閑話02 アンバランストライアングル 肆
大セクハラ回となっております。
不快な表現ありますのでお気をつけ下さい。
そちらの方向を連想させるような描写も多いです。
ホーンは『連絡係』。エナはそう言っていた。
貸し倉庫に使い捨てのスマートフォン、
連絡係を用意して警察をかく乱する手口など。
この誘拐は僕が考えていたよりも、ずいぶんと慎重に計画されているらしい。
だからだろう、計画を壊す者の存在に室内は一種異様な空気になっていた。
今、エナは収納ボックスの上のノートパソコンに向かって、
不機嫌な声を上げている。
こちらからはメタリックな背面しか見えないが、画面にはビデオ通話でホーンが映っているはずだった。
ホーンがスピーカーモードにしたスマホからは、聞きなれた父親の声がする。
正確には集音マイクが拾った、エナのノートパソコンから聞こえてくる音声だけど。
距離がありすぎて、ほとんど聞き取れないが、
やっぱりエナを刺激しているらしい。
だんだんとエナが興奮していき、リンのニヤニヤが強くなる。
僕はといえば、すっかり血の気が引いていた。
「はあ!?取引があるから切る?アホかてめえっ。てめえの息子だろうがよっ」
「……本当に切れた」
ぽつりとリンが零し、
エナが壮絶に部屋の隅にあったドラム缶に八つ当たりをした。
ドガシャンと凄い音がして、蹴っ飛ばされたドラム缶は反対側の壁に激突し、再び派手な音をたてて落下する。
コンクリの壁にヒビが入り、錆びて真っ赤だった古いドラム缶は半分くらい形を保っていなかった。異常な脚力だ。
そして、その様子をリンが腹を抱えて笑っている。
「Don't lau――っチィ。黙れリン」
大きく舌打ちしたエナは、再びパソコンの前に戻ると
幾つかの指示をホーンに出してから、ビデオ通話を終了した。
その後も頭を抱えて「Ass……e!」とか「You're re…ly……ass.」とか、
悪口みたいなのを叫んでいる。がしがしと髪を掻き毟り、耳まで赤い。
多分、あそこでドラム缶を蹴っ飛ばしていなければ、
パソコンをぶち壊していたと思う。凄まじい荒れっぷりだ。
どうやったら、ここまで人を怒らせる事ができるのだろうか?
「くそっ!ぶち殺してやりてぇ」
「凄いねあれ。こういうのを日本語でけんもほろろって言うんだっけ?」
「ちょっと黙れ、リン」
エナは荒い息を吐いていたが、やがて僕と目が合ってしまった。
こくんと喉が動いた。冷たい汗が喉元をつたい、きゅっと体が固くなる。
やつの瞳全体が黒目になっている。――人外の眼だ。
……ゆっくりと近づいて来る。
「お坊ちゃんよお。お前の親父、ありゃなんだ?」
近づいてくるエナの目は、縦長の黒い瞳孔に焦げ茶の虹彩をしていた。
白目も隠れている。
コドーの爬虫類の瞳とは印象が違い、どちらかというと猫だろうか?
でも全部が黒目に見えるほどに、濃い茶色の猫の目なんて見た事が無い。
「常に上から目線で説教かましてきやがって。あげくの果てに警察呼んであるから、二時間後にかけ直せって言ってたぞ」
「……父は良く言って合理的なんです。僕は次男ですから」
「けっ。長男を攫えば、もうちょい違ってたってか?にしたってよ。親だろ?
ん?親か……」
「…………」
一瞬、浮かんだ苦々しげな表情が途中で変わる。
エナは僕の身体をつま先から頭のてっぺんまで、じっと見つめた。
そのうちに変化した目は、まるでモーフィングを見ているかのように元の形へと戻っていく。
僕はあっけにとられて変わっていくエナの目を見ていたけれど、エナは気にもしない。代わりに歪な笑みを浮かべた。
「映像がありゃ、ちょっとは変わるかもな?」
低い声と一緒に、すっとすがめた瞳に剣呑な色が宿る。口元から覗く犬歯は肉食動物のようだ。
……忘れていたわけじゃないけれど、こいつも充分危ないやつだった。
人に戻ったからって安心してはいけない。
「いい感じに顔も腫れているし、ちょうどいいな。ふん。もう少し演出するか?」
「な、なにを?」
うろたえる僕にエナは楽しそうに笑って見せた。
制服の上着に手をかけてくる。
後ろに下がろうとしても背後には柱があって、これ以上は逃げられない。
コドーに追いつめられた時と同じような状況だ。
思わずコドーの方を見れば、やつは愉悦の表情で身を乗り出していた。
頭の上にはリンの手。リンに押さえつけられていなければ喜んでこちらに来ていただろう。
これは、なにかまずい。今日、何度目かの警鐘が鳴る。
「あんた、余裕だなぁ?」
低くかすれたエナの声に視線を戻すと、驚くほど近くにエナの顔があった。
表情の読めない深い茶色の双眸が僕を覗き込んでいる。
後ろ手にしばられている僕は、身体を引く事くらいしか出来ないが。
襟首をつかまれていては、それすらも不可能だった。逃げようが無い。
「日本の子どもは危機感がねえよな。犯罪者にめちゃくちゃ優しい国のくせに呑気なもんだ」
ブツっと音がして制服のボタンが飛んだ。
前にひっぱられる衝撃に怯んだが、それ以上に打撲の痛みが一段と酷くなり悲鳴がこぼれる。脳が揺れて涙がにじんだ。
「う……」
「悪りーな。俺も趣味じゃ無いんだが、あんたの親父のせいだと諦めてくれ。
さて、泣いたり。わめいたり。暴れたり。大いにしてくれて結構だ」
「――っ。やめ……」
さらけ出された首元に吐息を感じ、ねっとりと熱く湿ったものの感触がした。
まるで肉厚のなめくじが這っているみたいだ。ふつふつと鳥肌がたつ。
身体をよじって逃げようとしたけれど、くらりと眩暈がして上手く動けない。
……冗談だろう。こんな時にまさか失神?
「んー。どーすっかな?噛み付くか?」
「やめ……て、気持ち悪い」
首元で喋ってるエナが不快だ。気持ち悪すぎて変な汗が出る。
あ、違う。これ失神の時の汗だ。まずい。まずい。まずい。
意識を強く持たないと。自分を守らないと。
思うように動けない身体が恨めしい。
なにをしようとしているの?
かすむ視界のなかで懸命にエナを探す。大きく開いた口と鋭い牙が見えた。
吸血鬼の捕食シーンみたいだ。
この期におよんでも、どこか現実味が無い僕は馬鹿なのか?
これはまずい。のに……。
「や、だ……」
喰われると、ぎゅっと目をつぶった瞬間、離れたところで物音がした。
なにかが崩れるような音。ピタリとエナの動きが止まる。
「エナ。俺、ちょっと見てくるわー。窓の外なー」
「……おう」
目の前にあった人間の体温と重圧が消えて、僕は大きく息を吐いた。
――――助かった。けれど、さっきの音って……。
安堵と共に僕の意識はすうっと白く掻き消されていく。
駄目だ。なにが起きたか確認しないと。なのに。ああもう!
窓の外って双子?まさかね。彼らは警察に行ったはずだ。
ぐるぐる回る思考に比例して気持ち悪さも増していって、僕の意識はあっさりと刈り取られた。どうして僕は…いつ……も。
【PM18:47 某都内倉庫内】
「エナー。にゃんこ拾った」
リンの声で、僕は目を覚ました。地面とエナ達の足が見える。
いつの間にか横向けに寝かされていたらしい。……エナか?
良かった。失神していたのは、そんなに長い時間じゃ無かったみたいだ。
寒いと感じていた室温が一気に戻った。
汗で身体が湿っていて、プールの後のような気だるさが残っている。
そんな事よりも物音の正体だ。本当にただの猫だったらいいのだけど。
リンは窓から出入りしたらしく、
女の子を子ども抱きしたまま、ひょいっと窓枠を飛び越えて入って来た。
サラリと腰まで伸びた艶やかな髪の毛が綺麗になびく。
窓から覗いていた時は頭だけだったから分からなかったけれど、
彼女は学校の制服ではなくて、水色と緑のチェックのワンピースを着ていた。
……って、双子の片割れじゃないか!?
ざあっと僕の血の気が引いていく。
玖珂塚君と一緒に警察に行ったんじゃなかったの?
「おい、リン。そのお嬢さんなにしてたんだ?」
「うん。あそこの窓の下さあ。材木が積んであったんだけど。
その上に載って覗き見してたみたい。んで、エナのセクハラに驚いて落ちちゃったんじゃね?」
「セクハラっておまえ」
エナの苦情ににっこりと笑ったリンは、そのまま、まっすぐ僕の前までやって来た。玖珂塚さんは真っ青な顔色をして固まっている。
苦笑しながら、リンはそっと彼女を僕の隣りに下ろした。
「君のお名前は?」
「……」
「おーい?」
目の前で手をひらひらさせても玖珂塚さんは反応しない。
リンの様子は変わりないが、エナの視線はどんどん鋭くなっていく。コドーは……あいつはいいや。想像がつく。
この人達って短気なんだけど、大丈夫だろうか?
僕は気が気じゃなくて、身体を起こし彼女の元へすり寄った。
座ったままじりじりと進むしかないのが間抜けだ。
トンっと肩で彼女の太もも辺りをつつく。
「ひう!……あ。鷲谷君」
「へ~え?お嬢さんはお坊ちゃんの知り合いか」
「あ……」
ようやく我に返ってくれたようだけれど、エナに指摘されて再び青ざめる玖珂塚さん。嘘がつけない子のようだ。反応が素直すぎる。
まあ、僕の名前を言った地点で誤魔化すとか、凄い難しいのだけども。
玖珂塚さんは少し僕を見つめた後で、一度深く深呼吸をしてエナに向き直った。なにかを決意したのか、それまでのおどおどした様子が無くなっている。
「学校の友達です。偶然、見かけたので追いかけました」
「偶然ねえ?」
「ねーねー。名前は?」
割り込むようにして質問をするリン。僕の時と違い、ずいぶんと積極的だ。
「おいおい、リン。遊ぶなよ」
「遊んでないよ。どうせお話するんなら女の子の方が楽しいじゃん」
「……ロリコン?」
ぶはっとエナが吹いた。リンは目をパチパチさせている。
「ロリコンって俺?エナ、ロリコンってなに?」
「ふはは。Le pedophileだっけ?知らねえよ。フランス語はそんなに詳しく知らん」
「うえ。小児性愛者って思われてんの俺?超心外なんだけどー」
「だからお前。そっちの日本語は知ってるのに、なんでロリコンは知らねーんだよ?」
「とりあえず使う機会が無かった」
どんどん脱線していく二人に困惑していた僕の頭に、
そっと玖珂塚さんが触れた。
彼女は僕にしーっと人差し指で内緒のポーズをした後に、はくはくとなにかをしゃべる。デジャヴ。だけど、今度は近いし。ちゃんと理解できた。
『大丈夫だからね』
少し引きつった笑顔を浮かべてサムズアップする姿は、
――なんというか双子だなあ。
思わず、くすりと笑ってしまった。でも、瞬時に僕は後悔する。
彼女の肩越しに見えたのは、やたら満足そうなリンの目。
「まあ、じっくりとお互いに理解しあおうか。時間はたっぷりあるんだからさ」
慌てて、玖珂塚さんは前を向く。
その時、僕は彼女がこっそりと震えている事に気づいた。
隠すように後ろに回した手はカタカタと揺れていて、
リンの金色の瞳はそれを捕らえている。
嬉しそうに目を細める彼の表情は、まるで獲物を狙う肉食獣のようだった。
お待たせいたしまして申し訳ございません。
私自身も早く『転』に入りたいです。鷲谷クンまじごめん。
ここまでお読みいただきましてありがとうございます。




