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1 出会い

 時計の針は0時を指した。

 私は懐中時計をスーツの胸元にしまい、眼下の光景に目線を移す。

 真夜中、月の光と街灯がくすんだ街並みを浮かび上がらせている。東西を走るアーケードに区切られ、さらに小道や道路が毛細血管のように縦横無尽に張り巡らされている。区画ごとに形を揃えてめいっぱいに詰め込まれている建物群を見て、私はげんなりとした。


 空から俯瞰すると足の踏み場もないほどに密集した場所に、何万もの人間が生活しているのである。うっとおしい車の渋滞、息苦しい満員電車、面倒な人間関係……、人間という者は常に規則をつくり窮屈さの中に暮らすものだが、この日本という国では特にその傾向が強いようだ。私にはとても耐えられないことだ。想像するだけで嫌な気分になってしまう。この国の人間の表情を見れば、私と同じ気持ちなのではないかと思うのだが……。

 まぁ、だからこそ私の楽しみのもとがそこかしらに広がっているのだけれども。


 ……今日が満月でよかった。私が探していたものは程なく見つかった。月光で淡く照らされた薄明の中で、まるでそこだけ墨汁を垂らしたように黒ずんで見える箇所が一つ。感覚を集中させると、死の匂いがそこからたちこめているのがわかる。私は薄く笑いその黒い流れをたぐり寄せるように地上に降りていった。


 そこは木造の二階建てのアパートだった。ひびの入った外壁、木枠が歪んだ窓、錆かけた外階段。周囲の建物から取り残されたような外観だった。

 軋む階段を登り、二階の一番奥へ歩を進める。201、202……、右手のドアには無数の傷やラクガキが刻まれている。203、204……、しかし、本当に人が住んでいるのかと疑うほどの静けさだ。足音だけがいやに強調されて耳に入る。206号室、ここか……


 ドアの隙間から滲みでてくるように死の気配が感じられる。

 物事を円滑に進めるためには、礼儀というのは大事だ。私はネクタイを締め直し、ドアの前に向き直る。さて、今回の人間はどんな振る舞いを見せてくれるのだろうか。私は期待を胸に押し込めて、ドアを二回叩いた。……反応はない。もう一度、二回叩いた。……やはり反応はなかった。


 しかたない、私は壁に掌を押し当て、意識を集中する。合成樹脂のドアの質感がだんだんと薄れていき、ついにはゼロとなった。今まで二つの空間を断絶していたドアをすり抜けて、私は部屋に入った。三和土にはスニーカーが一組、ポツンと置かれている。この国では靴を脱ぐのが礼儀だったはずだ。私は革靴を脱ぎ上り框に足をのせた。ミシリとイヤな音が鼓膜を震わせる。相当老朽化しているな、と人事のように感じた。


 左手に台所があり、前方に短い廊下を挟んで和室がある。和室から黒い奔流が感じられる。一歩、二歩と足を踏み出し、私は部屋にはいった。


「あら、どちら様?」


 静寂の中、鈴を鳴らしたような声が耳朶を打った。私は声がした方向へ誘われるように視線を向けた。


 壁に背をもたらせて、一人の少女が足を投げ出して座っていた。

 雪のように真っ白な肌が、月明かりに照らされて青白く輝いて見えた。黒髪のシャギーショートカット、薄い唇には微笑を湛えている。その目はこちらを試すように視線を投げかけている。

 美しい人間だ、と思う。しかしそれ以上に、どこか油断ならない雰囲気を纏っているように感じる。


「初めまして、私シノと申す者です。名刺はこちらに」


 胸元から名刺を取り出し、少女に手渡す。少女は手を上げて月明かりに照らすようにして、名刺を読み上げた。


「『第一級悪魔 シノ』……、あなた、悪魔なの?」


 どこか楽しげに、少女は私に尋ねた。たいそう胡散臭い自己紹介であると自覚もあるのだが、彼女はあくまで艶然とした構えを崩さない。


「証拠を示せというならば、いくらか手段を持ち合わせていますが」


「いいよ、別に。それで、悪魔様がなんの用?」


 死に近い人間は、通常の人間よりも私達のような存在を受け入れやすい。それは、死に近づいて感覚が鋭敏になるのか、それとも落下中届かないとわかっていながらも手を伸ばしてしまうような生物としての本能なのかは、わからないが。

 だから、彼女のような反応も、珍しくはない。


 しかし、目の前の少女は私がこれまで会ってきた人間とは違うように感じるのだ。その余裕の出どころが、わからない。ただ、所詮は人間だ。目の前に餌をちらつかせれば、態度も変わるだろう。


 私は彼女と目線を合わせるように正座し(この国ではこれが礼儀だったはずだ)、本題へと切り出した。


「あなたに契約のご相談をしに参りました」


「契約とは?」


「あなたの望むことを一つ、それがどんなものでも私が叶えて見せましょう」


「へぇ、たとえば、億万長者にしろ、とか?」


 彼女の瞳に興味の色は薄い。小馬鹿にするような調子だ。ここまでは人間がよくする想像、まだ虚実判別ができない領域、この反応も当然だ、しかし


「どんな願いでも、です」


 これを見て同じ態度をとれるものか。

 私は水をすくうように両手を合わせて、彼女にみせるようにした。そして意識を集中させる。

 手の隙間から、砂金が澎湃と湧き上がった。砂金はまるで湧き水のように手の器を満たし、ついには溢れて畳へと流れ落ちた。金色の粒子が宙を舞う。


「貴金属、宝石のような物質も、地位や名誉も、超常的な能力も、どんなものでもあなたに与えましょう」


 私は彼女の反応を待った。金というのは、人間が古来から衣食住に関わるもの以外の物質で価値を見出し続けていた唯一のものではないか。最もわかりやすい「可能性」の表現だと、私は思っている。瞳に金色の輝きが交じるだけで、今までの人間はたやすく私を信じた。……この娘も、そうなるはずだ。


「でもそれじゃあ『契約』にならないじゃない?」


 鋭いな。しかし、私の信条からしたら、話さないわけにはいかない話だ。


「そうですね……、これは施しというよりも融資と考えていただいたほうが自然かもしれません。つまり私はあなたに幸運を貸して、願いを叶えます。そして、後になって、私はあなたから、利子をつけた分の幸運をいただきます」


「持ち上げて落とすというわけね。ずいぶんと性格の悪い」


「悪魔ですから。それにあなたがたも悪いところもあるのですよ。私はこうして最初に説明しているのですから、後の不幸も受け入れてしかるべきことです。後になって駄目だというのでは、筋が通りませんからね」


 中には「取り立て」を話さずに契約する悪魔もいる。しかし、私は最初に全て事情を話して契約することにしている。それはモラルだとかの問題ではなく(悪魔が世間体を気にするわけがないのだが)、単に私がその方が面白いと感じるからだ。


 いずれ終わることがわかっていながら今の幸福に身を埋める人間の姿が、滑稽でもあるし、愛おしいとも感じることもある。それは、騙して契約させることでは見ることができない人間の側面でもあり、私が最も人間を好ましいと思うところでもある。

 人間は刹那に生きる。私がデメリットを話そうと話さまいと、結果は変わらないと思っている。実際、私と今まで契約しなかった人間はいない。

 将来の絶望よりも、今の幸福を選ぶはずだ。特に、生きるのを諦めた者たちは。

 ……それは、この女もかわらないはずだ。


「契約するかしないかは、あなた次第」


 最終通告を告げる。

 彼女はうつむいて少し考えた後、こちらを向き直った。その表情を見て、私は返事が分かった。


「わかりました、契約しましょう」


 彼女は嬉しそうな表情でそういった。

 結局は凡庸な人間と同じか……

 私は安堵と落胆が等分に混じった奇妙な気持ちであったが、表情には出さない。

 どんな内容の願いでも、彼女を待っているのは破滅だ。願いを叶えてしまえば、辿る道はみな同じである。

 


「あなたがこれから発する願いを、私が叶えましょう。さぁ、どうぞ」





「それじゃあ、あなた私と一緒に死んでくださる?」





「え?」


 紅色の光が部屋を照らした。

 今のはまさか……、冷や汗がどっと湧いてくる。


「私と一緒に死んでください」


 彼女は肩の荷が降りたかのような清々しい表情で、私に心中を要求してきたのである。


「……それは承知しかねますね」


 完全に予想外だった。悪魔に死の概念は無い。しかし、願いの力で彼女と繋がってしまえば、悪魔でも容赦なく死ぬ。そしておそらく、先程の光で契約は成立してしまったのである。彼女が自殺を図れば、私は……


「あら、死後の世界も素敵かもしれないわよ」


 彼女は最高に幸せそうな顔をしている。

 なんとかして契約を破棄しなくてはならない。一人の人間とかわせる契約は、一つだけなのである。そして、契約の破棄には双方の承諾が必要だ。私は死ぬつもりなど毛頭ない。こんなことで死んでたまるか!


「なにも今すぐ死を選ぶことはないだろ。どんな願いでも叶うんだ。私なんかの命よりももっと面白いことはたくさんあるはずだ。そうだろう?」


「どうせ失われる栄達になんの意味もないでしょう」


 彼女はまるでナメクジに塩をかける子供のように嬉々として話す。


「あなたがいなくなれば、世界の不幸も減るでしょう。私が最期にできる、世界平和への貢献のための贄となってください」


「ま、待ってくれ。なにも死ぬことは無いじゃないか。世界平和なら、もっと他の方法があるはずだ。よく考えようじゃないか」


 彼女は私を見て、首を横にふった。

 私の決死の説得はあっさりと無視された。

 彼女はポケットから、折りたたみ式ナイフを取り出すと、その刃に指をそっと押し当てた。

 チクリと、痛みが走る。私の指先には、彼女の指先と同く赤い血が滴っていた。

 それを見て、彼女は酷薄な笑みを浮かべた。そして、ナイフを手首へと近づけていき……。


「ま、待ってくれ。なんでも言うことを聞くから、それだけはやめてくれ!!」


 思わず、言葉が飛び出した。

 まだ死ぬわけにはいかない!


 彼女はナイフを持った手を止めた。


「本当になんでも?」


「ああ、だから考えなおしてくれ。頼む」


 いつの間にか、私は両手をついて頼み込んでいた。まるで王女へ陳情するかのように。


「しかたないなぁ」


 彼女は呆れたようにナイフをしまった。その表情は、自分よりもよっぽど悪魔的に見えた。


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