加奈子さんとの出会い
図書館で小説を書いていた俺は、ふと目の前を通り過ぎた女性に思わず目が惹き付けられた。自習スペースのすぐ前、自然科学の本棚で図書整理していたその女性は、長い黒髪が艶やかで、爽やかな花の香りを漂わせていた。
いや、それは錯覚だったのかもしれない。実際は彼女の髪からはどんな匂いも漂っていなくて、ただ俺が彼女に心震わせるだけで、そう感じてしまっただけなのかもしれなかった。
でも、彼女の周りにはすっきりとした澄んだ空気が漂っていて、その本を手に取ってにこにこと笑う顔には、本当に物語を愛する優しい心が表れていたのだ。
白い肌は透き通るように美しく、ぱっちりとした瞳や、小柄なのに存在感のあるその雰囲気に、俺はただただ色々な想像を繰り返してしまうのだった。
彼女の名前は知らないし、実年齢もわからない。ただ、こうして毎日図書館に通って小説を書きながら、彼女の姿を眺めることができるのが嬉しかった。
彼女は本当に一冊一冊の本を大切に胸に抱えて愛おしげな瞳を向けて、笑っていた。本当に本を愛しているんだな、と思うと、俺も嬉しくなってしまう。
本当に楽しそうに好きなことをしている人を見るのは、幸せなことだから。
そう思ってちらちらと彼女を窺っていると、彼女が次はこちらに近づいてきた。俺ははっとして、慌てて視線を伏せて、その気配が通り過ぎるのを待つ。
でも、彼女は何故か俺の前から立ち去らず、にっこりとこちらを見つめてくる。俺は気が気じゃなく、何だろうと思って恐る恐る振り向いた。
その時、自習スペースには俺の他には誰もおらず、彼女がそんな言葉を投げかけてきてくれたのは、その状況も原因しているのかもしれなかった。
「いつも利用してくれてありがとうね。あの、もしかして小説書いているのかな?」
俺はあまりに驚いて硬直し、彼女のその端正な顔立ちを食い入るようにして見つめてしまうのを抑えられなかった。
「あ、えと、その……はい、小説を書くのが好きで、」
「君がいつも楽しそうに物語を綴っているのを見て、私も同じように嬉しい気持ちになってたのよ」
彼女はそう言ってストレートの髪をさらさらと揺らせながら、笑った。俺は顔が上気して湯気が立ち上るのを感じながら、それでも何とか自分を奮い立たせて言った。
「あなたがいつも本を楽しそうに見つめているのを眺めて、俺も嬉しく思っていました」
よし、なかなかいいこと言えたぞ、と俺は内心ガッツポーズをしたが、彼女はくすくすと笑いながら、少女のような可愛らしさで本を持ち上げて見せた。
「そうなの。私、本に囲まれているところにいるのが、本当に至福の一時なのよ」
彼女はそう言って目を細め、肩を揺らせた。俺はあまりの可憐さに、くらりときた。何とか自我を保ち、俺はわかります、とどうにか笑うことができた。
「本を手に取って開くだけで、落ち着くことがありますよね。本の匂い、文章の雰囲気とか、味わうだけでいつもの自分に戻れるような」
「あなたはすごく大切なものを持っているみたいね。きっといい小説が書けると思います」
女性はそう語り、俺の肩を叩いた。俺はその言葉を掛けられただけで、心の中で「よっしゃああああー!」と拳を握るのを抑えられなかった。
そうして俺は加奈子さんと出会った。彼女はこの図書館で働く司書で、今年二十八歳になるのだと言う。あまりに歳が離れていることにショックを受けた俺だが、それからほぼ毎日彼女と話せるようになって、小躍りを繰り返してしまった。
彼女に小説を読んでもらえるようになると、俺はそこから新たな世界へと歩き出せたような気がした。
そんな出会いの先に、もう一つの出会いがあることに、当時の俺はわからなかったのだった。