恋と呼ぶには烏滸がましい、そんな淡い感情
彼女はいつも一番線、足元の黄色い数字『9』の一番最初の場所に立っている。
僕が彼女を見つけたのは偶々だった。
僕は実家から大学まで通うのに電車を使っている。大した距離は無く、上り列車に乗って30分程のところだ。ただ朝からある講義に間に合うためには1時間前に駅に到着しないと行けない。朝の電車は途中で乗り換えがあって、そして駅についてから学校まで20分ほど歩かなくてはいけないのだ。
そんな毎日を3年程続けた時くらいだろうか。
いつもは階段を下りてすぐの場所に立って電車を待つのだが、やはり階段下とあって電車内は混んでいる。そんな煩わしさを減らすために階段から少し離れている場所から電車に乗ると偶に座れることがあった。だから朝から乗る時はそこから乗るようになった。
最初は、変な人、くらいにしか思っていなかった。
いつも乗る8時8分の電車。たまに間に合わなそうになりダッシュになるが大抵は5分前に着く僕は、いつも乗る場所の数字の前に、ある女性がいることに気付いた。
その女性は足元の黄色い数字、『9』の位置の一番最初の場所にいた。何故か黄色い線から大分離れて。むしろ反対車線の下り方面の線の方が近いんじゃないかって程だ。
一応並んでいるのだろう、と僕は彼女の後ろに少し離れて立つ。何でこんなに離れて立っているんだろう?変わった人だなぁ、と思いながら来た電車に乗り、彼女を繁々と観察した。
彼女は僕より結構年配で、だけれども立ち姿がとても綺麗だった。背筋を真っすぐ伸ばしていて、それに年に見合った落ち着いた服装も彼女に似合っていた。
服装が僕の好みに合っていて、そこで目がいったのかもしれない。
彼女はいつもその場所に立ち、後から来た人が先に電車に乗るのにも拘らずに、線から少し離れて立っていた。
僕が彼女より早めに来る時は『9』の先頭の場所に立ったりした。けれども彼女はやはり線から少し離れて立つのだ。
早めに来すぎた時に見たのだが、彼女は8時に駅前の駐車場にシルバーの車を停めて、僕が乗り換えをする駅で降りていく。多分会社勤めなのだろう。いつも同じバックに黒いブーツか低いヒールのパンプス。電車の中では席が空いていても座らない。電車に乗っても彼女は携帯も弄らず、ただ単に窓の外の風景を眺めている。駅で待っていると、だんだんと彼女の足音まで把握できるようになってしまった。
ここまで来ると自分はストーカーのように思えて来て、ただ単に電車で顔を見るだけにしている。
「おっす!何だ、こんなところから乗ってんのか!」
朝から、いきなり誰かに肩を掴まれたと思ったら大学の同じサークル仲間だった。実はこの友人、同じ駅から乗るという接点はあるものの、朝一の講義には寝坊でいつも遅れているために同じ時間で乗ることは、ほとんどない。
それなのに今日は起きれたらしく、僕をちょうど見つけたわけらしく声をかけたようだ。
「なんでこんなとこから乗ってんだ?」
「ああ、階段下だと人が多くてさ」
「確かにそうだな、今度から俺もここから乗るかな」
そんなことを話していると、足音が聞こえた。ヒールの。少し早い歩きの。
彼女だ。
僕は気付いたけれど、友人にこのことを言うのはなんとなく嫌で黙っていた。
少し離れた位置でヒールの音が止まった。僕はそのことに気付いたけれど、友人を振り向かせるのが嫌に思え、彼の話を聞くことに徹底した。
「今日飲み会だけど来るよな?」
友人がいつもの大きな声で話す。周りも何だ、と見てくる程の大きさだ。
何だかそれを彼女に見られるのが嫌で、僕は急にあまり言葉を発することができなかった。彼女に、僕の友人はこのような人ばかりと思われるのが嫌で、僕自身が単なる学生だと思われるのが嫌で。
その日も電車の中で彼女をこっそりと見たけれど、いつもと何も変わらない表情で窓の外を見ていた。
4年生になり、就活が始まった。
東京に通い、学校にも通う僕の生活の服装は殆どがスーツになっていた。
その日も8時8分。その電車を待つと彼女が先にいた。
いつもと同じように彼女から少し離れた後ろの所で電車を待つ。最近彼女は八分丈のズボンを履いていて、その下に黒いレギンスを履く服装が多い。今日もその服装なんだな、と思いながら電車に乗り揺られる。
いつもと同じように電車が駅に停まり、乗り換えをする人と駅から出ようとする人でホームが人で溢れる。
僕も彼女の後ろから降りようとすると彼女のバックから綺麗に折りたたまれたハンカチが落ちた。
「あの!ハンカチ落とされましたよ」
僕は慌ててハンカチを拾い、彼女に初めて声をかけた。
「え?あら、ありがとう」
彼女は振り返り、僕の手にあるハンカチを見ると、そう言って細い指で僕の手からハンカチをとった。それをバックにしまうと僕に目を向けた。
「就活生かしら?」
「は、はい」
「そうなの、ネクタイ曲がってるわよ」
そう言って微笑みながらネクタイを直してくれた。
彼女から漂う桜のような香りに少し夢心地の気分になってしまい、顔が赤くなっている気がする。
「頑張ってね」
「あ、ありがとうございます」
最後にネクタイを、とんと叩いて彼女は階段を上がっていった。
名前も聞けなかった。年も職業も。なぜ線から離れた位置にいつも立っているのかも。聞きたいことは山ほどあるのに。
ただ僕は、まだほんのり香る桜の匂いに胸を温かくしていただけだった。