十三
「・・・・」
「・・・・」
話し声が聞こえるのに気がついた。何を話しているのかまでは分からないが、俺の名前が聞こえる気がする。
どうやらその中に俺の待ち望んでいた人の声があるようで、その声に導かれるようにゆっくりと意識が鮮明になってきた。
「里中君? 里中君! 気がついた?」
ふわりと懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
もっと嗅いでいたくて自然とその方向に顔が向く。目を開くと果たして期待していた通りの愛しい和佳の顔があった。
和佳は真っ赤に目を腫らしていた。その真っ赤な目で俺を心配そうに、・・・見下ろされているのに気がついた。
(俺はまた彼女を泣かせてしまったのか?)
ジワリと苦い感情が広がる。
「里中君、私が分かる?」
和佳の問いかけに「もちろん」と頷くと、華奢な指で俺の髪を梳いてくれた。その優しい手の動きにうっとりと夢見心地にひたりそうになっていると、間近でゴホンという無粋な咳払いが聞こえた。
咳払いのした方へ視線を向けるとそこには要と、栄さんと、知らない年配の男性が見える。そして壁際にはダークブロンドの男性が壁にもたれてこちらを見ていた。ジェイミーだ。
「栄さん?」
「よ、大変だったな」
栄さんは相変わらずのチャラさで、挨拶がわりにヒラヒラと手を振ってる。この人はどこにいても態度が変わらないなと、妙に感心してしまう。
「ラブラブなところ申し訳ないがな、この状況を理解できているか?」
栄さんの問いかけに少し考えた。「えっと、痛みがあって・・・」そこから先はどうしたんだっけ? ブラックアウトした後の記憶は流石に無さそうだ。降参と首を振ると和佳が教えてくれた。その間ずっと俺の髪を梳いてくれている。
「ジェイミーがあなたを捕捉した時にどうやら肩を痛めたらしくて・・・」
と説明してくれるが、ちょっと間があく。何故か恥ずかしがっているように見える。
「その・・・極めつけが、私が、全体重かけちゃったから・・・なの。あなたが痛めた方の腕で二人分の体重を支えることになって、それで・・・ごめんなさい」
和佳が顔を赤くして顔を伏せてしまった。それと同時に、残念なことに髪を梳く手が止まった。
「ああ、そっか。そうだったね」
ポンと和佳の頭に手を乗せる。
そうすると自然と彼女は顔を上げてくれることを俺は知ってる。
和佳に大丈夫だからと伝えると彼女もいくらかほっとした表情に戻り、俺の手を捕まえて頬にあてた。幸せそうに俺の手に頬擦りする和佳の表情が新鮮で、同時に嬉しくて、俺からも指を動かしてそっと頬を撫でてあげる。
ソファに横になりつつのこの姿勢は少し不自由さを感じた。どうやらその原因は利き腕である右腕がいつの間にかがっちりと固めてあることにあるようだ。これは日常生活に支障が出そうだなと思わず溜め息が出た。
「痛みは?」
年配の男性が冷静な顔で問いかけた。雰囲気から医者だろうと見当をつける。それを裏付けるように和佳が「お医者様よ」と教えてくれた。
少し意識をして腕に力を込めてみると、意識を失う前に感じた痛みは今はない。首を振り「ありません」と答えると医者も軽く頷いた。
「痛み止めがしばらくは効いているだろう。念のため、これから病院で調べてみよう」
医者に言われて窓を見た。意識を失う前はまだ外は明るかったはず。俺、どのくらい気を失っていたんだろうか。
遠くに見える稜線の上の空だけに色を残し、既に夜に差し掛かっている。
通常であれば病院はとっくの昔に診療は終了しているはずで診察を受けるなら明日まで待たなければならない、この時間から対応してくれるとは本当に有難い。
このまま家に戻っても何もできないし、和佳もその方が良いと言うし、ここは素直に従おうと身体を起こした。すぐさま和佳が俺をサポートして起き上がるのを助けてくれる。
「ありがとう」
礼を言うと、はにかむ笑顔が返って来た。
「私も一緒に行くわ」
「姉さん!」
「和佳!」
和佳の言葉に慌てたのは要と栄さんで、二人ともに和佳が同行するのを反対している。ジェイミーは言葉が分からないようでじっと俺達のやりとりを見守っている。
「姉さんにはこれからもう一本仕事が残っているって聞いてる。里中さんとは一緒には行けないよ」
「でも・・」
「里中には俺がついていくから、お前はここに残れ、いいな」
同行は栄さんが名乗り出てくれたけれど、俺からも何か言わないと和佳が諦めないようだ。仕事とわかっていても割り切れないようで不安そうに瞳が揺れている。
「和佳、大丈夫だよ。治療が終わったら連絡するから、ちゃんと契約どおり仕事をこなしてくれ。俺の望みだよ」
社会人として契約を全うするのは当たり前のこと。それが分からない和佳ではないはずで、単純に俺の怪我が心配で一緒に行きたがっているだけだろう。だからきちんと連絡すると約束すれば彼女も渋々だが頷いてくれた。
栄さんに付き添われ医者とともに部屋を出ようとすると和佳が小走りに追い掛けて来た。
「仕事が早く終わったら迎えに行くから」
惚れた女にそこまで言われるなんて男としては嬉しい限りだ。固定されていない腕で和佳を抱きしめていると、栄さんから容赦のない「早くしろ」との声がかかった。
*
みっちり時間をかけて検査を受けたあとの診断で告げられた言葉に、やっぱりかと心が折れそうになる。
「くれぐれも無理をして動かさなように。君の場合はできれば1ヶ月は誰かに介助をしてもらうのがいい」
この腕の固定は最低3週間はつけていなければならないそうで、その間は不便極まりない生活を送ることになりそうだ。想像しただけで気が重くなった。
しかし一口に介助とはいっても誰にお願いすれば良いのかすぐに思い浮かばない。電話をして母親に来てもらうか、この際、怪我を理由に実家に帰るかするかなと算段を練り始める。
「わ、私が、やり、ますから、はぁ、大丈夫ですっ、はぁはぁ・・・。先生、教えて下さい」
息を切らしつつ、私服の和佳が診察室へ飛び込んできた。どうやら廊下を走って来たようだ。そしてやや遅れて要も姿を現した。こっちも息が荒い。
「姉さん、病院の廊下は、はぁはぁ、走っちゃダメって、言っただろう!」
息の荒さから要も走って来たはずで、シスコンの要はとことん和佳にくっついているつもりらしい。
小言を口にしながらもどこか強く出れていない要の様子に、本人に気付かれないように、こっそり笑った。
一方で医者はそんな姉弟の様子に慣れているようすで全く驚きもしていない。むしろ「君たちは昔から変わらないねー」と苦笑いを浮かべている。けれど話が俺に戻った時には、医者の表情が少しだけキリッと戻ったようだ。
「和佳ちゃん、介助をやると言っても今の君には難しいと思うけど?」
要は遅れて来たせいか、何のことか分からないようで医者に説明を求めた。
俺に介助が必要になり期間は約1ヶ月かかると知ると、途端に溜め息を吐いていた。それもそうだろう。期間限定で帰国している和佳に、介助をする時間なんて無いに等しい。滞在している間のスケジュールは仕事でみっちり埋まっているはずだ。
さんざん要からダメ出しをされているが和佳は全く引く気がないようだ。どこまでも平行線の姉弟喧嘩はそろそろ止めてもらいたい。
「和佳、気持ちだけありがたく受け取っておくよ。利き腕がこんなだからって生活が出来ない訳じゃない。両利きとまではいかなくても、実は左手もそれなりに使えるんだ。だから気にしないで。和佳はしっかり仕事をこなすことを考えてくれ」
問題ない、安心しろと笑って言ってやると和佳がくしゃっと顔を歪ませた。
「わたし・・・、私のこと・・・必要ない? 私じゃ里中君の力になれない? 一緒にいたら迷惑?」
思わず黙り込んでしまう。だって、仕方がないだろう。7年もの間、待ち焦がれた相手が、相手もまた俺と同じように俺を求めてくれていたと分かって。かつ、俺と一緒に居たいと言ってくれている。俺だって同じ気持ちだ。
けれど、もうあの頃のようにその場の感情だけで動いてしまうほど、バカで無責任では無いつもりだし、世間ってものをそれなりには知っているつもりだ。
俺は・・・。
俺達は責任ある大人としての行動をとる必要がある。自分達さえ良ければそれでいいなんて気持ちで動きたく無いし、そんなつもりは一切ない。
世間体を気にしているわけではないけど、少なくとも上手く立ち回る必要があるのは確かだし、和佳を、惚れた女を守るには、節度を持った行動が大事だということ、それに尽きるんだってことは分かっている。
全ては和佳と俺の将来ため。本当に大切にしたいから焦りは禁物なんだ。
そのことは彼女もきっとわかってる。でもこんなにも彼女がかたくなに自分の意見を譲らないのは、俺の過去の行動のせいで不安にさせているんだと思う。再び俺が他の女のところにいくんじゃないかと思っているに違いないんだ。俺がその立場だったらやはりそう疑うだろう。
「和佳、君は十分俺の力になってくれているよ。こうして心配して病院まで来てくれてる。とても嬉しいよ、ありがとうな」
左手で和佳の手を握る。そして見上げる形で和佳に話しかけた。
「聞いて和佳。出来ることなら俺も一緒に居たいよ。けどね、俺達は互いに責任ある仕事をしているのも事実で、大勢の人達との関わりがそこにはある。そんな彼らを巻き込んで、迷惑をかけるのも本意じゃない。
少し時間はかかるかもしれないけど、正々堂々と君と一緒に居られる環境にしたいと願ってる。だから少し待っていてくれないか。もちろん和佳以外の女に頼ることはないよ、母さん以外はね」
懇願というわけじゃない。正直な気持ちをそのまま言葉に乗せただけだった。けれど十分和佳に通じたという手応えがあった。その証拠に不安そうだった彼女に笑みが戻っていた。
「うん。大丈夫、待てる。ううん、きっと待ってもらうのは里中君の方ね。私の今の契約が終わるのは来年だもの」
話しながら和佳は自分自身に言い聞かせているようだった。その表情は俺と同じ目標に向う同志にも見える。これほど心強い仲間はいないだろう。
「ありがとう和佳」
そう言うとニッコリと微笑む和佳の姿があった。