井戸
ここは京の都の鴨川ぞいにある信太従三位屋敷である。信太家は、古い陰陽師の家柄で、時姫はそのただ一人の後とりだ。
かつては御所に足しげく通うこともあったが、時姫の父親が亡くなってからは参内もなくなり、現在は閑散としている。
ところが近ごろ、たった一人の時姫に御所から執拗な参内の命令が出るようになった。
命令を出しているのは【御門】であった。その命令に姫は、今まで曖昧な返事を繰り返すだけで、じっと屋敷内に留まっている。
【御門】の狙いは信太家に伝わる〝鍵〟である。しかし時姫は、父親から「決して【御門】に〝鍵〟を渡してはならぬ」と遺言されていた。そのため、時姫は【御門】の命令を拒否していたのだ。
【御門】──。それは謎の存在だ。御所にいることは確かだが、誰もその姿を見た者はいない。しかし【御門】の命令は絶対的で、時姫一人だけが逆らっている。
源二は、もともと北面の武士であった。それも、奇門遁甲を能くする特殊な一団に属していた。
信太従三位が御所に参内していた当時、従三位の目に止まり、懇望されて屋敷に入り込んだ。
そのころ従三位は、このような事態があることを予感していたのかもしれぬ。しかし請われて屋敷に住まうようになり、そのうち時姫を知るようになって、こんどは源二のほうが時姫を守ることが自分の使命であると思い始めていた。
優しい、とか正直だとかとは少し違う、時姫独特の透明感があった。それは時として人に奇異の念を思わせるものがあったが、源二の心に突き刺さるものがあった。
「こちらでございます」
源二が案内したのは、屋敷の裏手にある、南天の茂みに埋まるように隠れている井戸であった。
ただし、空井戸である。川の流れが変わったのか、ある日、唐突に水が涸れ、現在では蓋をしたまま忘れ果てられた状態になっている。
源二は井戸の蓋を持ちあげた。深々とした井戸に、縄梯子が垂らされている。
「これを降りていただきます。この日のあるのを予想し、抜け道を作っておきました」
源二の言葉に、時姫はこわごわと井戸を覗き込んだ。月のひかりが中天に懸かって、井戸の底まで届いている。




