気付いたからにはさすがにこれ以上は邪魔できないじゃん」
「……邪魔って」
もう俺はどこに突っ込めばいいんだ? ツッコミどころが多すぎて俺だけでは無理の域に達している。
もう突っ込むのは諦めて話を最後まで聞くことにしよう。
うん、それがいい。
「邪魔でしょ? 私のせいで姉さんとこうちゃんは二人の時間が減らされてるんだよ? 姉さんもこうちゃんも互いが不足して死なないといいな~」
「死ぬなんて大げさだろ?」
「え? でも、佳枝ちゃんは王子が不足して死んじゃうってよく言ってるよ?」
「あれはただの冗談だ」
「でも佳枝ちゃん、イベント?とかがあると王子補充してくるわって言って颯爽と去っては、元気な顔で帰ってくるよ?」
「あれは……。その……なんだ、あいつを基準にするな」
「そうなの?」
「そうなの」
ハイジと俺の後輩、佳枝は産まれもった整った容姿が原因で過去に色々とあったらしく、男性は二次元!と決め込んでいるのだ。俺も彼女がゼミに入ってきたときには苦労した。まさか上着を取ってやっただけであそこまで拒否反応を示されるとは思わなかったのだ。あれから色々とあってハイジの保護者認定された俺は無事交流を図れるようになったのだが、それでも彼女の男性不信が完全に治ったわけではない。人並みに恋はしたいが現実世界に彼氏は作りたくない彼女はイベントをデートと呼んでは度々着飾ってはイベント会場へと赴くのだった。
佳枝の生き方を否定するつもりは全くないが、彼女基準で物事を考えるというのは肯定できない。
彼女はほんの一例に過ぎないのだ。
「そっか。姉さんもこうちゃんも死んだりしないんだね。それでね、二人の仲を邪魔しないためにも独り立ちから始めようと思って」
「思った結果がそれか……」
やっと知りたかった真相に辿り着けた。
けれどそれは呆れることしかできない、ハイジの色々と偏った考えは特殊な環境によって導き出された答えだったのだ。
「うん、自分にしては頑張ったかな? って」
「どこがだよ……」
ボサボサの髪もシワシワのブラウスも頑張った結果からは程遠い品物だろう。それのどこを賛美すればいいというのだ。
呆れながらも聞いてみるとハイジの口から出たのは驚くべき言葉だった。
「遅刻しなかったところとか?」
「もしかしてまだ誰かに起こしてもらってたのか……」
中高と和江さんが毎朝ハイジのことを起こしていたのは知っていたが、大学生、それも院生になった今でも起こしてもらっていたとは誰が思うか。
今は目覚まし時計なり、携帯のアラームなり自力で起きる方法があるというのに、まさかその文明の利器を全くもって利用しようとしないなんて……。
「うん。でも今日はちゃんと自分で起きたよ」
「胸を張るな! はぁ……まぁいい。おまえちょっとそこ座れ」
まぁ、ハイジらしいといえばらしいのだが……。
近くの椅子にハイジを座らせ、髪を梳かしてやる。俺も和江さんや浩司ほどではないが、それなりにハイジの世話には慣れている。
髪が短く、ブラシなど携帯する必要のない俺のバッグに必ず小さなブラシが入っているほどには。
「波瑠にはお世話になっちゃうね〜」
「そんなの今さらだろ……」
服はどうしようもないにしろ、髪なんて梳かせば短時間でどうとでもなるもので、すぐに持ち前のストレートヘアーになったハイジ。この様子だともしかして朝ごはんもろくに食べていないのではないかと試しに聞いてみればドンピシャで、服と髪をどうにかするのに手間どって朝ごはんは何も口にしていないと答えた。
「ほら、食え」
そんなハイジにとりあえず俺の弁当をやると「いただきます」と行儀よく手を合わせてから美味しそうに食べ始めた。
10分後、弁当箱を空にしたハイジはお腹も一杯になり眠くなったのかスヤスヤと眠り始めた。
子どものようだが、これがハイジという人間だ。
こんな姿を見慣れている俺としては人に気を使って生活するハイジは心配になってくる。好きなように生きるのが何よりハイジらしいと思うのだ。
ロッカーから小さく丸めたハイジ専用のブランケットを取り出して、風邪をひかないようにと掛けてやってから俺は浩司に連絡をした。
ハイジがあの様子なら浩司なんてもっと酷いことなんて予想はついている。
連絡してから一時間と経たないうちに浩司はやって来た。
あまりの早さに本当にこいつは社会人かと疑ってしまう。
俺やハイジは院に進んだが、浩司はいち早くハイジを養うための金が欲しいと社会人になることを選んだ。
そんな浩司がこんな中途半端な時間に会社を抜けていいはずがないと思うのだが……。
「早かったな、仕事は?」
「そんなん先輩に押し付けて来た」
「それはダメだろ……」
「大丈夫。先輩も行ってこいって言ってくれたから」
使い物にならないだろうとは思っていたが、入社2年目にして先輩にそこまで言わせるとはこいつは一体何をしたんだ?
俺の疑問を横目に浩司はひたすらにハイジのことしか考えていないようだ。
ハイジが相変わらずハイジなら、浩司もいつまでたっても浩司なのだ。
人はそう簡単には変わらないだろう。
「で、ハイジは今どこにいる!」
「昼飯食わせてから、研究室で昼寝させてある」
「…………そうか。悪い、な……」
ハイジは一度寝たらそう簡単には起きない。そのことを浩司は俺よりもよく知っているからかさっきまでの勢いは削げおちた。
そんな浩司に一応、確認とまでにあの話を切り出す。
「浩司、ハイジと付き合ってないって本当か?」
「何をバカな! 誰からそんな話を聞いた? 教えろ、吊るし上げてくる」
「ハイジ」
「は?」
「ハイジだよ、ハイジ。今回変なこと口走ったのもお前と和江さんが付き合ってると思ったかららしい」
その様子をみるにやはりハイジの勘違いだったらしい。
だが今回の出来事はハイジが一概に悪いとはいえない。
「何でそんな……」
「この年になって三人でデートとかありえないだろ」
「は?」
「それが原因だ」
そもそもなんで彼氏と自分の姉と三人でデートするのが恒常化しているのか。
おかしいだろ!
誰一人疑問に思わなかったというのだから不思議なものだ。
普通のカップルだったら数回こんな状況が続いたら別れたっておかしくはない。
「だってハイジ、喜んでたぞ?」
「………………今まで気にしなかったぐらいだからな」
ハイジは研究バカで、常識力が異常なまでに欠如しているのだ。
「波瑠、俺どうすればいい? ハイジが他の男に取られる前に男って性別の持ったやつを端から再起不能にすればいいのか? だけどハイジは魅力的だから女に言い寄られないとも限らないし……。だったら人間にカテゴライズされる全てを狙ったほうが……「待て待て待て待て。落ち着け、とりあえず落ち着きなさい」
浩司はハイジのこととなると途端に頭のネジが数本外れてしまう。
この冗談にも聞こえるセリフは浩司ならやりかねない。ハイジのこととなるとどこまでの本気で狂うのがこの男なのだ。
たまになんで俺はこんなやつらと友達になったのだろうと疑問に思うことがある。
だがきっかけなんていつのことだかわからないし、こいつらの世話をするのはもう生活の一部となってしまっているのだから俺もなかなかなのだろう。
「まずは誤解を解くんだ」
「あ、ああ。そうだな!」
「次にハイジのことが好きなことをちゃんと伝えなさい」
友達というより父や祖父、はたまた先生といった立ち位置のような気もするが。
「どっからどこまで? 全部?」
「ハイジが飽きて寝る直前くらいまで、かな?」
「それじゃあ俺とハイジが天文学的可能性で起こした奇跡的出会いしか語れないじゃないか!」
「………………その先は分割して語って行け。どうせこれからも一緒にいるつもりなんだろう?」
「例えこの世を去ろうとも離れるつもりなんてあるわけないだろう?」
「はいはい」
面倒臭くなったハイジバカの浩司を適当になだめ、ハイジの眠る研究室へとそろそろ案内することにする。
ここは夕方の学内とはいえ、まだ人も多い。浩司がいくら世に言うイケメンだとはいえ、ここまで偏執的なまでの愛を語っていたら奇異な目を向けられるのだ。
研究室の扉を開けるとすぐに目を擦るハイジの姿が目に入った。
一度眠りについたハイジがこんな短時間で起きるとは珍しい。
「ハイジ、起きてたのか?」
「んー」
「ハイジ!」
「コウちゃん!? なんでいるの?」
「ハイジが心配で……」
「コウちゃん。あのね、私ね、一人でもやっていけるから!」
「え?」
「髪は面倒くさいから切っちゃえばいいし、うちからだったら今から申請すれば来期には学寮借りられるだろうからアラーム5個セットしとけば朝からの講義でもなんとか間に合うし。それに最近のクリーニング屋さんは下着までお洗濯してくれるんだよ!」
「ハイジの髪を他人に触らせる? どこの野郎かわからないやつの手垢なんてつけさせてたまるか! 学寮なんかに入ったら会う時間がますます減るだろう? アラームなんてそんなものに頼らずに今まで通り俺や和江が起こしてやる。それに下着の洗濯なんて機械にだってさせるわけがないだろう?」
「コウちゃんは心配しすぎだよ。私、もう子どもじゃないんだから!」
どの口が言うか!とは突っ込まないでおくのは俺なりの優しさだ。
そしてこの部屋を無言で後にするのも俺なりの優しさなのだ。別にこれ以上聞くのが面倒臭くなったとかではない。
ただ次の時間の授業に俺だけでもでないと授業の内容が二人揃ってわからなくなってしまうからだ。