王女と公爵
その後、こっそりと用意しておいた荷物と青い鳥を舞踏会が開かれている広間の近くに隠し、ソフィアは大きな扉の前で深呼吸を繰り返した。
それを見た侍女が苦笑しながら、そんなに緊張しなくても、と言う。
ソフィアの緊張の理由を知らないのだから、当然だ。
ソフィアの心を罪悪感が締め付ける。
たとえ、一度だけでもソフィアが城から逃げれば、侍女や騎士達は責任を取らされるかもしれない。
「…それでも、私は…。」
思わず口からこぼれた言葉に先ほどの侍女が
不思議そうに首を傾げている。
ソフィアはそれを誤魔化すために、ことさらゆっくりと目の前の扉を開いた。
そこは、ずっと部屋の中にいたソフィアにとって別世界のように見えた。
壁には触れれば壊れてしまうのではないかと思うほど繊細に作られた美しい装飾が。
上を向けば大きすぎるシャンデリア。
磨かれた床は、それ自体が光を放っているかのようだ。
なるほど、やはりソフィアは城で過ごしていながらも城のことを何ひとつ知らないのだ、と深く感じさせる部屋だった。
この、ソフィアの部屋の二十倍くらいはありそうな広間では、美しい人々が手を取り合って踊っている。
少しの間ぼうっと眺めていると、後ろから侍女が少し困ったような声で、「姫様…」と言うのが聞こえた。
ソフィアは、はっとして最初の一歩を踏み出す。しかし人が多すぎて、どこに父がいるのか分からない。
知らない場所、知らない人々に目を白黒させていると、四十歳ぐらいの男が近づいてきた。ソフィアの前で礼をする。
「はじめまして、ソフィーリア姫。私はバルガ・テルミスと申します。」
「は、はじめまして、…バルガ…伯爵?」
この舞踏会は大きいもので伯爵や伯爵夫人が多いと聞いていたソフィアはバルガのこともそうなのかと思ったのだが、バルガは少し驚いた顔をして、それからにこりと笑って言った。
「いいえ、私は伯爵ではありません。隣国のテルス王国の公爵でございます、姫。今日はテルス王国の使者として参りました。ソフィーリア姫にお会いするために。」
ソフィアは仰天した。
公爵を伯爵と間違えるなんてなんて失礼なことを。なぜもっと細かく侍女達に聞いておかなかったのか。
しかも公爵が使者として自分に会いに来るなどただ事ではない。少なくともいい予感はしない。
テルス王国は隣国で、父が治めるこの国ヴォゼル王国とも友好関係にある。
父もテルス王国の貴族達を舞踏会などに招待している時もあるらしい。
バルガは自分に会いに来たと言う。
つまり、この舞踏会にソフィアが出ることを知っていた、あるいは逆に、ソフィアが部屋の外に出ないことを知らなかった、ということになる。
国内の貴族達はさすがに、ある程度ヴォゼル王国の王女はこういった場所に出てこない、と知っているだろう。
王がどういう風に言っているのか、言ってすらいないのかすらソフィアには分からない。
ソフィアには分からないことが多すぎた。
「申し訳ありません、バルガ公爵。失礼を致しました。あらためて、私はヴォゼル王国王女ソフィーリア・ヴォゼルと申します。」
優雅に一礼する。ずっと部屋の中にいたとはいえ一応は王女。王女としての所作や礼儀は完璧である。
「バルガ公爵、先ほど私に会うため、とおっしゃいましたが、どういった理由でかお聞きしても?」
微笑みながら、ソフィアは言ったがまたバルガは驚いた顔をした。
そして少しおどけたように言う。
「もちろん、美しいソフィーリア姫にお会いして、チャンスがあるなら私も…なんて考えていたのもありますが…」
バルガの言葉に思わず笑う。
こういった冗談はソフィアにとっては新鮮だった。
「実はもう少し真面目な話でして、…」
「おいおい、バルガ殿、勝手に話を進められては困る。まだ娘には何も話していないのだ。」
王が近づいてくる。笑いを含んだ声でバルガの言葉を遮った。
ソフィアはどういう顔をすればいいのか分からなくて、結局は微妙な顔つきになってしまう。
仕方がないと思う。ソフィアがこの十年間で父と顔を合わせたのは数えられるほどだ。
血が繋がっていなくとも、よほど侍女のマリネの方が家族らしい。
「そのようですね。驚きました。…しかし、ふふ、申し訳ありません。陛下、つい嬉しくて…。」
「それは私もよく分かる。」
話が見えず、首を傾げるソフィアに王はちらりと目を向けた。
「何と言っても、娘の花嫁姿が見られるのだからな。」
凍てついた氷のような瞳。
(…は、なよ…め、姿…?)
ソフィアにはその言葉の意味がしばらく分からなかった。
父は何かをソフィアに話しかけていたが、真っ白な頭にはところどころの単語がかろうじて入ってくるくらいだ。
しかし、その単語は単語だからこそ、飾らずにそのままの意味で頭に入ってくる。
花嫁、テルス王国第二王子、結婚、2歳年上
運動も勉強もできて、好奇心が旺盛
そんな単語が頭の中で並び、何の話をしているのかようやく理解した。
…理解せざるを得なかったのだ。嫌でも。
王様出てきました!
個人的にはバルガはお茶目なおじさん的な存在です!