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第2話 ハゲネズミは、知っている

焼け跡には、何もなかった。


黒く焦げた柱の根。崩れた瓦。灰の山。焦げた木の匂いが、まだ夜気にこもっていた。


そして、本来あるべきものが――どこにもなかった。


「……骸が、ない」


秀吉は、ひとりごちた。


これだけの火事だ。骨くらいは残る。床下にも瓦礫の下にも、灰の一掬いまで、人を這わせて探させた。だが、信長の骸も、嫡子・信忠の骸も、ついに出てこなかった。一片の骨も、焼け残った衣の切れ端すらも。


それだけではない。あれほど暗殺を恐れ、夜ごと寝所の守りに神経をすり減らしていたあの人が、この夜に限って、笑ってしまうほど手薄な供しか連れていなかった。


また、奥の間の床板の一部が、妙に新しかった。まるで誰かが最近、掘り返したような。明智の軍が、なぜか寺の奥まで踏み込んだ形跡が薄かった。そして――討たれたはずの光秀の最期が、どうにもあっさりしすぎていた。


ひとつひとつは、些細なこと。だが、人の心の機微を誰よりも嗅ぎ取る男には、その些細な点と点が、すうっと一本の線になって見えた。


秀吉は、灰の上にしゃがみこんだ。指先で、まだほのかに温かい灰をすくい、そっと風に流した。そして、しばらく動かなかった。


――ああ。


そういうことか。


殿。


あの、臆病で。優しくて。誰よりも人を殺したくなかった、あなたが。


ずっと、震えながら重い甲冑を背負い続けた、あなたが。


ついに。


降りた、のですね。


秀吉の胸にこみ上げてきたのは、怒りでも悲しみでもなかった。仇を討つ憎しみでも、主君を失った嘆きでも、なかった。


それは。


よかった、という。


ただ、それだけの想いだった。


長い長いあいだ、怯えながら歩き続けた男が、ようやく荷を下ろせたのだ、という。ほっと胸をなでおろすような、あたたかい安堵だった。


ずっと、見てきた。草履を懐で温めながら。夜通し城の縄張りを考えながら。胃を押さえて青い顔をした殿の、その傍らで。


魔王と呼ばれて。神算鬼謀と讃えられて。天下人と、恐れられて。けれど、そのたびに心の奥で、ぶるぶると震えていた、あの人を。


誰も見ていないところで、握った拳がかすかに震えているのを、この猿だけは知っていた。


帰りたい、と。


普通に、なりたい、と。


そうつぶやいていた、あの寂しい背中を。


秀吉は灰に向かって、そっと笑いかけた。


「信長様」


声に出して、言った。


「お疲れ様で、ございました」


「あとは、この、ハゲネズミが」


「天下を、奪って。誰も、二度と。怯えなくて、いい」


「平和な、世を、作ります」


「だから、もう」


「安心して、どこかで」


「畑でも、耕して、くだされ」


言い終えると、堰を切ったように、大粒の涙が頬をつたって落ちた。備中で、殿は逝ったと信じて流したあの涙とは、まるで違う。生きておられた。ただ、それがうれしくて――誰にも見せるつもりのない、たった一人ぶんの、本物の、喜びの涙だった。


風が、灰をすこし巻き上げた。まるで、その主が「もう泣くな」と笑って手を振っているかのように。


秀吉は、誰にも気取られぬよう、焼け跡に向かってぺこりと頭を下げた。そして立ち上がると、涙をぐいと袖で拭って、背筋を伸ばし、天下取りの芝居の続きへと歩き出した。


――もう、決して振り返らなかった。


焼け跡に向かって、ぺこりと頭を下げる猿――コミカルさと主への深い愛情の同居にじんときたら、【にこにこ】か【泣ける】を! ★は、二人目のビビリへの拍手がわりに。

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