二
R17
俺達は何の問題も無く、普通のカップルとして居られたと思う。
大学だけじゃなく、休みには二人で出かけたりもしたし、互いの家にも遊びに行った。俺の両親も和佳の事は最初からとても気に入ってくれて、彼女が遊びに来るのを俺以上に楽しみにしているのが、ありありとわかっていた。
「お前、逃げられないように気をつけろよ」
「そうよ、お母さん、和佳ちゃんとなら絶対にうまくやれるわ」
「親父もお袋もまだ気が早いって。俺達はまだ大学生だっつーの」
「何を言っているの、いい? 優良物件は早々に売約済みになるのものなの」
和佳が遊びに来た日には必ず両親からこう釘を刺された。俺はそれが鬱陶しくもあり、嬉しくもありと、何とも複雑な心境だったが、和佳は両親が揃って出迎えてくれる事を心から嬉しそうにしていた。
俺としては部屋で二人でいたいと思っていたが、何故か両親が和佳を離さなかった。まぁ俺には男兄弟しか居なかったからというのもあるのかもしれないが、それにしても、すっかり俺と結婚させたいと考えていることに(特に母親が)、内心、苦笑いしていた。
一方で、和佳の両親はかなり忙しい人達らしく滅多に会う事は無かった。だが、会えば必ず声をかけてくれるし、家族団らんの中に自然に俺の居場所を作ってくれていた。とても自然で全く居心地の悪さを感じなく、結局和佳の家でも家族ぐるみの付き合いをしていた。
和佳には弟が一人居るが、彼だけは打ち解ける気配すらなかった。いつ行っても、どんな話題をふっても愛想の欠片もみせてくれなかった。和佳の母親曰く「誰が来てもアノ調子だから気にしないでね」ということだった。そんな彼だったが、和佳と話す時だけは笑顔を見せていたからシスコンなんだろうと納得していた。そして不思議と、俺が和佳とつきあうことを反対するような発言はしなかったと思う。
俺達は、万事、うまくいっているはずだった。
あの日までは。
二回生の前期試験前、俺は和佳と初めて喧嘩した。
今となっては、もうはっきりと思い出せないが、原因はほんの些細な事だったと思う。和佳が何かを言ってそれに俺がキレちまったことだけは覚えている。
二人の意見が違うということに、和佳は真正面から俺に意見を求めて来た。
彼女の言動は、俺との齟齬を埋めたいと思ってやっていたことだと、社会人になって漸く理解したんだ、俺は。
だが、その時は面倒くさいって思ってしまった。それが間違いだった。俺の思考がまだまだ甘えの構造のままで、和佳を理解しようとしなかった。
元々がLINEのようなツールで気軽にポンポンとやりとりする感覚が抜け切れていなかったというのもある。顔を突き合わせて、真剣に真っ正面から意見を求められる事に対して、自分なりの意見を言えなかった。そのこと自体にも腹がたったんだ。
イライラがつのり、感情的になり、和佳に余計な言葉を吐いてしまいそうで、辛うじて残っていた理性をフル動員して俺は和佳と距離をとった。暫く、話すのを止めたかったんだ。俺なりに冷静になりたかったっていうのもある。
後で聞いた話だが、和佳は電話にも出なくなった俺のことが心配だったらしく、サークルでも俺の友達にどうしているのか何度か尋ねていたそうだ。奴らとは決して仲が良い訳じゃなかったのに、行動を起こしてくれていた。そんな事も知らずに・・・
その時、俺が何をしていたのか。
どうして俺の気持ちを理解してくれないんだと、どうして言葉にしなきゃ伝わらないんだと、むしゃくしゃしていた。そんな時、昔ちょっとだけつきあった女の子からLINEが来た。
『週末、暇なんだけど遊ばない?』
『いいよ』
つい、魔が差した。
その子とは確か大学に入ってすぐのコンパかなにかで知り合って1ヶ月くらいしか付き合ってなかったと記憶してるが、それもかなりあやふやだった。だが会えば懐かしいと思った。付き合っている当時、後腐れ無く、あっさりとした関係だった。その関係が楽で、懐かしかった。
俺は元カノと寝た。
元カノとのセックスは、やっている間は夢中になった。思考の外に全てを投げ捨てていた。何も考えないでいられた。
だが、終わった途端、酷い罪悪感に苛まれた。元カノに会う前以上の苦しみが襲ってきた。
俺は、和佳のことを大事にすると言ったのに・・・
ーーー裏切った。
「ねぇ、貴己、あのさ、あたし、やっぱり貴己とよりを戻したいんだ」
独特の鼻にかかるような甘ったるい声でそう言った。元カノは最初からそのつもりだったらしい。俺は深く考えもせずに、軽い気持ちでセックスした事に後悔し始めていた。
「ごめん、やっぱ、お前とじゃ無理。金輪際、これっきりで」
ギリギリの理性で元カノ、亜梨沙の話を断った。
和佳と出会っていなければ、きっとバカな俺のことだ、直ぐにでもその話に乗っただろう。だが、今の俺は、こんな状況でも有り得ないと思った。和佳以外と付き合うなんて考えられないと。そう思ってから直ぐに自分の状況を思い出し再び罪悪感でいっぱいになった。
そして思い出されるのは和佳のことだけになった。
思考を止めようとしても、心臓がおかしいくらいに締め付けられる。彼女は今まで付き合って来た女達とは違う。心から愛しいと思う。本当に大事にしたいと思った初めての彼女だ。
なのに、ただの意見の食い違いだけで、俺は・・・取り返しのつかない事をしてしまった。
ベッドに和佳以外の女と一緒に居るその状況に居ても立ってもいられず、慌てて服を着て亜梨沙に挨拶もろくにせずに部屋を飛び出した。
亜梨沙がそんな俺の様子を面白そうに見ていたが、気が動転していた俺は全く気付かなかった。
早く家に帰ってシャワーを浴びたかった。亜梨沙の匂いを消したかった。俺は心臓が破裂しそうになりながらも走って帰った。このまま破裂してしまえとも思ったが、そうにはならなかった。
全身を皮膚が擦り剥けるまでこすったが、俺の罪悪感は消せなかった。
その日着ていた服は全て捨てた。
俺と和佳が一緒に過ごさなくなってから、周囲が再びザワつき始めた。
放っておいて欲しいと思うが、他人の不幸は何とかってヤツなんだろうと、半ば諦めた。だが、俺はそれでいいが和佳は・・・。
和佳は大丈夫なんだろうかと心配になったが、学部が違うからとか、何だかんだと言い訳をして、俺は確認する事すらしなかった。
一週間経ち、二週間経ち、試験も終わり、その間、俺は過ちを引きずり和佳に会わす顔が無く、ひたすら自分に言い訳をしながら、ずるずると引き延ばしていた。
けれども、さすがにサークルの集まりには顔を出さなくてはならない。後ろ向きになりそうな足を何とかなだめて部屋へ行くと、噂先行の連中が好奇の目で見ている中、いつもの場所に和佳は一人で本を読んでいた。
日頃からLINEで和佳の悪口を言っていた奴らは離れた場所で嫌な笑みを浮かべながら和佳を見てる。和佳をそんな好機の的にしたのは紛れも無く俺の責任だ。
胸が苦しくなる。と同時に愛おしいという気持ちが込み上げてくる。今直ぐに抱きしめたいという衝動にかられるが、裏切り行為の罪悪感から近づく事ができなかった。
久しぶりに見た彼女は少し痩せた気がした。けれども凛とした美しさは失われていない。
目を離せずじっと見ていたら、何かを感じたのか和佳が顔を上げて俺を見た。泣き出しそうな、嬉しそうな笑顔が俺に向けられた。以前と変わらない自然な笑顔だ。
その笑顔を見た瞬間、俺はもう和佳無しでは生きてはいけない、そう確信したんだ。
俺はあの時、あの目から逃げ出したんだ。全てを見透かすような透き通った瞳は俺を追いつめた。だけど、やっぱり好きだって気持ちは変わらない。今の彼女の瞳は俺の事を心配してくれていると分かった。
和佳の笑顔は俺が犯した罪を全てを洗い流してくれるように見えた。
「和佳・・・」
「うん」
「明日、ランチ、一緒にしないか。話したい事があるんだ」
「うん」
俺はサークルのミーティングが散会になるのを待って和佳との約束を取り付けた。連絡を絶った事、そしてその間に犯した罪を告白するためーーー。相当な覚悟が必要だった。
本当のことを言えば、裏切り行為のことを話したら和佳を苦しませるだけのような気もして、一生言わないままでいたほうが良いのかもしれないと考えた事もあった。だが、和佳とだったら乗り越えられるのではないかと思い直したんだ。
そして俺が如何に不甲斐ないか、格好つけずに洗いざらい全てを正直に話して、和佳に結論を委ねようと決心した。
翌日の昼休み、俺は和佳の教室の前で待っていた。珍しそうに俺を見て行く奴らもいたが、ほとんどは昼食をとる為にそれぞれ食堂へ急ぎ足で向かって行く。
「里中君」
和佳の驚いた声が聞こえた。顔を向けると教科書を手に持った和佳が立っていた。俺はなるべく自然に笑顔を向ける。
「迎えに来た」
「うん」
はにかむ和佳を促し、オープンテラスになっている大学のカフェに行った。以前のようにクラブハウスサンドを注文し分けて食べる。和佳はいつも半分しか食べないじから、というより、このクラブハウスサンドはとても量が多いんだ。外国人留学生の多いこの学校の特徴なのだろうけど、それにしても女子で完食するのは無理だろう。
お互いに会話も無く黙って食べる。
だが、この雰囲気は悪く無い。
会話は無くても互いが側にいれば大丈夫だと思える。
この空間がとても心地よく感じる。
そう思える一方で、俺の心の中には、あの裏切りが・・・。その時、俺には悪魔の声が囁いた。
ーーー黙っていれば分からない。墓場まで持って行け。
その答えに至れば、それが正しいと何故か思えた。永遠に口を噤み、過ちを封じ込めてしまえばいいと。黙っていれば分からないから、と。
自分にとって楽な方へと意識が傾いた。
「里中君、もうすぐ誕生日よね。これまでのお礼も込めて何かプレゼントさせてくれない?」
俺が自分の考えに没頭していると、ふいに和佳が俺に話しかけ、俺の思考はそこでストップした。
「二十歳か」
言われて思い出した。俺達は今年二十歳になるんだと。和佳の誕生日は秋だから、少しの間だけ俺が年上になる。
「そうねもう大人の仲間入りだね。大事な節目だもんね」
花が綻ぶような笑顔を和佳が見せた。その笑顔を見て俺も自然と笑みが溢れた。そして折角の彼女の申し出を断るのもいかがなものかと考えた。
「ありがとな。気持ちだけでって答えようかと思ったけど、考えておくよ」
そう答えると和佳は更に笑みを深くして屈託のない笑顔で笑った。やっぱりこの笑顔は手放せない。永遠に俺のものだと、俺が守りたいと思った。
ずっと側に居たいんだ。
そう思えば思うほど、何もかも話そうと決心した事が鈍る。
「もうそろそろ午後の授業が始まるから、行くね」
俺が躊躇している間に、そう言って席を立つ和佳に、慌てて立ち上がる。教室まで送ると言って俺も一緒に歩き出した。
俺達は教室に向かう間、たわいもない話をした。和佳とならば、何でも無い話でも、こんなにも幸せだと初めてわかったんだ。
和佳のくるくるかわる表情を見ているだけで俺の心の澱みが漉されるようだった。
俺は出来るだけ人ごみを避けるように和佳を誘った。もちろん、授業の開始時間には間に合うようにはするつもりだ。
二人だけで過ごしたかったというのもあるし、和佳を奇異の目に晒したく無かったというのもある。俺達がくっついたり離れたりするのを下衆な目で見て、噂を流されるのも時間の問題だが、僅かな間だけど俺は和佳を俺なりに守りたかったんだ。
和佳の次の授業の教室がある棟はもう目前だ。
結局肝心な事は何も言えないままだった。だが、話すにはもう時間がない。もう一度時間を作って仕切り直そうとそう考えた。
「じゃ、また・・・」あとで、と続けようとしたその時、
「貴己」
元カノの亜梨沙が立っていた。
「お、お前、なんで」
予想していなかった出来事に俺は思考がぶっ飛んだ。思わず亜梨沙から和佳を庇うように立つ。
「何でって、元彼に会いに来ちゃだめなんて法律あったっけ? あたしはあたしの思い通りに動くだけよ。会いたいって思ったから来たの」
ごくっと喉が鳴った。これは確信犯だと感じる。そもそも亜梨沙はこの大学の学生じゃなかったはずだ。確かどこかの短大か何かって言ってた気がする。
「あーれーぇ? その子が貴己の彼女なの? ふーん?」
俺を回り込むようにして亜梨沙は和佳を覗き込もうとする。その目は和佳の頭の先からつま先まで念入りに品定めをしている。実に不愉快で腹が立った。
「何しに来たんだよ。お前、ココの学生じゃないだろう」
和佳を背後に庇いながら、亜梨沙を睨みつける。俺達の関係はもう終わったはずだと目で訴えるが、亜梨沙はそんなことには動じなかった。むしろ、可愛らしく(本人はそう思っている)口をすぼめ、上目遣いで俺を見てくる。だがそれは完璧な演技だということは俺は知っている。亜梨沙は自分をどう見せれば相手が自分に落ちて来るのか知っているんだ。これがこいつのやり方で、俺はそれを知っていて短い間だったが付き合っていたんだから。当時は、つい、可愛いヤツと思ったりもしたが、いまは、今の俺には背筋が凍るような嫌悪感しか感じなかった。
和佳を亜梨沙の目に晒したく無いとすら思う。
「つめたーい。貴己ったら、今日はどうしてそんなに冷たいの? この前はあんなに激しく愛し合ったじゃない」
そう言ってニヤリと笑う亜梨沙は、狙った獲物を前にして舌なめずりをしている狩る側の顔をしている。そして和佳に対しては優位に立っていると信じ切っている。
「なっ!?」
俺は、俺の口から和佳に話をして許しを請いたかったことを、よりにもよって亜梨沙から聞かせてしまう事になり、躊躇し己に甘んじた少し前の俺に対して激しく憤っていた。
「里中君?」
和佳が不思議そうに俺を見ている。俺の中の偽りを見透かすような澄んだ瞳だ。俺の好きなその瞳が、今は俺を糾弾しようとしているようにも見える。
「和佳、これは、その、違うんだ、えっと、ちゃんと話をするつもりだったんだ」
もう亜梨沙の事はどうでもいい。時間がなかろうが授業が始まろうが、きちんと話すべきだ。だが、俺の口からは情けない言葉しか出て来ない。
「あら、違うなんて。ねぇ、貴己。久しぶりに良かったでしょ? 私の体、忘れられないわよね〜」
「うわっ」
背後から亜梨沙が俺の腕にしがみつく。慌てて振り払おうとするがますます体を寄せてきた。
「和佳っていうのあんた? あたしたち、こういう仲なの。体の相性ピッタリで離れられないわけ。だから、ーーーあんた邪魔。消えてよ。貴己は返してもらうわよ」
亜梨沙は俺の腕に胸を押し付けながら、それを和佳に見せつけている。
「え? ・・あの・・・里中君?」
不安げな目で和佳が俺と亜梨沙を見くらべている。俺は亜梨沙に向かって叫んだ。
「やめろ!」
「いやよ! 貴己はやっぱりあたしとの方が似合ってる。こんな、こんな野暮ったい子は似合わないんだから! どうしてあたしじゃ駄目なのよ! あたしが駄目で、あんな子を選ぶなんて、絶対、許せない!」
亜梨沙は何が何でも俺から離れる気はないらしい。だが、俺には、もう・・・
「和佳ごめん、俺が先に言うべきだった。間違った。俺、お前しか要らないんだ。俺はお前が」
何とか亜梨沙を引きはがそうともがいている間、和佳は蒼白な顔をしてじりじりと後ずさっていた。黒目がちな大きな目に、涙が盛り上がっているのが見えた。
「和佳、頼む! 俺の話を聞いてくれ」
和佳の目からひと雫、涙が零れ落ちた。それをきっかけに、和佳は走り去った。
「和佳! 待って!」
「いやー! だめ! 貴己は私のよ! 行かないで!」
尚も絡んでくる亜梨沙を力一杯引き剥がすと、俺はすぐに和佳を追い掛けた。だが、どこに隠れたのか、午後の授業をサボって探したが結局は見つけられなかった。