八
『姉は来月5日に帰国予定です』
要から具体的な帰国日の連絡が来た。パーティの日付より一週間ほど早い日程が書かれている。ひょっとするとそれまでの間に会えたりする時間があるのではと要に問い合わせるも『未定』とだけ返信があった。俺は素っ気ない要からの返事を見て自嘲した。
待ちに待った和佳に会えると考えるだけで鼓動が早くなる。冷静になろうと努めても、どうしても心が逸る。和佳の日本滞在中に何としても会わねばならないし、話をしたい。だから少しでもチャンスを得たい。頭はすぐにそのことでいっぱいになってしまい、つい先走った行動をとってしまう。
かつての俺のように、気に入る気に入らないなんていう至極短絡的でツマラナイ考えでの行動は、何があってもとらないように気をつけているが、今回に限って言えば、努力はしてみても、結局は和佳のことを考えるだけで冷静さなんてぶっ飛んでしまう。
「未定」との文字を眺めながら、はてさてどうしようかと考えていたら、ブルっとスマホが手の中で震えた。
『努力はしてみます』
どうやら要は気に留めてくれたようだ。
あいつは一見冷たいようだが性根は優しい。それは以前から知っていた。
俺が遊びに行く度に見せるのはニコリともしない冷たい態度だったが、それでも顔を会わせないことは無く、必ず俺と和佳の近くに居た。和佳のことが心配だったというのもあるのかもしれないが、俺に対して全く愛想は無かったものの、話しかけて返事が無かったことも無かった。
そんな要からのメールの言葉に、心の中でぽっと暖かい何かが生まれた気がした。すぐさまお礼と宜しく頼むと書き加えメールを送っておいた。
*
会社では常に平常を心がけて過ごしていた。浮かれてミスをしてパーティに行けないなんていう状態になりたくなかったから、いつも以上に丁寧に慎重に仕事を進めていた。が、仕事はひとりでするものではない。俺が心がけていたとしてもどこか一カ所で躓きがあれば波紋のように広がり、少しずつ影響を受けることになる。何度かそういう状況に陥りそうになったが、幸いにもいずれも発見が早く、リカバリにも素早く入り、こと無きを得ていた。
「落ち着きが無いな」
そろそろ和佳が日本に帰って来る頃、さすがに俺もソワソワし始めてしまった。気持ちを抑えるため、意識して頻繁に深呼吸を繰り返していると、そんな頃合いを見計らって、安竹がポンと俺の肩を叩いた。一緒に行くことになっている安竹もまた少しソワソワしているようだ。あいつの目的は和佳よりも、出席する面々にある。情報収集は自分の足で稼ぐ方が信頼度が高いというので、その下調べに余念がないらしい。
「お前も少し落ち着け」
若干寝不足気味な安竹に言葉を返すと、ニヤリと不遜な笑みを浮かべた。
「これが落ち着いていられるか。小規模とはいえ招待客は一流どころだぞ。社長クラスでなきゃ滅多に会えないんだ。こんなチャンス滅多にない。俺はな、もうずっとこの調子だ。だから大丈夫だ」
「んなこと威張れることじゃないぞ。今からそんな様子じゃ先が思いやられる。頼むから仕事に穴をあけないでくれよ」
「大丈夫だ。そんなヘマはしない。行けなくなるなんて冗談じゃないからな」
「本当だな? 信じるぞ」
念を押すと安竹はポリポリ頭を掻きながら「信用ねーなーオレ」とブツブツ言っている。そして「お前の足は引っ張らないから安心しろ」と再び俺の肩を叩いて去って行った。
俺は安竹の後ろ姿を見ながら再び吸って吐いてを繰り返した。
安竹に対して偉そうに言ったはいいが、俺自身に対して言ったのも同義だった。大事な商談の前の緊張と、似て異なるこの状況に、正直どこかで休憩を入れたいところだが、なかなか上手く行かない。それに今回ばかりは決して失敗できないことも分かっている。ならば妙なプレッシャーに押しつぶされないようにコントロールするしか無い。深呼吸は最も手軽に出来る気分転換の一つだった。
「里中さん、お話があるんですけど」
昼休み、外で食事を終えてたまたまひとりでエレベータを待っているところに声をかけられた。声のした方を見ると二人の女性社員がいる。二人をじっと見るが名前を思い出せない。
「あ・・・えっと、私、広報の谷村と言います。あの、急に話しかけてすみません」
ほんのり頬を染めて恥ずかしそうにしている。何はともあれ、広報と特に絡みもないから彼女達を知らないのは当たり前だとひとり納得をした。
「いや、用事なら構わないよ。何?」
6基のうちの1基がやってきていたがそれをやり過ごした。
「あ、あの、こ、今度、さ、里中さんも、“和佳”のお披露目パーティに出席されると聞きました!」
そこまで言い切ってはぁっと息を吐いている。そんなに難しい話じゃないのに、大丈夫だろうかと谷村の様子が気になった。
「ああ、そのこと。出席というより関連のある部署の同僚から誘われて、連れて行ってもらうだけなんだけど。だから俺が直接絡んでいる訳じゃないんだ」
「し、知ってます。その。えっと」
たびたび言い淀む谷村の話を待っていると昼休みが終わりそうだ。そろそろランチ帰りのエレベータ渋滞が始まる。
「手短に頼む。午後一で会議があるから準備しなきゃならない」
俺が答えると彼女達二人は互いに顔を見合わせた。そうするともう一人の女性がずいっと前にでた。
「私は彼女と同じ課の佐藤と言います。里中さんの噂は色々と伺っています・・・」
口調は丁寧だが何かしら引っかかる言い方に俺は内心身構えた。そして早々にこの二人から離れたいと本能が訴えている。俺はそれに従うことにした。
「そう。どんな噂か知らないけど、まぁいいんじゃない。じゃ俺はこれで」
もう彼女達を見ないようにして体ごと方向を変えた。そして躊躇無く一歩踏み出そうとすると「ちょっと待って」と腕を引かれ、俺は慌てて腕を引き抜いた。俺の方から触れた訳じゃないが、下手をするとどんなことに巻き込まれるか分からない。彼女達から距離を置き向き直った。俺の顔が恐かったのか、谷村が「ひっ」と短く声を出し、佐藤の後ろに隠れた。そんな様子を見て、俺は逆に落ち着きを取り戻した。
「悪いけど用が無いなら急ぐんで」
先に予防線を張っておけばある程度断りを入れやすいことを知っている。それに加えて重ねて言うことでハッキリと俺の気持ちを示した。
幸い、彼女達は馬鹿ではないらしく俺の言いたいことを理解しているようで、少しばかり顔をしかめ、不服そうにしている。
谷村という女性は何度か口を開きかけていたが、なかなか言い出せないようだ。なかなか声を発しない谷村を佐藤が横から何度か肘で突いていたが、ようやく言う気になったようで、ごくっと唾液を飲み込む様子がうかがえた。
「あのっ! 今度の“和佳”のお披露目パーティに、私達も取材で行くんです。う、うちの会社も関係あるし。それで、あの、一緒に行って欲しいんですけど!」
かなり勇気を振り絞ったようだが、彼女の言わんとしているところが理解でき、正直うんざりした。
「エスコートしろと?」
そう先に言うと谷村は顔を真っ赤にし大きく頷いていた。
「悪い。そういうのも無しで。さっきも言ったけど、俺は三塚の枠で行くだけだから。それに仕事ならエスコート要らないじゃん。そんな面倒なことしてると取材できないでしょ」
それじゃと、今度こそ立ち去ろうとした時、再び佐藤という女性から横やりが入った。
「ちょっと待ちなさいよ! 一緒に行くくらい良いじゃない。ちょっと見た目が良いからって、人気があるからって頭ごなしに断るってあり得ないわ。どんだけこの子が勇気を出したと思っているの!かわいそうじゃない!!」
初見から勝ち気そうだなとの印象だったが、どうやらそのまんまだったようだ。大方、谷村の付き添いで佐藤が一緒にやってきたのだろう。こういう構図に、お前ら小学生かと言いたくなる。
「あのさ、人気があるとかそういうの関係なく無い? 俺さ君たちに何か悪いことした? きちんと断っただけだよね。何か問題ある?」
佐藤の物言いにつられたのか、俺も自然と口調が強くなってしまう。
「なっ・・・問題あるって、おお有りよ! 女性に恥をかかせるなんて最低じゃない!」
プライドもかなり高そうだ。こういう相手は非常に面倒くさい。もういい加減にして欲しいと切に思う。エレベータも既に3回見送っている。
「恥をかかせたのなら謝るよ。だけどね、俺は女性とは一緒には行かない。そう言っただけだ。俺にはそれ以上どうしようもない。問題があるのなら人事部にでも訴えれば良いさ」
受けて立つと仄めかすと佐藤は鋭い目で俺を見た。
「はいはい。そこまで」
そこに突然第三者の声が割り込んで来た。
「栄さん!」
俺の先輩である栄さんが、すぐ側までやってきていたのには気付かなかった。俺の方にちらりと視線を寄越しただけで、いつものチャラい感じでその場に割り込んで来た栄さんは、女性二人に向かって笑みを見せた。
「愛想の無い後輩で悪いね。君たちだけに対してだけこういう態度じゃないんだよ。こいつ毎回こんなんだから勘弁して」
そう言いながら片手で拝んでいる。ウインクもついているあたり、かなり手慣れているなと思った。
いきなりの栄さんの参戦と下手に出られたことで、怒り心頭だった佐藤や、おろおろとしていた谷村も毒気を抜かれたようにぼけっとしている。こうまで言われたら、そもそもが分の悪い彼女達には栄さんを突破することは出来ないはずだ。例外はいつもあるが、彼女達にはこの状況を考えるだけの思考力はあるとは思っている。
案の定、谷村は必死になって佐藤の腕をひっぱっているし、佐藤も栄さんに対しては含む意味も持っていないからか何も言って来ない。その様子を見て栄さんが重ねて言う。
「俺らの会議がもうすぐ始まっちゃうから連れて行くけど、ごめんね。悪く思わないでね。ああ、それから、もうこいつに関わるのはやめた方がいいから。長い付き合いの俺のアドバイスなんだけどさ、これまでの経験上、絶対に君たちの期待する答えは出て来ないからね」
ヒラヒラと手を振りながら、柔和な表情を浮かべたままの栄さんにぐいぐい腕を引っ張られ、俺はようやく退場することが出来た。
「栄さん、ありがとうございました」
エレベータに乗るとすぐに栄さんに頭を下げた。
「いいってことよ。あんなの朝飯前だ。それよりもだ、無駄に意識高い系の逆切れ女には下手に真っ向から食って掛かるな。時間の無駄だろうが。
お前も過去に色々あって女に対して頑になっているんだろうが、うまく立ち回る方法も覚えないと、ああやって逆ギレされたら何されるか分からないからな。気をつけろよ」
下手すると刺されるからなと栄さんはそれだけ言うと、再びどこかへ行ってしまった。まるで俺を部署まで送り届けた保護者のようだ。実際その通りなんだが。
「今度は何やらかしたんだ?」
入口で栄さんを見送って自席へ戻ると窪田がやってきた。どうやら昼休みの間も席にいたらしい。こいつは時々弁当を持ってくるからな。
「人聞きの悪い」
俺は思い切り不満顔をさらしつつ、事の顛末を端的に話すと窪田は鼻で笑った。
「モテる男は辛いな」
「皮肉か、うるさいぞ。こっちは甚だ迷惑千万なんだ」
「そうだよなー。元カノに会いに行くのに女連れじゃ、説得力に欠けるもんな。断って正解だ」
正しくその通りで、俺は窪田の言葉に深く深く頷いた。最後のチャンスかもしれないからこそ今度こそ間違えたくない。
「ところでお前さ、和佳ちゃんとどうなりたいの? ただ謝罪して終りなのか?」
「え?」
何気なく発したのかもしれないが俺は窪田の言葉に虚を衝かれた。思わずフリーズしてしまうくらいには衝撃的だった。
「答えたく無いなら、まぁそれでもいいけどね」
俺がすぐに答えなかったからか、窪田は軽く肩を竦め自席に戻って行った。その後ろ姿を何気なく目で追いながら窪田の言葉を反芻していた。答えたく無かった訳じゃない。窪田の言うようなことを考えていなかっただけだ。
(俺は、和佳と、どうなりたい?)
(和佳と・・・もう一度・・・やりなおしたい・・・)
深く考えないようにしていただけで、結局はアッサリと自分の答えを見つけてしまった。
(俺は、和佳を前にして、そう切り出せるのか?)
だが一方で、ちっぽけなプライドが首をもたげて来たかと思えば、折角の勇気を押さえ付けにかかっている。
まるでさっきの谷村と言う女性のようだと思った。いや、彼女の方が随分と思い切りが良い。俺は本音のところでは、よりを戻したいと思っているが、実際に言葉に出して言えるのかどうかさえ分からない。
(もし許さないと言われたどうする?)
(見てもくれなかったら?)
(謝るどころじゃないことだってあり得るんだ。あんな最悪な別れ方をしているんだから、その方が当たり前なんじゃないのか?)
幾らインタビュー記事で、俺を祝福したいと書いてあってもそれが本音とは限らない。
(和佳は、俺に会ってくれるのだろうか)
ふと不安にかられた。パーティまでもう幾日もないというのに、突然臆病風に吹かれ足下がガラガラと崩れ落ちそうな感覚に陥る。危うく立って居られなくなりそうな錯覚になり、あわてて椅子に座った。
(こんなんじゃ会議にも支障がでるな。ちょっとヤバいくらい揺さぶられてる。・・・なんだ俺って極々小心者だったってわけか・・・はは)
目を瞑って額を押さえ、さっきの崩れそうな錯覚をやりすごそうとした。
「よぉどうした。頭でも痛いのか?」
賑やかな声がしたと思ったら安竹だった。顔を上げると隣には何故か三塚も居る。二人揃って珍し・・・くも無いか。
「なんだ?」
気分を切り替えることが出来ず、つい愛想の無い返事を返してしまった。だが二人ともそれには全く気にならないようで眉一つ動かさない。
「いや、もうすぐだなってまた言いに来たんだよ」
「しつこいなお前も」
今日2回目じゃないか? と言えば安竹はニヤリと笑っている。やっぱり何を考えているか分からない。
「まぁそう言うな。安竹はお前を心配してるだけだ。俺もそうだけどな。それにしても何だか浮かない顔をしているな。緊張でもしてきたのか? お前らしくないけどね」
やんわりと俺と安竹の間に入ってきた三塚が早速気付いたようだ。俺ってそんなに分かりやすいんだろうかと、無意識にペシペシと自分の頬を撫でていた。
「いやそういうんじゃなくて・・・」
「いや、言わなくても良い。分かってるから。
この男の心情を分析するとだな、ひどい別れ方をした彼女に会わす顔が無い! なんて今更なことを考え始めた、そうだろ?」
当たらずとも遠からずだ。返事をする代わりに眉がピクリと上がった。安竹は手応えを感じたようで口角がキュッと上向きになった。
「おいおい里中君。今更だろうが。お前さ、妙なプライド捨てないと一生会えないぞ。いいのか?
そもそもだな、男の恋愛に対するプライドってのはな、実にツマラナイものなんだ。つまらな過ぎるくせに捨てることが出来ずに後々後悔するんだ。お前は散々、7年だっけ? 後悔しっぱなしだろう? 妙な耐性つけてんじゃねぇよ。
正々堂々俺が悪かったって人前だろうが何だろうが土下座しろ。ソレくらいで丁度良いんだ。綺麗事で済ませられると思うな」
安竹の言葉に俺は横っ面を弾かれたようだった。いっきに形勢逆転し、さっきまでの妙なプライドが鳴りを潜めた。
「俺は・・・俺は・・・後悔したく無い。俺は・・・和佳とよりを戻したい」
さっきの葛藤に対する答えが、自然と言葉として出た。つぶやきくらいの声の大きさだったにも拘らず、安竹には聞こえたらしい。ペシッと俺の額を叩いた。
「ならばだ、ちゃんと言うこった。言うためには会わなきゃな。そして、振られて来い」
「安竹の仮説は振られるの前提か」
三塚が笑い出した。それに対し安竹は大きく頷いている。
「当たり前だ。俺がこいつの元カノだったとしたらさ、浮気されたあげく、何年か後になってようやく、よりを戻したいって言われても断るだろう、ふつー」
ありえねーくらいヘタレと安竹は言い切った。三塚もまた同意なのか「それもそうだな」と言いながらしっかり頷いている。だが俺はその言葉にちっとも嫌な感じはなかった。安竹の言う通り、ならば思いっきり振られて来ようとさえ思った。
俺の表情から読んだのか安竹がまた口を開く。
「わっかりやすいね里中は。しかも根はすごく単純で単細胞。お前、あほだろ。見た目詐欺だな」
さんざんな言われようだ。だが、悪く無い。
「うるさい。・・・けど、さんきゅーな。吹っ切れた。つい知らないうちに自分にとって都合の良い答えを期待してたみたいだ」
「おお、感謝しろ。今度驕れよ」
「わかったよ」
窪田の問いかけで自分の核心に気づき、安竹と三塚のお陰でつまらないプライドを吹っ切れた。三人のお陰で本当の意味で腹が据わった気がした。そのお陰か午後一の会議もいつも通り臨むことが出来た。
和佳が帰国するという日、朝から落ち着けなかった。集中しているつもりでも、ふとした仕事の合間に、もう飛行機に乗った頃だろうか、今はどの辺りだろうか、などと心の中は大忙しだった。
結局、要からは、和佳の日本での具体的なスケジュールなどの知らせは無く、滞在中どこにいるのかすら連絡が入って来なかった。付き合っている訳でもないから当たり前なことかもしれないが、内心ガッカリしていたのは言うまでもない。だがパーティには確実に行けるわけだから俺はそこを目標に日々を過ごしていた。
そして何だかんだと忙しく過ごすうちに、あっという間にその日がやってきた。