十
和佳は丁寧に一人ずつ頭を下げている。相手の目を見て、一言二言会話を交わす。とってつけたような笑顔ではなく、自然な笑顔で自分の父親世代と渡りあっている。その流れるような所作は昔と全く変わらないか、ますます堂に入っているのかもしれない。
彼女は努力していた。
俺はそのことを知っている。
知識も経験も乏しい学生の頃から、日々努力しているのを誰よりも側に居て見て知っていた。
些細な事だが、日々の積み重ねの賜物であり、それが今の彼女の内側から滲み出る自信に繋がっていて、あのような堂々とした振る舞いが出来ているのだろう。まさか数年後タレントになっているなんて思いもしなかっただろうが、将来の事を見据え小さな努力を積み重ねていたからこそだ。
そんな和佳がとても誇らしい。それは偽りの無い感情だ。
彼女の姿を横目で見ながら俺は比較的、人の少ないエリアに足を運んだ。下手に人ごみに紛れてしまうより良いと判断したからだ。
スタッフの采配が完璧なのか、今のところ和佳の一行はスマートな動きを見せている。気に入らないが、彼女のすぐ脇にはステージでエスコートしていたダークブロンドの男性が常に付き従っていて、礼儀を欠き下手な動きをしようとする輩を無情にも退け睨みを利かせ黙らせている。
実際、近くで見ると上背は平均的な日本人より頭一つ分高く、加えて鍛錬している人独特の雰囲気が滲み出ており、はっきり言うと近付き難い。ニコリともせずに、ひたすら和佳に尽くすナイトのようだ。そんな彼の腕の中で、和佳は安心しているようで笑顔を崩す事は無かった。
お門違いも甚だしいとは十分理解しているが、正直、悔しくてたまらず、その気持ちを自分の中から追い出そうとそっと息を吐きだした。
和佳を待つ間、ジリジリともどかしい気持ちがもたげて来る。何とも言えないこの時間から早く解放されたいと、まるで審判を待つ罪人のような気持ちになっていた。
正直逃げ出したい。だが、もうすぐ、もうすぐだと早鐘を打つ心臓をなだめながら待った。
突然ふわりと懐かしい香りが鼻をくすぐった。和佳は人工的な香りはつけないが、なぜか彼女自身からはいつも優しい香りがする。特に、抱きしめた時には強く感じたし、俺の心を宥めてくれていた。
何年も嗅いでいなかったその香りを、心臓は不思議と覚えていたようだ。
トクトクトクトク・・・
その懐かしい香りを嗅いだだけで今まで以上に心臓が高鳴った。俺の気持ちなどそっちのけで、心臓はどんどんヒートアップしていく。いくら静まれとシャツの上から押さえ付けてもまったく言うことを聞かない。このままではヤバいと、落ち着けようと深く呼吸をすれば、和佳の香りまで吸い込み更に鼓動が早くなった。
目をギュッと閉じ、頼む落ち着けと己の心臓に言い聞かせている間に周囲で空気が大きく動いたのを感じた。視線を上げると目の前で少し驚いた表情をして立つ和佳がいた。
お互いに無言で立ったまま動けないでいる。けれど彼女の姿から目が離せない。
どことなく違和感を感じた。よく見れば和佳からさっきまでの笑顔が消えている。きっと俺の姿を見て驚いたんだろう。
「あ」という言葉を飲み込んだまま軽く口が開いている。そんな間抜けなところも可愛く思えるから俺は相当に和佳のことが好きなんだな思った。
『好き』ーーーそうだった。硬直している場合じゃない。先手必勝だ。和佳がまだフリーズしている間に俺の方から声をかけた。
「和佳・・・久しぶり。・・・会いに来たよ」
極限の緊張に声が震え、少し掠れた。しかしそんなことを気にするよりも、幽かに和佳の唇が震えているのに気がついた。何か言葉にしようとしているようだがうまく声にならない、そんな感じだ。俺はどうすべきか、何を話すべきか逡巡していると、すぐ側で違う人の声が割って入って来た。
「姉さん久しぶりだね。家に帰って来るんだとばかり思ってたんだけど」
要だった。こちらも7年前の幼い表情はすっかりなくなり、大人の顔をしている。この場にも気後れすること無く堂々とした佇まいだ。別れて以来、要とも会っていなかった。彼は俺のすぐ隣に立つとジロリと睨んで来た。余計なことを言うんじゃないぞと牽制しているようだ。
要の登場でようやく和佳が我に返ったようだ。慌てて笑みを作りなおすと、要に向き直った。
「あ、か、要。うん、久しぶり。本当はそうしたかったんだけど、飛行機の大幅なディレイがあって予定が狂っちゃったの。ごめんね。それで、遅れた分をリスケしてたらどうしても自宅よりホテルの方がいいってことになって、ずっとホテル住まいなの。お父さんとお母さんには連絡してもらってたんだけど」
姉弟の気のおけない会話からも、要の与り知らないところで和佳のスケジュールが色々と大変だった事が伺える。しかし和佳の話に要は少し不満気だ。
その表情を見ながら、ひょっとすると要は俺のために色々と画策してくれようとしていたんじゃないかと、図々しくも考えた。
「そうなんだ。僕、ここ最近両親とは別行動でね会ってなかったんだ。今日もまだ会えてないんだ・・・ていうか、メールくらい入れてくれれば良いのに。何だかんだとさ姉さんも父さんも母さんも酷いよね」
「・・・うん、ごめんね要」
和佳は要に拗ねられて、ちょっと困った顔をしている。この姉弟はいつもこんな感じだったなと懐かしくなった。二人の会話を横で聞いていたら、和佳が思い切ったように体ごとこちらに向き直り声を発した。
「里中君も久しぶり。すっかり大人になってて、かっこよくなっててびっくりしたわ。・・・元気そうだね」
何となく笑顔がぎこちなく見えるのは、俺がここに来ることを聞いていなかったのかもしれない。要ともうまく連絡を取り合っていなかったようだし、さっきの会話を聞いていてそう感じた。要にどうなんだと視線を送るとばつが悪そうにスイッと逸らされてしまった。
「体の丈夫さだけは昔からの取り柄だからな、元気そのものだよ。そんなことより、君も大人になってて、すごく綺麗になってて、なんて声をかけていいか分からなくて、その、正直言って気後れしてるんだ。さっきのスピーチ、とても良かった。堂々としてて誇らしいし、嬉しくなった」
みるみる和佳の頬が染まっていく。
「もう! 里中君ってそんなことを言う人だったっけ?」
褒められたのに困ったような恥ずかしいような、彼女のそんな表情がとても初々しい。そんなところは以前と全く変わらないなと見とれてしまう。
「いいや、本当の事だ。和佳は綺麗になった」
恥ずかしそうに俯きながらもチラリと俺を見る和佳の姿に、理性が飛びそうになる。直ぐにでも攫ってしまいたい衝動にかられる。だが、そこはぐっと我慢だ。代わりに、俺は最も聞きたい事を尋ねるため、気持ちを落ち着けようと大きく深呼吸をした。恐らくこの時が最初で最後のチャンスだ。
「和佳、聞きたい事があるんだ。いま、君は、」
「姉さん! 今日の夜は家に帰れるんだろう? 久しぶりに水入らずの話ができる?」
タイミング良くというか悪くというか。
・・・要のやつ、わざと邪魔をしやがった。さすがに憤りを込めてジロリと要を睨み付けた。だが俺の抗議の視線を受けても平然と受け流した要は、会話を姉弟のものにして、最後に「ほら、他の人が待っているよ」と先を促した。もう会話の糸口を俺に渡さないつもりらしい。
「う、うん。そうね、そう、じゃ、また、里中君」
和佳のボディーガードがこれ見よがしに彼女の腰に手を回して強制的に方向転換させ、俺と和佳の視線を遮った。和佳はその男の陰にすっぽりと隠れてしまっているからもう姿を見ることができない。
183cmの俺よりさらに高い位置から威圧的に見下ろされたが、和佳の姿が見えないのなら好都合だ。思い切り見返してやった。数秒間、睨み合いが続いたが、ボディガードはフンと顔を翻すと、彼女を抱えるように去って行った。
最後にボディーガードめがけて全身全霊をもって睨みつけてやったから、もう俺の気力はゼロに近い。そして認めたくないが、敗北感に似た気持ちがジワリと広がっていたところだった。
立っている気力すら限界に近い。でもここで気を抜いてしまったら、下手をしたらこの場で蹲ってしまいそうだ。
さすがにそれだけは駄目だろうと、残りの気力を振り絞り退場しようとしたその時、ざわざわと人々の声が聞こえて来た。
少しずつざわめきが近づいて来る。その方向へ顔を向けると波うつように次々に人が脇へ避けているのが見えた。
その間をぬって現れたのは去って行ったはずの和佳で、小走りに駆け戻ってくる姿だった。反射で脇へ避けようとしたが、和佳は俺の腕を掴んで止まった。
「里中君、ごめん。勇気がもてなくて、また繰り返すところだった。私、あの時に言えなかったことを言う為に帰国したの」
そう告げると、息を整えて真っ直ぐに俺を見、そして俺の両手を包み込むように手に取った。俺の手より二周りほど小さな華奢な手がしっかりと意志を持ち何かを伝えようとしている。
「幸せになってね」
そう言った途端、和佳の表情が歪んだ。
この顔は泣き出す前の顔だーーーー。
思わず和佳を抱きしめようと俺の勝手に体が動く。
「姉さん!」
要が俺との間に割って入ってきた。そして、すぐにあのボディーガードもやってきて、繋いでいる俺達の手を振り払い、更に言い足そうとしていた和佳を有無を言わさずに連れ去った。
「和佳・・・違う、俺は・・・」
無意識に和佳を追うつもりで踏み出そうとしたところ、前に進めない。誰かが俺の体を掴んでいるのに気がついた。
「黙れ! パーティーをぶち壊す気か!」
要が抑えた声で鋭く諌め、鋭い視線で俺を制する。その目にはこれ以上口を開くなと言っているようにも見えた。そして何故か栄さんが近くに来ていて、俺を強制的にその場から引き剥がした。
引き止めていたのは栄さんだったのかと、ぼんやりと思い至るがどこか現実的に感じない。頭では和佳を追いたいが、社会人としての常識とさり気なさを装いつつも、懸命にその場を取り繕うとしている要や栄さんの様子に、身体は彼らに従ってしまっていた。
一番近くの扉から会場を出され、人気の少ない所に連れて来られた。
「頭を冷やせ。周りをよく見ろ。お前らの会話は全て聞かれているんだ」
栄さんに言われて辺りを見渡せば、会場の外にいても遠くから好奇心に満ちた視線が俺達を見てるのに気がつく。そこでようやく大人としてとるべき立ち居振る舞いを思い出し愕然とした。
「俺は、ただ・・・今しかチャンスが無いと思って」
自分で言いながら、ああ、失敗したんだと思った。同時にぐっと何かが込み上げてくるのを抑えるのに必死だ。
「この腑抜けめ、・・・泣くなよ。ったくバカかお前は。要が止めなかったら大変な事態になっていたかもしれないんだぞ。和佳も和佳ならお前もお前だな、見てらんねーよ」
なぜここに栄さんがいるのか、いまだにそのことすら疑問に思わないほどに気が動転していたのは確かだ。何の疑問も持たずぼーっと栄さんを見つめた。
目の前の栄さんは、チャラく見える要素であるやや色素の薄い髪をさらりとかきあげると、思い切り溜め息を吐いた。そして顎で俺を促し、二人してソファへと腰掛ける。
パーティ会場で男二人が抜け出して人気のない所で深刻そうな顔を突き合わせている構図は、違う噂のネタを提供しそうだと栄さんが零している。俺にはそんな趣味はないからな、とも言っているが意味がわからない。
栄さんは周囲を確認すると、だらしなく背凭れながら「ここからは俺の独り言だ、さっさと終わるからな」と呟いた。何のことか分からず栄さんを見たが、当の栄さんは全く俺を見ようとしていない。側にいながら全く違う方向を見ているだけだ。俺は黙って頷いた。
間を置いた後、栄さんがぽつぽつ話し始めた。
「会場、凄かったよな。さすが大会社、驚きだよ。なんでもこの上の階に贅沢にもフロアごと貸し切ってあるらしい。んで和佳の控え室もそこにあるらしいんだ。だから一般人は入れないけどな、会社関係者および親族に配布されているこいつを付けていれば咎められずに入れるんだとよ。っと、あーあー落っことしちまった」
そう言うと何やら俺の足下に投げて落とした。栄さんは目線で俺に拾うようにと示す。その意味に気がついて慌てて拾い上げた。
「あ、ありがとうございます!」
思わず力んでお礼を口にしてしまう。するとすかさず注意された。
「うっさい、このアホたれが! 独り言だっつーの。独り言に礼を言うバカはいねーだろーが。ったく。気がきかねぇな。
まぁそんなこんなで、そろそろ和佳の挨拶まわりも終わるだろうし、その後はきっと控え室に行くんだろうさ。主役が退場ってことで、パーティもおって締めくくりの挨拶になるだろうし、そのあとは解散ってとことになるだろう。
お開きになった後、お前がどうしようと俺の知った事ではない。男には興味ねーからな。
ああ、そーいえばさっき煙草を吸える場所を探してたら非常階段には誰もいなかったなぁ、どこで煙草吸えるんだっけ」
思わず「タバコ吸う人でしたっけ?」と口に出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
栄さんは最後までブツブツと独り言の態を崩すさず、言いたいことだけ言うと、ヒラヒラと手を振りながら会場内に消えて行った。
俺は周囲の様子をうかがい、人に見られないようにパスをスーツの内側に仕舞いこんだ。ついでに軽く身だしなみを確認すると、栄さんを見習って何事もなかったかのように会場内に戻った。
扉を入るとちょうど三塚と安竹がいた。いつもタイミングがいい。これで探しまわらなくて済む。
二人に先に出ることを伝えるとそっと会場を後にした。
行動を起こすならゲスト達が一斉に動きはじめる時に合わせる方がいい。しかしそこでもたもたしていたら目を付けられる可能性もある、だから会場周辺を調べるために先に出た。
何の気も無さそうに壁にあるホテルの見取り図を眺めつつトイレへ行き、会場へ戻る振りをしてエレベータ周辺を確認する。案の定、一基は使用不可になっていた。関係者以外が使わないようにちゃっかり人も立っている。きっとあの基以外は、和佳の控え室のある階には止まることはないハズだ。
頭の中でこれからのことをトレースしタイミングを待った。
会場の扉が開き人々が流れ出した。いよいよ実行だ。躊躇いは許されない。
人の流れに乗じて、俺は栄さんに言われた通り非常階段へと体を滑り込ませた。