2 再契約
「……はぁ」
古色蒼然とした木造アパートの一室で、私は深い深い溜息をついた。
溜息の原因は、今はすやすやと眠っている。
彼女、名前はミナトというらしい。いつもは、ターゲットの名前は聞かない。いままで関わってきた人間の名前も覚えていない。私が彼らと関わるのは二回、契約と取り立ての時だけだ。
しかし、今回は違う。嫌でも、ミナトの名前は覚えなくてはならないだろう。
いや、立場が逆転したというべきか。
そこの寝息をたてている女によって。
「私と一緒に死んでください」
という『願い』によって、図らずも彼女と命の共有をすることになってしまった。彼女が死ねば、私も死ぬ。
ミナトは、死への恐れがない。それはまるで常に彼女の選択肢の一つに組み込まれているようなもので、コンビニに行くのと同じ並列に配置されているような、取るに足らない問題の一つなのだ。今ここで起きてすぐに喉を掻き切って死ぬ、とういことも十分ありうる。いつでも死ねるし、それはいつでもいいと考えている。
昨日のミナトの目から、はっきりと感じ取ることができた。だからこそ、興味を持ったのだが、まさかこんなことになるとは……
また、ミナトは私を世界中の人間の敵だと認識している。つまり、私を殺すのに禁忌を持たない。むしろ、道連れにできて本望と考えているようだ。迷惑極まりない話であるが……
この二つが、彼女の願いによる拘束性を確固たるものにしている。私は彼女のいうことには絶対服従、さもなければ死……、
今まで欲張りな人間というのは多々いた。願いごとを増やせだのいう輩だ。ただ、そういうやつらは、契約を遂行した後でなんとでもできた。彼らは普通の人間よりも絶望の底を味わったことだろう。
しかし、今回は違った。なぜなら、彼女が死ななければ願いが叶ったことにならないからだ。ここで契約を破棄するというのは、人間達が取り立てを渋るような、重大な違反行為であり、悪魔にはそれができない。
なおかつ、彼女が死した後は、私もこの世にはいないため、不幸を取り立てることはできないというわけで、八方塞がりである。ミナトの機嫌を損ねないように媚を売って契約を取り消してもらうしか方法がないというわけだ。ミナトはリスクなしで私を支配下に置いたようなものだ。まるで女王のように、私の上に君臨したのである。
言ってみれば契約の抜け道ではある。自分の命をもののように捨てられる特殊な人間だけが通れる隘路ではあるのだが、ミナトはこれに気づいて私とあの契約をしたのか……
それは、私にはわからない。しかし、一つ言えることは彼女のあの目は、私の契約を探る目ではなく、私自身を見る目であった。つまり、私が死んでいい悪魔なのか、どうかを彼女は見極めていたのだ。
試されていたのは私であったのだ。彼女の方が一枚も二枚も上手であったことは、くやしいが認めざるをえない。
私は観察する側でなく、される側になってしまった。それは、檻に閉じ込められている猛獣を見ていたら、その檻が自分を閉じ込めるものだったと気づいたような、どうしようもない感じであった。
悪魔は眠らない。夜は長く、このうえもなくゆっくりと更けていった。
「あなた誰?」
朝目覚めたミナトの第一声が、それだった。
私はよっぽど昨日のことをなかったことにしたかったのだが、勝手に死なれるのも困るので、再度説明してやった。
「あぁ、昨日の悪魔の人ね。わざわざどうも」
髪はあちこちにはね、重たい瞼を必死でこじ開けているようなその顔に、昨日の妖艶ともいえるような態度の面影はかけらもなかった。
昨日のは偶然だったのか?
「ちょっと待ってて。お茶淹れるから」
ミナトはのろのろと立ち上がり、台所へと向かったようだ。バシャバシャと顔を洗う音が聞こえる。
悪魔には飲食や睡眠は必要ない。
ただし、嗜好品として食を楽しむ悪魔も多い。一つのモノに偏重して熱を上げるのが悪魔である。もし悪魔と会ったなら、その悪魔が好むような食事を出せばよいだろう。運良くその悪魔の気に入るモノなら、少しはマシな最期を遂げることができるはずだ。保証はしないが。
ちなみに、私の好物はたこ焼きだ。
「おまたせ、はいこれ」
透明のコップに薄い色をした液体が注がれている。一瞬水かと疑うほどであった。
普段ならこんな安いお茶など突き返すのだが、彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。
一口すすって、味はしなかった。白湯を飲んでいるのと変わらない。しかし、「おいしいです」と言うしかなかった。
「そう言ってもらえるとうれしい。うちにある最後の茶葉を使って淹れたものだから」
ミナトは両手を両頬に当てて、体をくねらせてわざとらしく喜ぶ。冗談だか嫌がらせだかわからないのは、昨日の彼女と同じであった。
彼女のペースに巻き込まれないように、早めに切り出す。私は正座で彼女の目を見て言う。
「それでですね、折り入ってご相談が……」
私の言葉はミナトの右手で遮られた。
その右手は、三本指が立っていた。
「三つ、私の言うことを聞いて。そうすれば開放してあげる」
「えらく高圧的ですね。嫌だと言ったら?」
「それならそれでいい。わかるでしょ?」
ミナトと私の視線が交差する。昨日の彼女が、顔を出したようだった。
「わかりました。ただ、私とあなたはもう契約済みですから、もういちど願いを叶えることは出来ませんよ」
「かまわないよ、それで。そういうことで、再契約しよう」
彼女はコピー用紙と鉛筆を取り出し、契約書を書き上げた。
「さぁ、これにサインして」
「本当に約束するんだな?」
「大丈夫、私は嘘はつかない主義だから」
なんの根拠もないその返事も、妙に説得力があった。
私とミナトはその用紙の下にサインした。それが、私の下働きの始まりであったのだが。




