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素直な言葉で  作者: ゆら
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 「お前さ、蓮川女史の誘い、断ったんだって?」


 出社早々に同僚の安竹(やすたけ)に掴まった。彼はチラチラと周囲を気にしながらやってきた。


 「断ったけど、それがどうかしたのか?」


 「いや、どうかしたかって・・・。お前さ隣にいたのに気付かなかったのか? 女史ってさ、年齢(とし)の割には自分の容姿にやけに自信があるらしくてさ、お前の言葉に相当プライドを傷つけられたっぽいぞ。だから気をつけろ」


 最後の方は囁くような小さな声だった。最初は揶揄(からか)っているのかと思ったが、顔は至極まじめで揶揄っている様子は無く、目は周囲を警戒するように時折見渡している。


 「気をつけろ? それはどう言う意味だ」


 「具体的には俺にもわかんねーけど、隙を見せるなってこと。あの人、お偉いさんとも繋がっているって噂だからな」


 安竹は天井を指差している。会社で言うお偉いさんは、俺達のフロアにいる管理職より更に上の、いわゆる経営陣ってことか。女史はその中の誰かと関係があるかもしれないと安竹は教えてくれているのだろう。


 「だからって、もし仮に女史が誰かの愛人だったとしてどうこうできるわけないだろう?」


 「ところがだよ里中。実際に色々被害にあったやつがいるって話だ。女史が多少我儘をやったところで、目を瞑られてしまうってことだ」


 俺は耳を疑い、つい口調が荒くなる。


 「なんだそれ? 仕事に差し障りが出るのは会社にとって損害だろうが」


 「そこだよ。女史は会社の都合なんかより自分の感情優先なんだってさ。ま、ずる賢いっていう意味じゃ計算高いって言うんだろうけど、気に入らないって思ったら邪魔をしてやれって感じらしいぞ。女性社員同士では結構面倒な事になってるのも幾つかあるって話だ」


 「はぁ? まじで何だそれ、だな」


 「そうなんだよ。それがまかり通ってるから気をつけろって、そういうことだ」


 「じゃあさ極論を言うと、自分には落ち度は無いが女史が気に入らないと思ったら意地悪をされると?」


 「だな」


 安竹は頷いた。肯定という意味だ。俺は空いた口が塞がらないとはこのことかと一気に気力がなえた。しかし、そうなれば気をつけるったって何をどう気をつければ良いのか見当もつかなくなる。が、俺は安竹の言葉を心に書き留め礼を言った。

 朝一番に声をかけたのは興味本位だけじゃなかったようだし、顔の広い安竹が噂を聞きつけ、だからこそ、俺の事を心配してわざわざ忠告してくれたらしい。きっと本当に気をつけた方が良いのだろう。俺は気を引き締めなおした。




 毎朝、出社すると直ぐにやることにしているのが、その日一日の段取りだ。これをやるのとやらないのとでは格段に仕事の効率が違ってくる。このことは、実は(さかえ)さんに教えて貰った。彼も意外と見えないところではちゃんとしているんだと思ったエピソードだ。それが習慣になり今も続けているわけだ。


 ふとそこで気になったのが昨日提出した稟議書だった。承認ルートを開くと最終決裁は役員となっていて、部長まで終わっている。この分だと恐らく今日中には役員決裁までは行くだろうと思われるが、安竹の言葉が脳裏に蘇る。


 (役員か・・・。ここは気をつけるべき・・・なのかな? まぁ万が一ってときは栄さんに相談してみよう)


 超急ぎというわけじゃないし、栄さん曰く、大筋の話は関係者全員の了承をもらっているからお前が出しておけ、ということだったから大丈夫だとは思う。少々気にはなったが俺は今日の仕事に取り掛かる事にした。


 午前中、先日客先でプレゼンした企画が採用になったという嬉しい知らせが入ってきた。さっそく、午後には関係者を集めて会議をすることになりその準備に追われ瞬く間に時間が過ぎて行った。

 モニターとにらめっこをしていると肩を叩くヤツが居る。振り向いてみると安竹が飯に行くぞと言うので、そう言う時間になっているのかと改めて時計を確認し、初めて腹が減っていることがわかった。


 「午前中は問題なさそうだったな」


 何がと問うまでもなく女史の事だろう。俺は資料作りで忙しかったことを説明すると、窪田という同僚が微妙な顔をした。そして声のトーンを落として囁くように言った。


 「さっきさ、来てたんだよ、女史」


 その言葉に思わず咀嚼を止めてしまった。窪田を見ると何の気もなさそうに口にご飯を運んでいる。俺が見ている事に気付くと「食いながら話そう」と言う。俺が再び箸を動かし始めると、それを見た窪田は再び口を開いた。


 「お前達が栄さんと打ち合せをしている時だったよ。何の用か分からないんだが、ふらりとやってきてキャビネットを開ける振りをしながらお前を見てた」


 打ち合わせは確かにしていた。採用の連絡を受けて窓辺のブースの一つを陣取ってやっていたのを思い出す。あの時は嬉しくて期待に胸が膨らんでいたけど・・・。


 「やっとお出ましか」


 安竹はそれが当然だとばかりつぶやいている。俺がジロリと睨むとこっちもそ知らぬ顔をしてモグモグと口を動かしているから少々憎らしい。窪田はペースを落とす事無く淡々と話し続ける。


 「ありゃ何か良からぬ事を企んでいる目だったね。確実に仕掛けてくるはずだ」


 「何かってなんだよ」


 俺は動揺を顔に出さないように気をつけながらも食べ続ける。


 「知らんよ。それが分かれば苦労はしないさ。俺は女史みたいに簡単に人を妬んだり、怨める性格じゃねーからな」


 確かに。窪田は言いたい事は言う人間だ。陰でコソコソ動くタイプではない。むしろそれは・・・


 「やめろよ俺もそういうねちっこいタイプじゃないよ。ま、陰で動くのは好きだけどな」


 安竹はモグモグ咀嚼しながらも、先回りをして俺の推測を否定した。


 「面倒くさいな」


 溜め息しか出て来ない。強引に近づいてくる女達っていうのは、どいつもこいつも自分の事しか考えていないんだなと、その救いようの無いバカさ加減にうんざりする。


 「だな。蛇みたいな女なんて、絶対に近くに置いておきたく無いね。おっかねぇよな。くわばら、くわばら」


 すっかり食欲も失せてしまい食べる気がしなくなったが、そんな弱いことを言っている場合じゃない。残りは無理矢理口の中に押し込んだ。食べておかないと午後の会議を乗り切れそうになかった。


 「まぁ何だ。里中はとりあえず企画の件もあるし、女史の方は俺らの方で情報収集しとく。他の奴らも協力してくれるはずだから、とりあえず午後は乗り切れ」


 安竹は軽い口調で言うが俺にとっては非常にありがたいことだった。今は仕事以外で余計な時間を使いたく無いのが正直なところだ。もちろん彼らにも仕事はあるが彼らの山場は俺が上手くいった次の段階だ。だから、比較的余裕がある。俺は素直に頭を下げた。


 午後の会議にはなぜか女史の顔もあった。彼女は関係部署ではあるが今回はメンバーではなかったはず。だからなぜここに居るのかと訝しく思ったが、既に全員揃っているし、開始時間を大幅に送らせるわけにはいかないから、ここは敢えて目を瞑り取り急ぎ話し合わなければならない議題を進めた。


 ひょっとすると会議の邪魔をするのか? と思ったがそうではなかったらしい。女史は資料を手にし始終黙って会議を見守っていただけだった。結局何事も無いまま会議は終わった。


 とんでもなく拍子抜けをした気分で会議室を出ようとした時、その時を待っていたかのように女史が動いた。


 「里中君、ちょっといいかしら?」


 いつものように隙の無い化粧に加え、香水をまき散らしながらやってきた。仕事する気あるのか? 化学物質過敏症の人だっているんだぞ、と思わず眉を寄せてしまう。

 彼女の全てが自己顕示欲のあらわれのようだと感じた。


 「なんでしょうか?」


 急いでいるんですけどという態度で顔だけを向ける。すると女史は怪しい笑みを浮かべて俺を見ている。すぐに嫌悪感に襲われるが表情に出すわけにはいかない。


 「ここじゃない方が良いんだけど」


 この人と二人でなんてとんでもない話だ。俺は内心辟易しながら平常心につとめた。


 「仕事の事でしたらむしろこの場の方が良いです。幸いにもまだメンバーも残っていますし」


 そう答えまだ残っていた同僚達に目配せをすると気付いてくれた一人が、声をかけて俺の近くに集まってきてくれた。


 「何か問題でもありましたか?」


 安竹がそしらぬフリをして女史に声を掛けると、集まってきた連中に驚いた様子でたじろいでいる。形勢逆転のようで女史はあからさまに嫌そうな顔をした。そして「覚えてなさいよ」というお決まりの台詞を残して去って行った。


 「一体なんだったんだ?」


 「さあな」


 女史が残した残り香を払うように皆がしかめっ面で、資料を手にパタパタと周囲を扇いでいた。






 「おい里中、例の稟議書の決裁どうなってる?」


 企画が採用になり実際に動き出したところで忙しい日々を送っていた俺はすっかりその事を失念していた。決裁が済んだらメールでお知らせが来るはずだがまだ来ていない。慌てて承認ルートを見れば本部長分までは既に済み役員のところで止まっている状態だった。


 「栄さん、役員決裁で数日止まっています」


 「なに?」


 もちろん俺の上司である栄さんも同じ画面を開ける。彼もそのことを確認したようで「まずいな」とつぶやいているのが聞こえた。


 「期限までにこの稟議がおりてないと次に進めないんだがな。

 ・・・それにしてもおかしいな。ちゃんと説明して事前承認もらっているはずなんだが。それに田村さん毎日出勤しているから見ていないはず無いと思うが」


 独り言だろうが丸聞こえだった。だからこの状態の異常性が理解出来た。どうやら女史が動いたらしい。しかも相手は田村常務ということまで丸わかりで、俺達はこっそり目配せをして溜め息を吐いた。


 「ちょっと上に行ってくる」


 そう言って栄さんは離席した。


 その後すぐに安竹と窪田がやってきた。


 「どうやら女史、動いたらしいな。しかも最悪のタイミングで」


 ウンザリという感情を隠そうともせずに安竹が言った。俺は放心状態だった。身内に手を噛まれるというか、自社の利害も考えずによくも動けるものだとその感覚に空恐ろしくなった。


 「おい里中、里中。しっかりしろ」


 気がつけば窪田が俺の肩を揺すっている。


 「あ? ああ、悪い。大丈夫だ。すまない心配かけて」


 「心配かけてなんてお前が謙虚に言う話じゃないぞ。これは下手すると内部規定違反だ。まぁ証拠は無いけどな」


 「そう暗い顔するなって。栄さんがうまくやってくれるから。・・・ほら、そう言っている間に『承認』だってさ」


 画面に映し出されていた承認ルートの、最後の役員のところが『未決』から『承認・決裁』に変わった。安竹の言う通り、きっと栄さんがあの勢いのまま本部長達をうまく巻き込んで直談判してくれたんだろう。安心感から思わず机に突っ伏してしまった。


 「仕事での恨みならいざ知らず、自分の下半身の恨みを仕事に向けられてもなぁ」


 身も蓋もない言い方をする窪田だが彼が非常に憤っているのは口調からよく分かった。俺もその通りだと思った。全然関係ないことで上手く行く案件がそうならなかった可能性だってあるわけだ。今回は多少決裁が遅れたとしても社内、客先とも話がついていたから良かったものの、そうじゃなかったらと考えると窪田のように言いたくもなる。


 「こういうのやめて欲しいんだけど」


 ついて出た言葉に周りにいた人達も頷いていた。





 栄さんは直ぐに戻ってくるかと思っていたら、終業時間間際になってようやく戻ってきた。眉間に深く皺を寄せてはいたが俺に向けてOKのジェスチャーを示してくれた。


 俺は笑顔で頭を下げたが、翌日からもこう言う事が続くのかと思うと気が重くなった。




 しかし、どういうわけか女史は休みだった。理由は体調不良とのことだったが誰も気に留めていなかった。むしろ同じ部署の人達はのびのびと仕事をしている風だ。


 「良かったな。取り敢えず今日は乗り切れる」


 安竹がポンと俺の肩を叩いた。


 「そうだな。色々とありがとな」


 「いいさ。公私混同されてお前が潰されるんの俺は嫌だからな。折角、(さかえ)さんを中心に良いチームになってきてんだから。俺、今までの中で一番良いって思ってるし」


 全くその通りだ。新入社員の頃から含め何度かチームは変わったが、俺もいまの仕事はメンバーも含めて気に入っていた。


 「俺も今のチームは居心地が良い。風通しがいいし仕事がしやすい。栄さんは少しアレだけど、互いに良い仲間だと思える」


 そう答えると、だよなと安竹も嬉しそうだ。


 「情報が入ったら教える。こうなりゃチーム戦だ」


 「サンキュー」


 「お礼は・・・今度何かうまいもん驕ってくれ」


 「わかった」


 その後、安竹の他にも窪田や同僚達が色々情報を集めてくれたおかげで、蓮川女史に対する対策を立てやすくなった。だが、なぜか全く姿が見えない。女史の代わりに、他の社員がやってくるし、会議にも出て来ていない。


 何があったのか分からないが、それはそれで気になる。





 数日経った頃、またしても安竹が情報をつかんできた。


 「おい聞いたか。蓮川女史、地方の営業所に異動になってたって」


 「は? なんで。そんな時期じゃないだろう? この前の時、なんにもそんな素振り無かった気がするけど」


 全くの寝耳に水でそこにいた全員が一様に驚いている。

 思い返してみても飲み会で俺を口説くのに必死な蓮川女史や翌日の恨みがましい目で見てた姿しか思い出せない。そもそも本社を離れるなんて、あの女史が首を縦に振るとは思えない。


 「分からん。そこは全くもって分からなかった。だが、女史がいた部署では既に後任者がいて仕事してたぞ。ってことはだ、これで里中もビクビクしなくて良いって事だ。良かったな」


 知らず知らず肩の力が抜けたのが分かった。ほとんど毎日気を張っていたから。日々同僚達が集めてくる情報を聞けば聞くほど蓮川女史が絡むとやばいことになると分かってきていた最中で、俺だけじゃなく同僚達も仕事以外の事で時間を割かれてしまう事に申し訳なさがあった。


 しかしそれが本当なら、これで仕事に専念できると誰もが思った。互いに顔を見合わせて頷き合ったのは笑顔でだ。


 「みんな本当にありがとう」


 「いいってことよ」


 「そうだぞ。非の無いヤツが逆恨みで潰されちゃ叶わん。俺らは仕事をしたいだけなんだからな」


 口々に慰めをくれた。俺は本当に仲間に恵まれたと思う。

 この気持ちを誰かに伝えたくて、そっとスマホを開き和佳の画像を見る。まだ大人になりきっていないあどけなさの残る笑顔が俺を見つめる。


 和佳に会いたい。


 切実な思いとして、胸の奥がキュッと締めつけられるようだった。

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