四
亜梨沙からはしつこく復縁を迫られた。セフレでも良いと言うが、俺は頑としてその話には乗らなかった。他の女達も時々ちょっかいをかけて来たが、俺は要に宣言した通り誰とも付き合わなかった。いや、そうじゃない。正直に言うと、そういう気持ちに全くなれなかった。和佳以外と付き合うという姿が想像出来なかったっていったほうが正しい。
和佳が大学から姿を消してから、しばらくの間は俺の視線は居るはずの無い和佳の姿を求めて彷徨っていた。気を抜くと笑顔で手を振る和佳の幻影が見え、それが自分の欲求が見せる幻だと分かる度に酷く落ち込んだ。
つるんでいた遊び仲間達は付き合いの悪くなった俺に愛想を尽かしたのか、気がつけば、いつのまにか連絡が来なくなっていた。むしろノリだけの薄っぺらい付き合いだっただけに俺には何のダメージも無かった。
和佳の情報は相変わらず入って来ないが、彼女のことだ。真面目に学業に専念しているはずで、だから、俺も次に会えた時には少しでも胸を張っていられるような男になっていたくて、残りの学生生活は我武者らに勉強した。
和佳が毎日のように通っていた図書館で、彼女の見たその風景を共有したかったのかもしれない。
俺とは違う専攻だったから扱う資料は違うものだったが、それでも彼女が確かにここに居たんだと思えば自然と足は図書館に向かっていた。
「あの、もしかして、理学部の里中君ですか?」
ある日、図書館カウンターで本を借りようとしていたらエプロンをつけた男性から声をかけられた。そうだと頷くと「あなたが」と呟いていた。何か用があるのかと身構えていたが、男性は「すみません」と言ってすぐに本を渡してくれただけだった。その時はそれほど気に留めていなかったが、それから時を置かずして再びカウンターで顔を会わせた。彼は何か言いたそうな雰囲気だったが図書館という場所柄もあるのか、なかなか話しかけて来ようとはしなかった。そもそも図書館員に知り合いなんかいないし、あちらから何か言ってくるまでは放置、と決め込んだ。
俺からは何も用事はなかったから特段気にする事も無く、ひたすら参考図書に向き合っている日々を送っていた。バイトや用事のある日を除いて図書館に通う事が常になってからは閉館時間まで居る事が多くなった。
その日もキャレルで一人黙々と本を読んでいた。ふと違和感を感じて顔を上げてみると、時々見かける、何か言いたげな様子でカウンターにいるあの男性が立っていた。
「なにか?」
声を掛けるが男性はすぐに立ち去ってしまった。机の上には一枚のメモが置いてある。俺はそれに目を通した後、再び本に視線を戻した。
図書館のエントランス。俺が和佳に告白をしようと偶然を装って待ち伏せをしていた場所に、男性がいた。
「で、何? 用って」
さっきのメモには閉館後に話があると書いてあった。エントランス前で待っていると。どうせ閉館時間までいることだし、毎回顔を会わせる度に何かしら言いたげなあの顔を見るのにも大分気詰まりだったから、さっさと終わらせたかったというのもあるし、俺は書かれていたとおりにやってきた。
「すみません、恐らくそろそろキャンパスが変更になると思って、その前に話をしたいと思って」
眼鏡の奥に見えるその目がやたらと真剣で、立ち話もなんだからと俺は遅くまでやっているカフェに誘った。うちの大学は教養課程が終わると専門課程は学部毎に別のキャンパスになる。そうなると全く顔を会わせなくなる可能性もあるからか、相手は少し焦っているようにも見えた。
「すみません。急に」
どこまでも恐縮する相手に俺は居心地の悪さを感じた。近くでしっかりと目を合わせてみれば俺とそれ程年齢は変わらない気がする。だがまじめな雰囲気が彼を少しだけ大人に見せていた。
「いやいいよ。で、話したい事って? 俺は君と図書館以外での面識はないと思っているんだけど」
そう言うと男性は気まずそうな顔をして俯いた。そのままどのくらい待ったのか。勢い良く顔を上げたかと思うともの凄い勢いで自己紹介を始めた。
「ぼ、僕は教育学部2年の柿谷といいます。あの、花山院さんのことで」
思わずコーヒーのカップに手を伸ばしかけていた手が止まる。俺は真正面から柿谷を見た。俺の知っている花山院は和佳だけだ。滅多に聞かない名前だからこの場合、和佳のことしかないはずだ。俺は黙ったまま話を促した。
「あの、最近図書館で見かけないんですけど」
どうやら柿谷は和佳のことが気になっていたらしい。そして俺に声をかけてくるということは、少なくとも俺と和佳がつきあっていたということは知っているということだ。俺と和佳はサークルは一緒だったが学部が違うし、俺はめったに図書館を利用しなかったから、構内のどこかで見られていたのかもしれない。
だけどこうやって全く面識のないやつらにまで俺達の関係を知られているという事実に、勝手だけど、今更ながら憤りを覚えた。俺達の事をどこまで知っているのかも分からないし、ここで知らないと突っぱねてもいいのだが、こいつが随分前からずっと何か言いたがっていたのを分かっていたし、きっと今日は勇気を振り絞ったんだろうと思えば到底意地悪をする気にはならなかった。
俺はコーヒーを一口飲んだ後、大分省略をしたが、答えを返した。
「そう、そうですか、休学して海外に・・・。だから来なくなったんだ」
柿谷は目に見えて沈んでしまった。俺の他にも和佳のことで寂しい思いをしているヤツが居ることに、意外にも心が温かくなった。俺の雰囲気が変わったのに気付いたのか、柿谷はこれまでの自信なさげな顔から一変、優しい色を瞳にたたえた。
「僕、大学に入ってから、すぐに図書館の学生ボランティアに所属したんです。他にもメンバーがいて担当日は月によってバラバラなんですけど、そんな中で、彼女を見つけたんです。すごく一生懸命に本を見つめる横顔が印象的で知らず知らずに目で追ってたんです、あ、正面から見つめる事なんて全然出来なかったからいつもこっそりだったんだけど、絶対にストーカーじゃないから! やましい事はしてないから!」
なぜか焦り始めて言い訳っぽい言葉を並べ立てる柿谷の様子が何とも俺のツボに入ってしまった。思わず吹き出してしまう。
「分かってるよ。誰もそんな風には思っちゃいない。和佳は目を惹くからな、仕方ない」
俺だって同じだ。ずっと見ていただけだったんだから。最初なんか、勝手に線を引いて見ていただけなんだから。俺が和佳と付き合えた事なんてタイミングが良かっただけなんだ。分かってる・・・そんなこと。
「ほんというとね・・・ずっと花山院さんの事が好きだった。でも、こんなんだから全然打ち明けられなくて、そしたらいつの間にか君が彼女の隣に居たんだ。あんときは悔しかった、ほんと、あの時ほど自分の不甲斐なさを恨んだ事なかった」
そう話す柿谷はその時の事を思い出したのか、唇を噛み締めている。
違う。不甲斐ないなんてお前が思う必要は無いんだ、本当に不甲斐ないって言うのは俺の事を言うんだと喉まで出かかった。
「僕、彼女に告白したんです。今日みたいに待ち伏せをして」
俺は思わず柿谷を見た。
「あいつは、そんなこと何も言ってなかった」
「ははは、秒殺だったし」
照れ隠しか頬をポリポリとひっかきながら柿谷は続けた。
「もうそりゃスッパリとね『大切な人がいる』って。そう言った時の彼女の顔、忘れられないんだ。もうこっちの魂が抜けちゃうくらいに優しい顔してた。彼女にこんな顔させられるヤツ、あ、君の事だけど、心底羨ましかった。同時に、叶わないなって思った。
でもある時から凄く思い詰めた顔をしてた。図書館なんて静かにして喋らないのが当たり前なんだけど、だからこれも見ていただけなんだけど、2年になってちょっとした頃から何だか思い詰めている様子だったんだ」
全然俺の知らない話だった。まだその頃には俺達は上手くいってたはずだったから。
「そしたらさ、試験あたりだっけ、君たちが別れたって聞こえてきたんだ。最初は耳を疑ったよ。けど、彼女、来なくなったから。図書館に来れば絶対に会えるはずなのにぱったり姿を見せなくなったから心配になったんだ」
「・・・そうか」
俺はそう答えるのだけで精一杯だった。
「でもまさか海外だなんてね、彼女らしい・・・って言うのかな。留学するから、君と離れるから寂しかったんだね」
はははと笑う柿谷の声は乾いていた。ひょっとすると俺たちが別れた本当の理由も知っているかもしれないと思った。でも柿谷はそんなことは一言も口にしなかった。
「ごめん、こんな時間まで」
黙り込んでしまった俺に気を遣ったのか、柿谷は伝票を持つと支払いをしていた。
「おい、割り勘だ」
先に店を出たヤツを追い掛けて俺はコーヒー代を握らせた。やつは渋っていたけど最後は受け取った。対等でいたかったという気持ちもあったから。
その後から俺達は顔を会わせれば挨拶はした。だが、それだけだ。互いに思う所はあったけど、和佳がいないんじゃ話した所で傷の舐め合いにしからないって分かっていたから。
キャンパスが変わっても柿谷の事だけはなぜかずっと忘れなかった。
残りの学生生活は勉強とバイトを中心に忙しい日々を送った。加えて3年生の時、大学の協定校の交換留学制度を利用して夏休みから1年間留学をした。和佳の留学先がどこかは知らないが、彼女もきっとこうやって一生懸命にやっているのだと思えば俄然やる気も出た。
日本に帰って来る時期が微妙で就職活動がどうなるか不安だったが、まともに勉強していたからか、国内有数といわれる会社に入る事が出来た。だが、その間、結局、要からの連絡は一度も無く学生時代を終えてしまった。
たまたま卒業式で会った柿谷は見事教員採用試験に合格していて、以前よりも自信に満ちていた。あいつならきっと良い教師になるだろうと思った。
そして最後に、いつか機会があったら会おうとアバウトな約束をして俺達は卒業した。
*
社会人になってからは学生時代と比較にならないほどのめまぐるしい日々を送る事になった。一応英会話もできTOEICの点数も評価されるくらいには取れていたというのもあり、海外戦略のチームに配属され、連日の会議や出張など息つく暇も無いほどだった。
加えて、親との約束で家を出て自分の生活は全て自分で面倒見なきゃいけない。
「ほんと、ぬるま湯だったよな」
たまの休みには実家の有難さが身に沁みた。
要からの連絡を待ちつつ、俺は季節ごとに和佳にメールを送り続けた。当然全くレスポンスは無かったが着信拒否がされているわけではなく、読まれてはないかもしれないが届いている事だけは確信があった。たったそれだけのことだが俺の心は落ち着いた。いつのまにか拠り所になっていた。
メールの履歴を見返してみれば5年目を迎えていた。
仕事が忙しいという理由を全面に出して、社会人になってからも女と付き合うことはなかった・・・したくなかったと言った方が適切か。
漸く最近、チームのメンバーとプライベートな飲みの時に、付き合わない理由を話した。みんなそれなりに大人で俺の言い分を否定しなかった。腹の中でどう思っているかは分からないが、やはり言葉にして聞くのとは大きくメンタル面で違いが出るから、うんうんと頷いてただ聞いてくれた事が嬉しかった。
ただ、面白い事に全ての誘いを断り続けているといつの間にかゲイではないかと噂を立てられていたことがあった。でも正直言ってそんなことはどうでも良かった。むしろ、女達からのモーションが少なくなるだろうから好都合とさえ思ったからそれも否定はしなかった。
「ねぇ里中君って、噂通りに男が好きなの?」
会社の飲み会で皆から蓮川女史と呼ばれている先輩に尋ねられた。乾杯の時にはいなかったと思ったが、いつの間にか俺の隣に陣取り、実に女性らしい笑みを浮かべている。女史は同じ部署ではないが関係部署のため顔見知り程度には知っている。もちろん仕事の上だけだ。
「いえ、俺の恋愛対象は女性だけですよ」
尋ねられたから素直に答えた。
「そうなの? ならどうして彼女、作らないの?」
「彼女?」
俺は何気なくを装い左手の指輪を見せた。すると相手は一瞬黙ったものの、意味深に笑っている。
「その指輪、単なる虫除けでしょ? 知っているわ」
そう言いながら俺の手に触れようとするので不自然にならないように引っ込める。バレているのなら誤摩化しても仕方が無い。開き直った。
「その気になれないんですよ、それに、いまは仕事を覚えたいですから。それに『彼女を作る』というのと『好きになる』のとは違うでしょう?」
少し酔っていたのかもしれない。普段であれば後半の部分は口にしないんだが、この時はなぜか、いや虫の居所が悪かったのかもしれない。
「ふーんそう来るか。じゃさ、どういうのが好みなわけ? おねえさんに教えなさいよ」
俄然興味を持たれたらしい。女史はわざわざ体の向きを変えてまで食い付いてきた。一瞬、失敗したなと思ったが後の祭りだった。まぁ、あとでどうこう言われたとしても今より悪くなる訳じゃ無し、そもそも誰とも付き合う気はないから言っても構わないと思った。
「好きな人がいます。だから誰とも付き合わないんです。それだけです」
「あは、あははははは、嘘が上手ね。その場しのぎで都合のいいこと言って私が諦めるとでも?」
俺の言う事は全く信じられていないようだ。女史はかなり強気で畳み掛けてくる。
「じゃぁその子って誰? まさか君の脳内だけの恋人? あはは、君はそんなイタい人じゃないでしょ? それとも学生時代からでも付き合って彼女でもいるってわけ? そんな話全く聞いてないわよ」
誰から聞いているんだ? と問いつめたくなったが、どうせ噂の域は出ないはず。つまらない嘘や誤摩化しをするより、正直に話した方が良いと判断した。
「付き合って・・・いました。俺が断ち切れないだけです。俺、諦めが悪いんで」
そう言うと女史が舌なめずりをしたように見えた。まるで肉食獣のような雰囲気だ。
「ふーん、やっぱりフリーってことじゃない。そんな指輪してかわいいわね。一途な子って嫌いじゃないわ。じゃさ試してみれば? 今晩私と過ごしてその元カノを諦められるかどうか考えたらどお? もう子どもじゃないんだし」
明らかに誘いだった。女史のバッチリ引かれたアイラインや口紅が途端に気持ちの悪いものに映り、俺は一瞬でほろ酔い気分がさめた。こう言う相手にははっきり言った方が良い。やんわりと言っても良いように解釈されるだけと言うのは経験済みだ。
「他を当たって下さい。俺には彼女だけなんで」
俺が拒否した途端、女史の顔があからさまに引き攣った。まさか断られるとは思っていなかったといった様子だった。けれどさすがに伊達に年齢を重ねてはいないらしい。すぐに体勢を立て直すと口撃を繰り出してきた。
「インポ? それとも、やっぱりゲイ? 今どき流行んないわよ、元カノに操を立てるなんて」
「何とでもどうぞ。俺は俺がやりたいようにやるだけですから」
「君が忘れられないような子なら、きっと今頃、他の人と付き合っているんじゃない? ・・・当然、寝てるでしょうけど」
「・・・それならそれでも良いんです。彼女が幸せなら」
さすがに最後の言葉はキツかったが、それはもう何度も考えた事で、和佳の気持ちを大事に考えるなら些細な事だ。俺は腹に力を入れグッと睨み返した。
俺がなかなか女史の言葉にのっからないせいか相手の顔が段々と逆上していくように見えた。
「里中君って見かけ倒しね。つまんない子。意気地なし。据え膳に手を出さないなんて」
「俺が女として興味があるのは彼女だけですから。・・・すみません、酒が回り過ぎたようです。今日はもう帰ります」
他のメンバーに断りを入れ、俺はその場を去ろうとした。すると今度は腕を引かれ追い縋られる。わざと胸を押し付けてくる。気持ち悪くてたまらない。
「ちょーっと里中君。逃げるなんて卑怯よ。話は終わってないわ。
ねぇ一晩だけで良いの。私ね最初に見た時から里中君のこと良いなって思ってたの。断然カッコいいのにそれを鼻にかけないし、モテるのに浮いた話聞かないし、仕事もできるし。私の目に狂いは無かったって自負しているの。
彼女の代わりだと思えばいいじゃない。寂しいんでしょ? その若さで独り寝なんて不健全だわ」
俺は目の前の女に腹が立った。自信があるのだろう、しきりと俺の腕に胸を押し当ててくる。その感触に吐き気がする。俺は目一杯の力を込めて女を引き剥がした。
「彼女の代わりなんて居ません。すみませんが、欲求不満の解消なら他を当たって下さい。じゃ俺はこれで」
一瞬辺りが静まり返った。女史もまたぽかんと止まっている。唯一、栄さんだけが面白そうにこっちを見ていたのが印象的だったのを覚えている。
一身に注目を浴びる結果になって、つい俺も足が止まってしまった。すると、栄さんが小さく「早く行け」とジェスチャーで示してくれ、ようやく我に返った。だがまだ誰も喋り出さない。俺は小さく会釈を返すと、この隙にと席を立った。
後ろで俺を罵る声が聞こえるがもう振り向かなかった。一刻も早くその場を立ち去りたかった。
酔いがさめ、冷静になって考えてみると明日から仕事がやりずらくなるかもしれないことに思い当たった。だが、仕事は仕事だ。さっきのやりとりも酒に酔った上での事だと割り切ってできなければ大人じゃないと鼓舞し、俺は明日に向けて寝る事にした。