寝台の上にて
ちょうどフェヴリードが少女を見つけたのと同じ時刻、マリネはソフィアの部屋の扉を叩いていた。
昨日はソフィアが広間から飛び出しても、あえて追いかけることはしなかった。
ソフィアが心配だったのだ。
結婚という大事な話をいきなり聞かされ、驚いたに違いない。
今は一人にしておいた方がいい。
そう他の侍女達に伝えたのは自分だった。
「姫様、マリネでございます。朝食を運んで参りました。」
マリネは昨夜のことを謝罪しなければ、と思っていた。
冷静な頭で考えると、侍女はともかく騎士までソフィアのそばから離れたのは間違いだった。
いくら一人にした方がいい時だったと言っても、ソフィアはこの国の姫なのだ。
もう一度扉を叩いて、入ってもよろしいですかと問いかける。
しかし、返答はない。
マリネは不審に思った。
(お優しい姫様だから、いつもお返事をくださるのに。)
「姫様?…失礼致します。」
マリネはゆっくりと部屋の中へ入った。
そしてぐるりと見回す。
部屋自体はほとんど何も変わっていない。
本棚もある。テーブルもある。奥に寝所もある。格子付きの小さな窓も変わっていない。
それなのに、何故。
何故、これほど空っぽに見えるのだろう。
マリネはその理由に気づき、その場にぺたんと崩れ落ちた。
そう、部屋は何も変わらないのだ。
ただ部屋の主がいないだけで。
「だ……だれ、か。誰か…っ!姫様⁉︎…姫様ー!」
マリネは思わず叫んだ。
しかし、部屋は変わらず空っぽなままだった。
* * *
彼は馬が苦しそうに鳴いているのに構わず、必死で駆けさせていた。
薄い金色の髪に汗が滴っている。
彼、ターズはソフィアの騎士だった。
と言っても四六時中そばにいる様な騎士ではなく、騎士団長というものだ。
つまり、部下に指示を出すのが仕事なのである。
しかしターズとソフィアの関係は姫と騎士というだけではない。
従兄弟であり、そして…。
目を閉じると、ふとあの時のことが浮かぶ。
ーーー私と『友達』になってくれる?
「……ソフィア…っ!」
自分があの時そばにいれば、何か変わっていただろうか。
ソフィアが…彼女が城からいなくなることもなかったのだろうか。
「いいや、あいつがどんな風に生きてきたのか俺はよく知っている。」
こうなることは仕方のないことだった。
しかし、止めることはできなくても、自分もついて行きたかった。
それができていたなら、自分がそばで守れるのに。
ついさっき出された王からの勅命を思い出す。
『連れ戻せ!どんな手を使ってもだ…っ!』
明らかに、王のその言葉は娘を心配してのものではなかった。
それにターズにはずっと疑問に思っていたことがある。
(何故十年間もソフィアをあの部屋から出さなかった?この国の王女でもある娘を…。それにさっきの王の言葉。)
…どんな手を使っても。
王はそう言ったのだ。
ターズはぞっとした。
(王は…何を恐れているんだ…?)
彼の馬は悲鳴を上げ始めていた。
* * *
ソフィアは首を傾げた。…おかしい。
昨夜は気が動転していたのか、本当に何も考えずに城から逃げ出してきてしまった。
城からは、中から外へ逃げ出すことは考えられていないのかすぐ抜けられたのだが、敷地だけで城自体の面積の何倍あることをソフィアは知らなかった。
足はぱんぱんに腫れている。
小さな部屋から十年間も外に出なかったせいで、ソフィアの足は長時間歩くことに慣れていなかったのだ。
見張りの兵を避けながら敷地から抜け出した時には、心身共に疲れ切っていて、街中で力尽きて木陰に倒れこんだところまでは覚えているのだが…。
ーー何故か今、寝台の上にいる。
しかも明らかに城、ましてやソフィアの部屋のものではない。
(兵に捕まったわけではなさそうだけれど…。)
もし、兵に捕まったとしても、もう少し待遇はいいはずだ。一応は王女なのだから。
「おー、起きた起きた。ほい、これ。朝ごはん。」
突然扉の向こうからひょっこりと見知らぬ男が現れ、ぎょっとしていると、ソフィアの額に美味しそうな匂いと共に軽く衝撃がきて、それは寝台の上に転がった。
思わず額を押さえる。
転がったそれを見ると、パンだった。
「……悪い。まさかキャッチしてくれないとは思わなくてさー。」
ソフィアが無言で見ると、男は困り顔で首を掻いていた。
いやいや、そんな困り顔されても。困っているのはこっちの方である。
なにしろ、初対面で顔面にパンを投げつけられるなど初めての経験なのだから。
男が近づいてくる。その分だけソフィアは寝台の上で後ずさった。
しばらく無言で見つめ合う。
変わらず相手は困った顔のままだ。
男の髪は珍しい漆黒で目を引いたが、ソフィアには彼の瞳の方が印象に強く残るものだった。
冬の夜空のように美しく静かで、しかし月よりも激しく強い光を灯した色ーー…。
沈黙に耐えられなくなったのは男が先だった。
「えーと…。あー、そう、君誰?」
男から発せられたその問いに、少し顔をしかめる。
ソフィアの表情を見て男は焦ったように手をばたばたと振った。
「あ、いや、自分から名乗るべきだよな、うん。」
単純に、名前を正直に言うのは良くないのかと思っただけで、別にそういう意味でしかめたわけではないのだが、男は意外にも礼儀を重んじる人のようだった。
寝台に座るソフィアの前に膝を折る。
「俺はフェヴリードという。フェル、と呼んでくれたらいい。」
フェルはいたづらっぽく笑い、そして。
ーーソフィアの手の甲に唇を落とした。
「………っ。」
普通の姫ならば、こんな事にも慣れていて慌てず対応できるのだろうが、生憎ソフィアは普通の姫ではない。
かと言って、普通の少女と同じく頬を赤らめて恥らうかといえばそうでもない。
ソフィアは少し固まり、しかし瞬きもせず、
彼を見つめた。
ただ、見惚れていたのだ。
それはふざけているにしては、あまりにも美しく、優雅な所作だった。
「それで?お嬢さんの名は?」
夜空の太陽のような瞳が自分を突き刺す。
何故か、嘘は許されない、そんな風に感じた。
「私も…ソフィアで、いいです。」
「分かった。」
嘘は言わなかった。
しかし、真実も言わなかった。
フェルは頷いた。まるで、それが当然だとでも言うように。
「まーとりあえず、ここじゃ話もなんだから移動しよーか。」
ちらりと、寝台を見て苦笑する。
フェルは立ち上がり、ソフィアの手を引いた。
ソフィアにとっては、自分の手を引くその腕がなんとも不思議なものに思えた。
自分的には少しずつ長くできているのではないかと思っています。
もっと一話を長くできるように頑張ります!