黒い男と栗色の猫
頭の中をぐるぐると単語が回る。
つまり、父はソフィアをテルス王国の王子と結婚させようとしているのだ。
「王子に今日、こちらに来て頂こうと思っていたのだが…先ほど言ったように好奇心旺盛な方でな、街に出ているらしくすぐにはこちらに来れなかったらしい。」
バルガもええ、と頷く。
「まったく、困ったものですよ。なんの連絡もなくふらふら出て行くので、こちらにとっては迷惑なことです。しかし…。」
くすり、とソフィアを見て笑う。
「可愛らしい姫君が妻となってくださるなら、きっと王子も良いところを見せようと仕事をしてくださるかもしれないですな。」
ソフィアは俯いていた。
バルガはそれを恥ずかしがっているのだろうと思い、言葉を続ける。
しかし、ソフィアは自分の震える足を見ていた。
きっと今の自分の顔は酷いだろう。
この時初めて自分の長い髪に感謝した。
それでももうこの場でバルガや王の話を聞くのは限界だった。
気がつくとソフィアは震える足を扉の方へ向けていた。
(知らなかった。…知らなかっ…た…。お父様にとって、私は…そこまで要らない子だったの?)
侍女達の驚いたような声が聞こえたがソフィアの足は止まらない。
息が上がり、ようやく立ち止まった場所は鳥かごや荷物を隠した場所だった。
誰も追いかけてきてはいなかった。父も侍女達も、騎士達も。
「あ、あぁ、あ…」
知らないうちに漏れていた声を止めるために口を押さえる。
けれど、頬を流れる暖かいものを止めるすべは無かった。
(役に立たないから?…つまらない子だから?)
そうだとしても、あんまりではないか。
ソフィアはまだ、十六歳なのだ。
今まで、侍女と自分の騎士達…そして父、そのぐらい少数の人間としか会話をしていない。
今日初めてまともに部屋から出たというのに。
「それなのに…結婚…?…嬉しいわけーー!」
広間の方から音楽が聞こえてくる。
今頃父は何事もなかったように客人達の相手をしているだろう。
侍女や騎士達も困った顔をしながらも自分の仕事に勤しんでいるだろう。
誰も本気でソフィアのことを心配してはいないのだ。
「…良いじゃない。どうせ要らない子なら…自由に暮らしてやる。」
鳥かごと少ない荷物を持って立ち上がる。
ソフィアは笑おうとしたが、鏡を見れば歪んでいることは間違いなかった。
* * *
「うぅ、さみーなぁ…。」
フェヴリードは大きく深呼吸した。
身体の中に夜明け前の澄んだ空気が入り込む。
まだ薄暗い空の下、この地域では珍しい黒髪と同色の瞳を持つ彼は、欠伸をしながら、城下町を歩いていた。
「あいつら、今頃は俺がいないのに気づいて大騒ぎしているだろうなー。」
鼻歌を歌いたい気分だ。
彼には連れが大勢いたのだが、あまりにも鬱陶しかったのと一人になりたかったため、隙を突いて逃げ出してきたのだった。
「まーでも、あいつらが悪い!だから、仕方がないな!うん。」
見つかったら酷く怒られるだろうが、今はそんなことはどうでもいいことだ。
彼はこの一時の自由を楽しもうと決めていた。
一人ということを味わいつつ、あてもなく彷徨うように歩く。
実は、行き先も何も決めていないのだ。
それでも彼は上機嫌で足を止めない。
楽観的過ぎるこの性格のせいで、彼の周りは大いに迷惑を被っていたのだが、本人はそれすらも気にしないため、周りは揃って溜め息をつく羽目になるのだった。
しかし、楽観的な彼の足もさすがに危険を感じれば止まるものだ。
不意に感じた気配に身構えるが、さわさわと草木が揺れるのみ。
「猫…のはずはねぇよなー。」
それにしては、気配がはっきりしすぎている。
フェヴリードは大きく深呼吸して緊張を解いた。
おそらく、相手は気配を隠すつもりがない。
それにこんな街中で何かあるはずもないだろう。
そう考えて、ゆっくりと辺りを見回す。
そして見つけた、木陰に隠れていた”それ”は
やはり、猫ではなかった。
「……えぇ…?」
彼の見開いた目の先にいるのは、人だった。
長い長い栗色の髪に包まれて、少女は草花の中に横たわっていた。
「…どーすりゃいーんだ?…これ。」
いつも周りを困らせている彼は、珍しく、心底困った顔で溜め息をつくことになった。