始まり
相変わらず、パンはありえないほどに硬かった。
あえてこのパンを選んでいるのだとしたら、地味な嫌がらせである。
一口づつにちぎるのにさえ苦労する。
「でさー、昨日のことだけど。」
パンに大きく齧りついて、もしゃもしゃと口を動かしながら、目の前の男は唐突に言った。
「もう落ち着いて話せそう?」
漆黒の瞳がこちらを安心させるように瞬く。
きっと、無理だと言ったならフェルは無理に聞くことはしないだろう。
ソフィアはこの男を不思議なほどに信頼してしまっていた。
昨日の朝の決意も軽かった訳ではない。
しかし、フェルの行動によって、心が動かされてしまったのだ。
もともと、人と関わることが少なかったソフィアには、命を助けられても疑うことを続ける、などという方が無理な話だった。
ソフィアはこくりと頷いた。
「…昨日、襲ってきた者たちは私を狙っていたと思うの。」
「ああ、そうだろうなー。しっかし、人が近くにいなかったとはいえ、白昼堂々とは大胆な奴らだ。」
それに…とフェルは頭の中で呟く。
奴らは上手く顔を隠していた。
あからさまに、という風でもなく、自然に。
化粧や変装するための道具でも使っているのかもしれない。
おそらく、素顔で近くを通ったとしても気づかないだろう。
(あいつら…。対人に慣れてやがるなー。)
刃物の扱いにも慣れていた。
無謀に向かってくることもなく、冷静に引く、という選択肢を選んだことも高い技術と経験値を表している。
「ソフィアには、殺されそうになるような心当たりあるわけ?」
ソフィアは弱々しく顔を振った。
「殺されそう、という面においては全く。…けれど、狙われている、という面にならあるわ。」
フェルは、頷いた。
「理由は聞かない。けど、命狙われてる以上はやっぱ自分で自分の身を守れるようになった方が良いと思うんだ。俺が出来るだけ守るけど、常に二人でっていうわけにもいかないだろうし。」
この言葉には、ソフィアは目を見開かざるを得ない。
フェルは、これからもソフィアとこれからも共に行動することを前提に話している。
思わず、口から零れた。
「いい、の…?」
「何が?」
「私と一緒にいて…。危険なんでしょう?」
ソフィアも馬鹿ではない。
昨日で全て終わったなどと勘違いはしない。
きっと機会を狙って奴らはまた現れるだろう。
その時にソフィアの側にある者が安全であると考えられるほど楽観的でもなかった。
しかし、フェルは本気で不思議そうに首を傾げた。
「俺がどっかいった方が、ソフィアが危険だと思うけど。それに、ソフィアの側にいた方が色々と楽しそうだしな!」
かかか、と楽しそうに笑う。
鼻がつん、と痛み、胸が一杯になる。
ソフィアはくしゃりと顔を歪めた。
「あり、が…と。」
「ウンウン、ほら泣かない。綺麗な顔台無し。」
そう言って、ソフィアの顔を自分の手ぬぐいで拭う。
それからはっとしたように、
「やば。これ、まじ俺イケメンじゃね?今なら女の子達落とせるんじゃね?」
などとぶつぶつと呟いている。
拭いてくれたのは確かにイケメンだったのだが、早くソフィアの顔面の手をどかしてほしい。窒息しそうだ。
「〜〜〜っ!」
声にならない声で訴えると、フェルはようやく気づいた。
「ああ!悪い!」
顔から手が離れて、大きく深呼吸する。
仮にも女の子の顔を鷲掴みにするとはどういうことか。
「フェルが、もしも、もてないならこういうところが問題なのではないかしら。」
顔をさすりながら、恨みがましく見る。
「あー、なるほど。思い当たることが一杯すぎるー。」
一体何人の女性を被害に合わせてきたのか気になるところだ。
くすりと笑い、ソフィアは本題を尋ねた。
「…それで、どういった方法で自分の身を守ればいいのか教えてもらっても?」
すると、フェルは腕を組み、本当に楽しそうに笑った。
何故か嫌な予感がした。
「それはなー。ソフィアがー、剣をー、使えるようにー、なったらどうかなぁーって。」
「……はい?」
「なおかつ!ソフィアが髪切って男になったら、気づかないんじゃね?」
「……はぁあ?」
「おお!早速男っぽい言葉遣い!いいね!」
ソフィアは茫然と目の前の男を見た。
この国では、女が剣を持つことは忌避されており、女の短髪は姦淫を犯した者を表す。
それくらいは物知らずのソフィアでも知っていた。
だから、ソフィアは自分の聞き間違いだと信じた。
「だ、誰が?」
「ソフィアが。」
「何になって…?」
「男になって。」
「何…を使えるようになればいいって?」
「剣を使えるようになればいいって。」
ソフィアは目眩を感じてふらついた。
揺れる視界の中で、無駄に爽やかな笑顔が見える。
「大丈夫、大丈夫!髪なんて切ったってすぐ伸びるし、短くなっちゃったところに合わせていっそバッサリいっちゃおう!そんで、結んで、男用の服着て、言葉遣いを直したら…。」
フェルは胸を張った。
「ばっちし、少年にだーいへーんしーんっ!」
ソフィアには、その後何刻かの記憶がない。
はっと、我に返った頃にはすでに長すぎる髪は無残に切り落とされ、首元にすうすうと風が触れていた。
無言でフェルを見ると、にかっと笑われた。
ソフィアは初めて、殺意というものを覚えた。
これで女で過ごすことは否応なく不可能になったのだ。
犯罪者となるか、男として過ごすか。
答えは決まっている。
フェルもあんな風だが、危険を少しでも減らす為にしたことだ。
ソフィア自身、考えてみても、これが最善だと思った。
自分の為だ、仕方がないことだと心の中で自分に言い聞かせる。
それでもやはり、一度も切らなかった髪に多少なりとも愛着を持っていたらしい。
自然と涙が零れた。
この髪を大切にしてくれた侍女達を思い出す。
姫様、と呼ぶ声が聞こえる。
(…ごめんなさい。)
涙を乱暴に拭い、フェルを睨め付けるように見た。
「いい目だ。」
フェルは頷いた。
(私は女。けれど自分の命の為に、自分の意志で男になる。)
たとえ、今までの全てを無駄にするとしても。
「最初に言っておく。これからは俺もソフィアのことを男として扱う。剣も俺が教える。言葉遣いも直してもらう。辛いだろーけど、容赦はしない。命に関わることだから。」
覚悟は決めた。
弱いままではいたくない。強くなりたい。
守られ、自分で殻にこもるならば、城にいた時と変わらない。
「あとは、名前だな…。ソフィアじゃまずいし。そーだな。ロラン、でいーか。」
「どうして、ロランなの?」
普通、偽名を使うにしてももっと本名と似た名前を考えるものではないのか。
「んー、俺が飼ってる犬の名前なんだ。なんとなくソフィアに似てるから。」
微妙な顔しかできない。
犬に似ていると言われて喜ぶ奴はおかしいだろう。いやいや、それ以前に何故、犬に人の名前をつけているのか。
何も返さないソフィアの反応を了承の意ととったらしい。
フェルは壁際に置いてあった袋から、男物の服を取り出し、ソフィアに投げつけた。
「これに着替えて、さっそく剣の稽古しよーか。あぁ、そーだ。」
困惑抜け切らないままそれを受け取ったソフィアに、目を向ける。
「俺は、一度この国を出てテルスに行くべきだと思う。ソフィアはー…いや、ロランはどう思う?」
ソフィアは迷わなかった。
「それがいいと私も思う。ここにいても、どうぞ狙って下さいとでも言うようなものでしょう?」
もう少しこの国のことも見たかったが、他国のことも知りたかった。
それに一番の理由は、やはりあの、紋章。
あれがどういうことなのか確かめない限り、このウォゼル王国は安全ではない。
「テルス王国に行きたい。」
夜空の瞳が細められた。
「おー。行こう!三日くらいで旅の準備して、この宿から出る。それまでにソフィアには、その言葉遣いをとりあえずどうにかして貰うぞ。」
そうして、ソフィアの新しい生活が始まった。
やっと主人公が主人公らしくなっていきます!