タイトル未定2026/03/13 22:54
短編集 「森の夏」
長光一寛
第一話 「秘密の湖のロリン」
ある初夏のこと。四月に練馬から引越してきた所沢市の柑子町(仮名)から遠くない坂道の途中にある広い自然公園を散策した。私の趣味の一つは笛を吹くことで、近所迷惑にならないような人里離れた場所を見つけるために電気アシスト自転車で出かけて坂道をのぼってきたのでした。
この公園には広い原生林があり座るのに便利な切り株もたくさんあって笛吹には好適でしたが、残念ながら林の中を巡るロープを張った迷路のような数本の散策路のそこかしこに、原生林に入ってはいけないとの注意書きがあったので、ここはあきらめました。
しかし公園の裏口のほうにゆくと水のほぼ枯れた湿地沼があり、そこにちょろちょろ流れ込む小川を見つけ、これに沿って石ころ道を上ってみた。小川は竹林の中に消え、小道もそこでなくなります。じゅくじゅくしたゆるい傾斜を苔石で滑らないように竹をつかみながらさらに上ると、傾斜はなくなるがこのまま進むと迷子になりそうな竹の森に至ります。ここからはスマホで目印になりそうなものを写真に取りながら進みました。竹藪をくぐってとげとげしい草木をかき分け、けもの道らしき道を進みました。あわよくば源泉に至らんという心持でした。
やがて竹笹のトンネルがあり、これをくぐると、高木の森になり、その中に驚いたことに小さな湖がありました。石を投げれば対岸に届くくらいの大きさです。もしかしてこの湖が柑子町を流れる小川の源泉かもしれません。近くに目立つ丘も小山もないので、この湖の中で泉が湧いているのだと思います。
この湖は、たぶんほかの人は知らないのでしょう、人跡の様子がありません。ここで誰にも邪魔されないで思う存分笛が吹け、写生も楽しめるだろうと思ったのですが、これからお話しするようにいろんな動物たちとの出合いがあり、なかなか一人きりになれず、その通りにはなりませんでした。私はここで水遊びすることも楽しいだろと思ったので、帰りに一人乗りのゴムボートとポンプを買いました。
さて、そこで経験した稀有な出来事について教えてあげましょう、特に動物が好きな方々に。
でもこれを読んでもみなさんは行かないほうがいいです、その理由は最後までお読みになられたらお判りいただけます。
ではまず第一話は、ぼくの友達のカエルのロリンに初めて会ったときの話です。
この静かな湖にぼくは一人乗りのゴム製の素手漕ぎのボートを運び込み、置いています。いつもは水辺の大きな樫の木の下に引上げて裏返しておくのですが、やがてこれが面倒になって、岸に半分くらい引き上げて半分は水に漬けたままその木にボートのともづなをかけておくようになりました。
大雨が降ったのちのある日に行ってみると、つながはずれていてボートは湖の真ん中にありました。つなをはずした犯人はいたずら好きのイタチのフクスケにちがいありませんでした。その証拠に、彼がよく食べるザリガニの食べかすがボートの中に転がっているのをあとで見つけました。
しかたなくぼくは素っぱだかになって泳いでボートまで行ったのです、といっても二十メートル足らずのことですが。
そしてそれはそのときのことです、ひっくり返さないように後ろからボートによじ乗って高い木の陰に寄せて、昼寝をしていると、ぽつぽつと雨が降り始めました。
眼をあけると、ぼくのボートのへさきに緑色の小さなカエルがぴょんと乗ってきました、
「やあ」と言葉をしゃべります。
「あっ、雨ガエルさんですか?」ぼくは驚いて聞きました。
「ケロケロ そう、ぼくは雨好きの雨ガエルです」
「名前はなんていうの?」
「ケロケロ ぼくには名前はありません、カエルは名前なんて付けないのです。そのかわりみんなあだ名を付けます」
「じゃあ、君のあだ名はなんていうの?」
「ぼくのあだ名はロリンです」
「いいあだ名ですね、でもどうしてカエルくんたちは名前を付けないのですか?」
「ケロケロ 大昔はつけていたのです。でもすぐにやめてしまいました。それはしかたがないことでした」
「どうしてやめてしまったの。どうしてしかたがないことなの?ぼくに話してくれないかい」
雨が少し音を立てるくらいになったので、ぼくはボートに置いてあった日よけ用のパラソルを差し、そのカエルにも雨が当たらないようにしました。
「話しましょう。ケロ、ぼくの上にパラソルを持ってくるのはやめてケロよ。せっかくいい雨が降っているというのに・・・」
「おや、これは失礼。雨ガエルさんはやっぱり雨が好きなんですね。じゃあ存分にぬれてケロ」(ぼくも少しかえるの話し方につられています)
ぼくはパラソルを自分の上のほうにだけかざして話を待ちました。
「カエルの子供は一度に何百と生まれます。そしてカエルのお父さんお母さんは名前を付け始めます。初めて子供ができたお母さんとお父さんは特に有頂天になって考え始めます。きっと子供の名前を付けるのは楽しいことに違いありません。普通まずお父さんガエルが適当な名を提案します。こんなぐあいです。
「一番初めに卵から出てきたおたまじゃくしだからタロン」
するとお母さんガエルは「いいえ女の子かもしれないから、ローラ」
「二番目はよく泳ぐな、スイスイはどうだ」
「もっと強そうな、ズイズイ」
「三匹目、ケロロ」
「ケロロは隣の八番目の子と同じ名前で間違えてしまいます。ケルロにしましょう」
するとお父さんガエル「ケルロもどこかで聞いたことがあるような気がするぞ。でもまあいいや」
「四匹目、ケケケ」
「そんなお化けみたいな名前は嫌ですよ、お父さん、ケロリなんてどう」
「それもなんかおかしな名だな。健康そうなケロンパぐらいにしておこう」
「五匹目、少し色が黒いようだからクロンはどう?」
「でもクロンボってあだ名付けられていじめられたらかわいそうよ、きれいなクリンにしましょう」
「六匹目、これはやせているな、ヒョロンはどう?」
「そんな弱そうな名前じゃかわいそう。素敵なヒューロにしましょう」、
「七匹目、こいつはきょろきょろしてて落ち着きがないな、キョロンだ」
「でも、すばしっこそうだからスバロン」
「八匹目・・・ねえ母さん、少しおなかがすいてきた、きょうはこのくらいにして二人で夕ごはんを見つけにいこうよ」
といった具合で七匹くらい名前を付けると、たいていカエルの両親は名前を付けるのに飽きてきてしまいます。そして次の日にはもうほとんどの卵からおたまじゃくしが泳ぎだして、どれが何番目に出てきたのかわからなくなってしまいます。みんな区別がつかないのでせっかく名前を付けた「ロレア」「ズイズイ」や「ケルロ」「ケロンパ」「クリン」「ヒューロ」もどれがそれやらわからなくなってしまいます。そしてとうとうカエルの両親は名前を付けるのをあきらめてしまいます。
でもおたまじゃくしたちが大きくなり、やがて手と足が出てしっぽがなくなりお互いに話ができるようになるころ、名前がないと不便だからその頃になってみんなであだ名を付け合うのです。それでぼくたちにはあだ名はあるけど名前はないのです。」
ぼくは話をしてくれたお礼にカエルになった王子様の話をその小さな雨ガエルのロリンにしてあげました。物語の最後にカエルが人間の王子様に姿を戻すのがどうしてハッピーエンドといえるのかについて、ロリンは不思議がりました。そして「まあ人間の話はたいてい逆説的だから」と納得しました。そしてロリンはまた会おうねと言って、ボートの縁から湖の中に飛び込みすいすいと泳いでいきました。
雨はやみそうになかったので、ぼくはパラソルをたたんでロリンと反対側にボートを漕いで、大きな樫の木の方に帰ってゆきました。もちろんその日は、ボートを岸に引き上げ、雨が入らないようにひっくり返しました。
ではまた
第二話 「フクスケ」
さて翌日まだ薄暗い早朝、楽器とスケッチセット、折り畳み傘等を詰めたザックを背負って、更にテント一式と譜面台、ゴムボートとポンプ、飲食料等を、新居の先住者が残していったネコ車(手押し一輪車)に積み、秘密の湖を目指して出発した。このネコ車がどこまで進めるかは竹藪における道筋選びにかかっていた。そしてそれについては良い助っとが現れます。
すでに竹の森を過ぎ竹の密生する藪に入ろうとした時、体じゅうからふき出していた汗が目に入り、且つ汗で眼鏡が鼻の上をずり落ちたときです、イタチがいきなり飛び出してきてネコ車の車輪にひかれたのです。みると尻尾にタイヤのあとがついています。そのときのイタチのなき声ときたらあまりに大げさだったので、思わず笑ってしまいました。え、イタチってどんな声で痛がるかって?それはイタッチ、イタッチにきまってるじゃないですか!
「ハッハッ、ごめんごめん、君が急に飛び出してきたから、おじさんよけれなかったよ」
「イターチ、イタッチッチ。やいもっと気をつけてくれよな。しっぽだったからよかったけど、足だったらあすのイタチレースに出れなくなるところだったんだぞ!」
「ごめん、ごめん。で、そのイタチレースってなんだい?」
「あした関東の選抜選手チームが集まって、山手線のレールの上を走って、一周して時間を競うんだ。俺らは池袋駅からスタートして一周する。俺は駒込から池袋までを走る、つまりアンカーだぞ!」
「おいおい、山手線なんてあぶないぞ」
「なに、終電が走り終わった深夜にスタートさ」
「そうか、きみたちイタ公は夜行性だもんな。で、優勝したらどうなるんだい?」
「そりゃあ、スカイツリーのてっぺんを一年間自分たちの家にする許可がもらえるんだ。」
「おいおい、あんな高いところに巣を作ってあぶねえぞ」
「いえてる。だから実際には住まないさ。寒いらしいしね。それに昨今のような地震なんかのときにてっぺんにいたら振り落とされてしまうだろうしね。」
「何よりも、あそこまで登るのがたいへんだろうよ」
「おじさん、俺たちは軽いから、それは平気さーね。・・・まあ象徴的な意味があるんだ。つまりスカイツリーが優勝トロフィーってわけさ」
「ふーん。そりゃあずいぶん立派だな。じゃあスカイツリーがまだなかった頃は東京タワーが優勝トロフィーだったわけか」
「そりゃあ、イタチの宮杯にきまっているじゃねえか!」
私は、この粋なイタ朗の話にすっかり引き込まれて、ちょうどいい一休みができたが、そろそろ出発しようかとネコ車を押し始めると、このイタチはこれに飛び乗ってきた。
「湖に行くんだろ、乗せてもらうぜ。」
「いいとも。で、この藪の中をうまい具合に通り抜けるための道案内を頼むよ」
「合点だ、おっ、そこは右に!もっともっと!」
「うん。その調子で頼む・・・。山手線を一周すると言ったが、どのくらい時間がかかるね?」
「記録は東京駅スタートの山の手線内選抜チームが三年前に出した45分19秒3だ。なんせ、あいつらいつも山手線で練習できるわけで、どこでスピードを上げてどこでゆるめればレールから落ちないで走れるか、からだで覚えているからな。地元の利というやつ、おいたちはかなわねえさ」
「四十五分だったら電車よりも早く一周するわけだ」
「なんせ電車と違ってノンストップだからね。」
「駅伝のようなもんだね。」
「ようなもん、じゃなくて、文字通りそうじゃねえか。」
「たすきの交換は線路の上では止まらないとできないだろ。」
「タスキなんて使わない、『はい、タッチ!』と叫んで次の走者のシッポの先にハイタッチだって。・・・それでこのゴムボートはどうすんだい。」
「森の湖にうかべるさ。これに乗って釣りをしたり、昼寝をしたりさ。」
「あの湖には、ワニがいるから気をつけな。」
「おいおい、うそだろ?日本にはワニなんかいないさ」
「ペットで飼われていたやつが、森に捨てられて、あそこの湖に入っちまったんだ。」
「ペットならおとなしいワニかい?」
「ワニはワニさ。気をつけな。今じゃ湖の主だ。前の主のぼらは食われちまった」
「へえー!」私は悲鳴のような声を上げた。
「おっとそこが俺の家だ。名前はフクスケという。まあお見知りおきを」
イタチは私にハイタッチをすると、飛び降り、タイヤのあとの残った尻尾を振りながら大きな木の下の太い根っこを門にした穴に入っていった。
私はワニの話を聞いたので、物騒な気持ちになり、湖に行くのを躊躇していると、さっきの穴から「ハッハッハ。ひっかかった、ひっかかった。ワニはうそさ。だけどぼらの親父には挨拶をして、ボートを入れる許可をとっておくことだな。そしてつりは針を使ってはいけないってことよ」
「わかった。私の名前はひろしだ。お見知りおきを」
私は湖に着くと、「ぼらのおやじさん、ゴムボートを入れます。許可をください!また針を使ってのつりはしませんので、つりの許可もください!」と大声で言いました。
すると大きなぼらが水面から顔を出して、「おれはここの主じゃないから許可など出せん。許可をもらうなら湖の主のワニ親分にもらいな、ふっふっふ」
私はもう引っかからないぞと思い、ボートをリヤカーから下ろして、さっさとポンプで膨らませ水に浮かべました。そしてその中で横になって休みました。
第三話 ぼら親父
私の秘密の湖の主であるぼら親父も大ぼらふきだと言うことは前の「フクスケ」の話でおわかりだと思いますが、きょうはぼらふき親父に私がお返しにほらをこいたことの話です。
その日仕事を休んだ私は朝から湖にやってきてボートに乗って針なし糸で釣りを始めました。あんのじょうぼら親分がかかった。ぐいぐい引っ張られて竿が折れそうになったので竿をはなすと糸をくわえたぼら親父がにやにやしながら顔を出した。
「やい、針がなくとも餌ぐらいは糸先に結んでおくものだ、この新米野郎!」
「なにせ、ワニがかかるとおっかないもんでね」私も負けていない。
「なあに、ワニよりおっかないのはおまえたち人間さ。その証拠がおまえのそのベルトだ。」
あっ、確かに私のベルトはワニ皮製だった。内張りは子牛の皮だ。私の持っているベルトでは古いが一番高級のものだった。
「こりゃ一本とられた。おやじ、そいで、おまえの好きな餌はなんだい?こんどそれをたくさん持ってくるからよ」
「いりこさ、おかしらつきでないとだめだよ」
「まるでザリガニだね。いりこじゃともぐいというもんじゃないか?」
「うるせえ、魚は大きいのが小さいのを食べる、これがおきてだ。しかし俺はここの主だから、ここの魚を食っちゃいけねえんだ。だから羽虫や水草やミジンコやミミズやオタマジャクシを食べて、もう飽き飽きだ。いりこだけじゃなくて、あのトンビちゅうのをもってきてくれ、めっぽううめえそうじゃないか。お礼に魚たちに5連続ジャンプなどさせて目を楽しませてやるからさ」
「よっしゃ。こんどくるときはもってきてやるよ。おまい、今5連続ジャンプって言ったが、ひとつおまえがしてみせな。」
「あほお、おれは一回ジャンプのチャンピオンだ。5連続ジャンプはちびたちのじゃれごとだ。一回きりで飛ぶ虫を必ずキャッチするんだ」
「実はほかで5連続ジャンプは見たことがある。川のほとりで笛を吹いていたらいきなりそばでぴょんぴょんぴょんと5回ジャンプをして見せてくれたね。中くらいの大きさの魚だった」
「それは演奏へのお礼だったんだろうよ。おまえ笛を吹くんだったら今ここでもやってみな」
「ここではやりたくないさ。笛の音を聞きつけて人がやってくると、せっかくの私だけの秘密の湖が秘密でなくなってしまう。針付きで釣りをする人たちがたくさんやって来るようになると、おまえもうかうかしておれなくなるだろう」
「そうだな。人間はおまえだけでいい。」
「実はきょうは相談があってきたんだ。」私はつりざおをボートにしまった。
「なんだい、言ってみな」
「ここだけの話だが、おれの職業は盗賊というやつだ」
「あまりいい商売じゃねえな」
「ケチなぬすっととは違うんだ。あの有名な三億円強盗はおれたちのしわざだ。去年の金塊盗難事件もこの俺が綿密な計画を建てて成功させたんだ」
「それで相談というのはなんだい」
「実は、近頃なんだか近所で私服警官らしい男たちをよく見かけるようになった。もしかしたらアジトをかぎつけられたかもしれないと心配しているんだ。」
「いよいよ年貢の納め時が来たというわけか」
「いや、盗みの証拠さえなければ捕まらない。そこで盗んだ金塊を別のどこかに隠すことが必要なんだ」
「おお、それでこの湖に沈めようというわけだ」
「さすがキャッチが早いね。・・・実はそんなわけでリヤカーやらボートやらを準備していたわけだ」
「持ってきねえな、いくらでも沈めな。あとはおれ様が見張っててやるからさ」
「助かるね。」
「で、お礼は何だね。こっちはいりこやトンビじゃあすまなさそうだな」
「金の斧と銀の斧をプレゼントしよう。いつの日かきっと役に立つときが来るぜ、へへへっ」
「おっ、このやろう、引っ掛けたな。湖の主を何と思っているんだ!こんど来るときはおまいのボートは湖の底に沈んでると思え!」
「ははは、ごめんごめん、でも今度は本当にいりことトンビをたくさんもってくるからさ。」
「そうだ、一本釣りみたいなけちなまねをしねえで、空中にひとつひとつ投げ上げるんだぞ。そしたらおれがジャンプしてうまいところを見せてやる。」
「じゃあな、おやじ」
「あばよ、ほら吹き男」
私は愉快な気持ちでボートを岸につけて、沈められないように引き上げて、森を帰りました。早く家に帰って、トンビをつまみにビールを飲みたい気持ちになっていました。
コメント: ほら吹き男と呼ばれてしまいましたが、私のほらは必ずその場でばらします。でないと友達を失います。
第四話 ボス猫
きょうはボス猫の話です。といっても私が会ったのではなく、イタチのフクスケから聞いた話です。猫の本名はわかりません。まあ聞いてください。
この夏のある休日の早朝、私は秘密の湖でキャンプ用のテントを張って一日をのんびり過ごすために、飲食物やバーナー、コッフェルなどを詰めた50リットルサイズの大きなリュックを背負って竹林を抜けて湖に行った。
その途中で仕事帰りのいたちのフクスケがうしろからリュックの上にちゃっかり飛び乗ってきた。フクスケは軽いのだけど、すでにずっしりしたリュックに乗っかられて全体の重みがずしんとこたえた。それに首に毛が当たるとかゆくて仕方ない。
「おい、降りろよ、フクちゃん。重たいんだよ」
「きょうは、仕事で随分くたびれたんだ。頼むよ、ひろし」
「おまいの仕事は、ただネズミを捕まえて、いたちの生協に売るだけじゃないか。一匹捕まえればその夜の仕事は終わりだって言ってたが・・・」
「きょうはひどい目にあったんだ。猫の縄張りに入ったのが間違いだった。」
「犬の縄張りなら知ってるけど、猫も縄張りがあるんか?」
「あるさ。人間居住地ではずいぶん前に野良犬が駆除されて犬の縄張りはとうになくなって、今では猫の天国だ。人間の住むところなら猫どもの縄張りはいたるところにあるさ。」
「なるほど」
「人間の甘やかしで猫どもは今ではほとんどねずみを捕らなくなったくせに、縄張りだけはしっかり守ってやがるんだ。」
「そうだな、近頃は公園なんかで愛猫家が野良猫にもえさをやってるからな。・・・それでフクちゃん、猫に負けるんか、おまえらは?」
「一匹同士なら負けない。ただ猫もおれらもお互いにけんかすることはなくなった。つまり力が同じくらいだから、いったん一対一でけんかを始めると勝負がなかなかつかずどちらも大怪我をする。そして勝ったとしてもねずみ一匹の取り分だから合わない。しかもたいていけんかが終わる頃にはネズ公のやつは仲間に助けられていなくなっている。だからばかばかしいので、いたちと猫はずいぶん昔からけんかをしないんだ。」
「なるほど」
「ただ猫の縄張りの中では話は別だ。きゃつらはたいてい一匹で行動するが、縄張りに関しては仲間意識があって、それを守るためには連合軍を作るんだ。だからこちらに勝ち目はない」
「それできょうはどうしてきゃつらの縄張りに入っちゃったんだ。飛んで火にいる夏の虫たあおまえのことだ」
「いや、まあ聞け。おれが目をつけたネズ公のやつが、猫の縄張りに逃げ込んだんだ。それを追っかけてつい深入りしてしまった。そしてそのチュー公は猫に助けを求めたってわけだ」
「ねずみも変わったものだね。猫に助けを求めるとは」
「そこだ。近頃のネズ公どもは、これをよくやるんだ。猫の縄張りが安全な避難地帯だと気づいたらしく、その安全地帯に逃げ込むことが多くなったんだ。」
「それじゃネズミ狩りも楽じゃなくなったんだ。」
「だから一晩中かけて一匹も捕まらないことだってある。最近では仕事の後の昼寝をする時間が短くなってしまってよ・・・アーアっ」
ここで取ってつけたようにフクちゃんは大きなあくびをした。
「で、きょうは猫とけんかをしたのか?けがはしてないようだけど。」
「けんかはしないさ。ただ猫の愚連隊に囲まれてひともんちゃくあったんだ。つまりおれは言ってやった。『おまえらは、ねずみを取りもしないくせに縄張りを守っているが、それはお前らがさげすんでいる犬たちと変わらない行為じゃないか』ってね。」
「どういうことだい、その犬たちと変わらんってのは?」
「猫は動物のたくさん出てくるイソップ物語が大変好きでね、その中でも一番好きなのが犬の意地の悪さを物語った『飼い葉おけの犬』の話だ。」
「おおあれか、なるほど。」
この話を知らない人のためにかいつまんで説明すると、一匹の犬が、飼い葉おけの中で昼寝をしていると、牛がやってきて、そのおけの中の干草を食べたいのでおけから出てくれと言ったら、その犬は自分では干草など食べもしないくせに、ワンワンほえて、その牛に干草を食べさせなかった、という話です。
フクちゃんは続けて言った。「犬にほえられていやな思いをしたことのない猫はまずいないので、犬の意地悪さをいましめたこの話は猫たちには大のお気に入りで、猫の母さんたちは必ず子猫たちに語って聞かせているといううわさだ。」
「なるほど」
「それで、おれはニャン公らに言ってやった、『おまいらがネズミを大切な食べ物としているのなら縄張りもわかる。だけど人間に甘やかされてネズミを食べもしなくなったのに縄張りをしっかり守るてえのは、あの飼い葉おけでキャンキャンわめくワン公と同じじゃないか!おまいら日和見猫と違って、俺たちイタチたちにとっては、ねずみたちは今でも大切な獲物なんだ』ってね」
「よく言った!フクちゃん」
「きゃつらは一瞬ひるんだ。特にチビたちは不安そうな顔をボス猫に向けた。ところがこのボス猫、こいつは真っ白い毛並みをしていて神々しさがあるんだが、話す言葉は大違いだ。こいつがこう言った。
『おれたちの縄張り(にゃーばり)は何もネズミ捕りの独占のためのみにあるんじゃにゃあ。我らの崇拝する招き大明神様に守られたこの縄張りは侵さざるべき神聖なものだ。それにおれたちが全くネズミを捕まえて食べなくなったにゃんてこたあにゃあ。好みが変わってもっとおいしいものを食べているだけだ。さて、この神聖な縄張りの中ではおれ様の許可にゃくいかなる仕事もしてはにゃんにゃい。許可を受けたものでも仕事で得たものの半分を、大明神様の祭司であるこのおれに納めるのだ。今では実はねず公たちは、猫の餌食というよりは、チーズとかスルメとかおいしい酒をたくさん貢いでくれる忠実なはたらきもの、忠公にゃのだ。ところがおみゃあらイタ公はそのかわいいチュウ公たちを捕らえて減らそうとする。それにおみゃーらは縄張りの中で獲物を捕まえても、一切おれさまにはお貢ぎなしだ。にゃら縄張りに入ったイタ公とチュー公のどちらに味方をすると思うね?わかりきったことじゃにゃあか。縄張りのボスには縄張りの中の住人の身の安全を守る義務もある。だから働き者のチュー公を、おみゃーらのようなよそ者から守るんだにゃ』
そこでおいらは言ってやったね。
『言い分はわかった。だけどきょうのネズミはお前の縄張りの住人じゃない。遠くからここまでおれに追いかけられて来て、ここに逃げ込んだんだ。そいつはおれの住んでいる森に住むやつで、町のいとこのチュウ公と組んでネズミ講まがいの商売を始めて、無知で働き者の動物たちからたくさんの富を巻き上げているんだ。だから天誅を下さねばならない。こいつをおまえの縄張りにかくまったりしてみろ、ここの猫たちはみんなあっという間に一文無しにされてしまうだろうよ。何しろ猫に小判といって、あんたらはお金の値打ちがわかりゃしないんだからな。』
するとボス猫が口をはさんだ。
『おみゃあの博学はよくわかった。しかしみゃあ黙って聞け。おみゃさっきイソップの話をしたが、同じイソップでこういう話があるのを知っているだろう、「イタチとやすり」というんだ。まあ聞きにゃ。
一匹のいたちが、かじ屋の仕事場にしのびこんで、そこにあったヤスリをにゃめはじめました。そうしているとあみゃあ味がしてくるからです。まもなく、ヤスリでこすられた舌から血がにじみ出てきました。ところがこのイタチは、それはヤスリの鉄さびがとけ出てきたものと思いこんで、そのままヤスリをぺろぺろにゃめつづけ、とうとう舌がぜんぶすり切れてなくなってしまいましたとさ、おーしみゃ、へっへっへ』と言って右手を招き猫のように挙げてにこっとしやがった。ひろし、お前この話を知ってたか。」
「知らないね」
「だろ?おれも知らなかった。たとえ知っていたとしても、きゃつがこれを何が言いたいがために引き合いに出したか、やはりわからなかったろう。それでただでさえ小さな目を点にして、言葉に詰まっていると奴さんは言ったね。『べらべらしゃべるいたちのイタ公はしまいにゃあベロがなくなるってことよ。きょうは許してやる、早いとこ行っちみゃーな』
それでおいらは、猫たちに大笑いされながら退却したわけだ」
「そりゃあ疲れるわな。おっ、そろそろお前のうちだ」
「ありがとよ」フクスケはぴょんと飛び降りて大木の下の穴に入っていった。そのうしろ姿はなんだか悲壮感が漂っていた。
私は、ポケットから一握りのいりことトンビを出して、フクスケの巣の入口に置いて、「これでも食べて、元気を出せよ」と言った。話題にしなかったが、実はうわさで先日の山手線レースで彼のチームはどべになったことも聞いていたのだ。
第五話 秘密の湖の秘密
早朝にいたちのフクスケからボス猫とのもめごとを聞かされたその日、午前中は日差しが強かったので、さっそく湖畔の木陰にテントを立て、その中でイヤフォンで音楽を聴きながら湖をスケッチした。この短編集のための挿絵とするためだ。絵は上手でないが、きらいでない。下手さの中に偶然味が出ると信じている。魚や動物は漫画的になるが、風景は丁寧に写実的に仕上げているつもりだ、が途中で疲れたのでやめて横になって音楽だけを聴いていた、ら眠くなっていつのまにか寝てました、が大きな音で眼を覚まされました。それはぼら親父の朝一番のジャンプでした。
それで約束どおり持ってきていたいりこやトンビをぼら親父に投げてやることにしました。親父はまず深くもぐって3メートルほどのジャンプを見せてくれました。「ナイスジャンプ!」と声援と拍手を送ると、親父は、今の高さの半分くらいの高さにえさを投げてみてくれと言いました。
そこでいりこを言われた通りに投げると、親父は今度は水面を斜めに飛びあがり、いりこをぱくりと口にくわえました。「ナイスキャッチ!」私はまた声援と拍手を送りました。それはまるでバレーボールのバックアタックのような切れでした。放り上げたいりこが落ちてくるのをキャッチするのでなく、いりこがその放物線の頂点で静止した瞬間にタイミングよく食いつくのです。親父はトンビも同じようにキャッチしました。一つもミスしませんでした。
やがて親父はほかの魚らにもジャンプさせましたが、タイミングが難しく、飛び上がるのが早過ぎてえさが来る前に水に落ちたり、反対に飛び上がるのが遅すぎてえさが頭上を越えた跡に宙を舞って空振りするのもいます。そうこうしているうちに突然からすが横から飛び出てきてトンビを横取りする場面もありました。とんびに油揚げをさらわれる、ということわざがありますが、これはカラスにトンビをさらわれたわけです。
私はこのカラスとはあまり仲がよくなく、せっかくもってきたトンビを横取りされるのがいやで、また取られるのがトンビならまだしも、飛び上がった魚がカラスに捕まえられ餌食になったらかわいそうだと思い、もう投げるのをやめました。そして残ったいりことトンビを水面にばらまきコイやフナやカメに与えました。魚たちはお礼に五連続ジャンプなどを見せてくれました。圧巻だったのは数匹の小さな魚がひとつの大きな輪を描くように五連ジャンプをし、いきなりその真ん中からぼら親父が四メートルくらいのハイジャンプを見せてくれたときです。とはいえ彼もカラスが気になるのか、一回で終わりでした。
昼になって、コンビニで買った弁当を食べたあと、ゴムボートに乗るために湖にそれを押し入れていると、ぼら親父が、いいものを見せてやるからもぐってみないかと声をかけてきました。暑い日だったので泳ぐのもいいと思いました。私はかなりの近眼でいつも眼鏡をかけていますので、海などに潜るときは度付きのゴーグルをかけます。そこでいったん家に帰ってそのゴーグルと海水パンツを持ってくることにしました。後者はこの湖にはザリガニがいるからです。
ぼら親父がいいものを見せてやるというのは、少々まゆつばもので、一杯くわされる危険もありましたが、きょうは彼の好物のいりことご所望のトンビをたくさん持ってきてごちそうしていたので、彼もしたてに出るはずで、いたずらが過ぎることもないだろうと思いました。と言うよりはお礼の気持ちからの好意であろうと思われました。
途中スポーツショップで耳栓を買って、そのとき目に入ったシュノーケルも買いました。私は長くもぐっていられないからです。シュノーケルには専用の大きなゴーグルがついているので、度付きのゴーグルは無用になりました。
湖に戻ると、ぼら親父が胸びれで手招きしたので、さっそく水に入りました。前に泳いだときもそうだったけど、ここの水は湖にしてはさほど冷たくないのです。ですから、きっと底のどこかに温泉がわいているのだろうと思っています。冬に来てみて湖面が凍ってなければきっとそうでしょう。
得意の平泳ぎで気持ちよくあっちこっちへ泳ぎまわり、やがてぼら親父のいるあたりに行きました。そこは湖面が浮草に覆い尽くされており、きれいなイトトンボがたくさんいました。
「この下に見せたいものがある」と言うと、ぼら親父は浮草の下に潜り込みました。私ももぐり込みました。するとどうでしょう、なんだか小型の飛行機のようなものがぼんやり見えてきました。ぼんやりというのは、この湖の水はそれほど透明度が高くなく、しかも藻などの浮き草で湖面が覆われているので、湖の中でもこのあたりは特にうす暗くなっているからです。近づいて触ったりして見ると、飛行機の残骸が原形をとどめたまま沈んでいました。どうしてこんなところに飛行機が沈んでいるのか、と眼を疑いました。プロペラ機ではなく小型のジェット機のようです。翼の下にさびてはいるが形はりっぱなジェットエンジンが一対ついています。胴体に文字らしいものが見えたのでそこの汚れを手で除くと、現れた文字から旧日本軍の戦闘機だとわかりました。そしてこれが不時着や撃墜されたものでないことはどこにも破損した形跡がないことからうかがえます。これは大発見だ、どうしたものだろうか、と思いました。
「これがわしのすみかだ。歴代の湖の主はここをすみかにする。」ぼら親父が言いました。そしてよく見るとひとり乗りの小さな操縦室には先ほど投げたトンビのいくつかがちゃんと蓄えられていました。
「この飛行機はどうしてここにあるんだろう」私は首をかしげ両方の手のひらを上に向けるジェスチャーで聞きました。
「先代から伝わる話によると、これは新型の飛行機とやらで秘密の装置が仕組まれていて、それを敵に知られなくするためにここに隠したという言い伝えだ」
「そうか、確か日本は終戦が近づくころなんとかというジェット戦闘機を開発していたからそれのたぐいかもしれないな。敗戦の玉音放送があったので、この秘密兵器をここに沈めて隠したわけか」
「まあ、そういうところのようだ。亀の尾ナシ、こいつは今九十九歳というからその頃のことを目撃した唯一のここの住人なんだけど、その尾ナシじじいの話によると、大勢の人間がこの飛行機を押してここまで来て、ボートを浮かべ長いさおで一番深いあたりを探って、飛行機を湖に浮かせそこまで移動して、窓などを開けて沈めたそうだ。」
「なるほど、水は適度に濁っていて、このあたりは深いところまで見通すことができないからな」
「初めは油が浮いて大変くさくて、みんな永らくその近くには寄り付かなかった。その頃の湖の主は大きな白鯉で、やがてその飛行機をすみかにするようになった」
「なるほど」
「それ以後、今までにここにこの飛行機を見に来た人間はいない。たくさんの樹木も育って、昔あった道は埋もれ、この湖の周りの木々は高くなり、枝々も広く伸び、湖はおおかた蓋をされたようになった。はじめおまいさんが来てゴムボートなど浮かべたときには、もしや飛行機を調査しに来たのかと思ったがな。まあすぐちがうとわかった。泳いでても、カエル泳ぎばかりで、もぐるようすがなかったからな。」
「図書館でたくさんの地図を調べたがこの湖はどれにも載ってないんだ。だからここに飛行機が沈められていることをもう誰も知っていないかもしれないな。戦争が終って半世紀以上たったんだし、秘密の装置といってももう時代遅れのものに違いないし」
「そりゃそうだ。もう秘密じゃなくなってるさ」
「そうするとこの飛行機を調査しても特に得るものがないばかりか、かえってその存在を暴露したら何か不都合を招きかねないと思ったんだろう。米軍らによって何かの罪に問われかねないとね。だから関係者はみなここのことは誰にも言わないことにしていたのだろう」
「それで地図からも抹殺されたのかもな。それはおれたちにとって都合のいいことだが。」
私はこの旧日本軍の新型ジェット機を思う存分観察した。はじめはぼんやりしていたが眼が慣れたのかはっきり見えるようになった。水面に戻ると、太陽はかんかんでりだ。浮き草がたくさんあっても水中のようすをよく見ることができたわけだ。
「親父、ありがとう。きょうのことは恩に着るよ。すばらしいものを見せてもらった。君の住いが誰からも荒らされることのないように、この湖の秘密はしっかり守るよ。」
「また見たくなったらいつでももぐれよ、ひろし」
「ああ」
「きょうはテントでお泊りかい」
「いや、日没までには撤収する。あすは仕事がある。そのうち泊りがけで来るから一杯やりながら話そう」
「そうだな。うまい酒を持ってきてくれ。おもしれえことをいろいろ話して聞かせてやるからさ」
私は岸まで泳いでいき、またテントにもぐって、さっそくジェット機の絵を描きはじめた。何度も直していると、もしかして元祖のジェット機の写真がどこかにあるはずだと思った。少なくとも外見の写真は残っているはずだと思った。そこで、モバイルパソコンを使いインターネットで調べてみた。するといろんなことがわかった。
旧日本軍は同盟国ドイツから入手した肝心のエンジン部分のない不完全な設計図を参考にして、ほぼ独自の設計でジェット機「橘花」を製造しており、初飛行にも成功した。橘花は終戦時点で2機が完成したが、どちらも進駐軍が到着する直前に操縦室を爆破したそうで、進駐軍はすぐに操縦室をもとの状態に復元するように命令したという。今はこれらの橘花はアメリカのスミソニアン博物館に保管されているらしい。
さて、何が日本兵をして橘花の操縦室を爆破せしめ、秘密の湖の小型ジェット機を沈めさせたのか・・・いちどこちらのジェット機の操縦室などをもっとよく調べてみようと思っている。
とりあえず今は橘花の写真を参考にしながら沈められたジェット機のスケッチを完成させた。橘花は美しい形をしているが、湖の中で見たものはもっと簡素であった。特攻専用に作られたからであろうか。幸い一機も空を飛ぶことなく終戦になった。もしも戦争が長引いていたなら、このような簡易ジェット機が大量製造され、日米双方の兵が多数海に沈んだことだろう。そして言うまでもなく、更なる原爆投下は日本列島をこの世の地獄にしていたに違いない!
第六話 きつねのおっさん
きょうは、きつねの長さんに初めて会ったときの話です。
ところでこのおさは、きつねたちの間では「おささん」がなまり「おっさん」と呼ばれています。しかし、これは人間のおじさんの「おっさん」とは意味が異なり、そのイントネーションは「デッサン」と同じです。ですからきつねの「おっさん」は敬称であり、以下の文章はそれを念頭に入れて読んでいただかないと、誤解を招きます。
さて、夏も暑さがピークを越えたころ、私は久しぶりに秘密の湖を訪れました。久しぶりというのは仕事が忙しかったのと、休みの日は暑いのでエアコンのあるところ、例えば図書館とか公民館とかに行って、日中を過ごすことが多かったからです。もちろんうちにもエアコンはありますが、節電に協力することを心がけたわけです。家にいるときはできるだけエアコンを使わないようにしています。そのためほとんど裸ですごしています。それが健康にもいいとのことだったからです。公民館では盆踊りの準備と練習で時間を過ごしました。私は町内のある役をおおせつかっており、盆踊りにつきものの屋台店の管理と駐車場の副管理の責任者でした。
さて、私が秘密の湖に行くことになったのは、いたちのフクスケに声をかけられたからです。森のキツネたちが私に会いたがっている、ということでした。森にキツネがいるのは見かけたことがあったので知っていましたが、これまでに声をかけられたことはなく、どちらかというとうさんくさそうに私を見ていたので、こちらも無視してきました。そしてそれは正解でした。なぜなら、昔話にたがわず、やつらは人をだます能力を持っていることがわかったからです。
フクスケは私と森の道なき道を進みながら、言いました。「彼らは悪い連中ではないが、こいつは化かしやすいぞ、と見抜いたら、少々いたずらっぽくなって、ひとつふたつトリックをする。悪意はないが、それに引っかかると、子ぎつねからもいつまでも馬鹿にされるから気をつけな。」それはちょうどおとなしい人好きの犬でも、この人間は犬を怖がっているぞとわかると少しばかりうなってみたくなるのと同じだそうな。
森の中でも特に木立の茂った方面に私は連れて行かれました。フクスケはするすると簡単に木々の間を進んでいきましたが、私はたいへんで、何度か木の根っこにつまずいたり、頭を枝にぶつけたりしました。
それできつねの集落に着いたときにはきげんが悪くなっていて、無愛想に帽子をかぶったまま挨拶しました。こんなところまで呼ぶんでなくて、自分たちが会いに来いよ、という気持ちになっていたからです。
だけど来てよかったことがすぐにわかりました。きつねたちは口々に私に「よくいらっしゃいました。」とからだを私の足になすりつけながら挨拶します。これは猫が人を歓迎するときの挨拶方法と同じです。一段落すると、フクスケは私をある立派な毛並みをしたキツネのところに連れて行きました。それはこのきつねの集落の長でした。
このキツネはニコニコ顔で言いました。「よくいらっしゃいました先生。フクスケ兄から、あなたが来てくださると聞いて、みんな大喜びで、お待ちしていました。これから嫁入り行列が出ますので、ぜひ花嫁の門出を祝ってあげてください。結婚するのはわしの末娘です。花婿は荒船神社の神主です。」
荒船神社と聞いて私はおやっと思った。私らが準備している、柑子町主催の盆踊りは公民館の近くの荒船神社の境内を借りて行われるのでした。この神社はお稲荷さんを拝し、狛犬の代わりに玉をくわえた狐の像が一対置かれており、どちらにも赤いスカーフがかけられていて、その姿はなかなか美しい。
「荒船神社の神主ならきのう用があって会ってきました。あの老いぼれじいさんにあなたの娘さんを嫁がせるのですか?」
「いえいえ、神主といってもキツネのほうの神主です。全国の稲荷神社には人間の神主がいないものがあっても、必ずキツネの神主がいます。だから荒船神社にもきつねの神主がいてなかなか将来性のある若者です。どうぞご贔屓にしてやってください。実はそこでこんど盆踊りがあるというので、キツネの子供たちにぜひ踊りに行かせてやりたいと思っていたところ、フクスケさんからあなたがその祭りの企画に携わってられると聞いたもので、ひとつ子供たちのお世話をお願いしたいと存じましてな。」
そのとき、なんだか霧のような小雨が降り始めました。その日はとてもいい天気で太陽は照っているのですが、ふわーとした感じの雨が舞って蒸して、体は雨と汗で二重の湿気を帯びました。
すると「さあ、みなさんまいりましょう」という声が上がり、キツネたちは列を作り始めました。
「これがキツネの嫁入りだな。」と私は花嫁の父親との話を中断し、彼と行列を見るためにそちらに近づきました。するとどうでしょう、キツネたちはみるみる様子が変わっていきました。みんな二本足で立ち、美しい人間の衣装をまといます。するともう顔も人間ですが、キツネであることの証拠に口が深くさけており、鼻の先がちょっと黒い。あっ化けたな、私は声になりそうな驚きを抑えて思いました。これはすばらしい。美しい!
列に加わろうとしないきつねの長に、「あなたは一緒に行かないのですか」と聞くと、いつの間にか目に涙を浮かべていた彼は、涙声で、「それはしきたりでない」と言いました。私が黙っていると、おっさんは、 「こんどの荒船神社での盆踊りに、子供たちと一緒に私も連れて行ってもらいたいのです。そのときまで娘には会いません」と付け加えた。
私はかごに乗ろうとしている花嫁の化粧した優雅な容姿にまず目を魅かれたが、すぐに彼女の手を取っている女狐に見とれていた。こんな美しい方なら狐であってもお嫁さんにしたいなと心底思いました。しかしすぐに、あっ自分はまさに狐に化かされる寸前にいるのだと気づき、ふらつきかけた気を強く持ちなおし、フクスケのほうを見ました。すると彼も私のほうを見て、人差し指を鼻の前で左右に振って「ノンノン」のジェスチャーをしました。
さて、人間に化けたのは行列に加わったものたちだけで、見送るきつねたちは「きつね」のままでした。行列の「人々」はきつねのおっさんを通り過ぎるときに皆一礼します。おっさんはしばらく行列を黙って見ていましたが、最後尾が過ぎてゆくと「この変容は天気雨が降っているあいだだけです。やむとみんな野生の姿にもどります。」と言った。
陽光を受けた霧雨はこの静かな行列の上にきれいな虹を立たせ、まるでこの虹も狐たちの行列の変容の一部のようでした。そしてこの霧雨がやむとこの虹が森の空気の中に溶けるようにきつねの行列の変容も溶けるのです。
私は、きつねの長(今ではおっさんと呼んでいますが)に盆踊りの日に迎えに来ると約束しました。フクスケはお礼に出された名物けつねうどんをご馳走になりました。私は行列を(なかんずくあの美しき女狐を)スケッチしたいと思い、その姿を記憶にとどめるべく行列のあとについて帰りたかったので、ご馳走は遠慮して先に失敬しました。
行列を見失わないよう霧雨の中を彼らが行った方向に追いかけてゆくと、来たときにはこの道はこんな広々としてなかったのに、ずいぶんゆったりとしていて、つまずいたり枝に頭を打つことももうありませんでした。
秘密の湖のほとりを通り、竹藪のトンネルをくぐって、森の出口に近づいたころには、霧雨はほとんど上がり、虹はもう消えそうでした。足並みをそろえてゆっくりと進む花嫁行列の落ち葉を踏む軽い足音とともにこの話もここで・・・溶けます
第七話 柑子町の盆踊り
柑子町の盆踊り大会があるその日、祭りの中で私の担当する段取りの準備を終えると、きつねのおっさんに会うために急いで森に行きました。彼と子狐たちを盆踊りに連れて行くことを約束していたからです。
さて、待ち合わせ場所であtった秘密の湖に着くと、おっさんは子狐たちに囲まれて何かに夢中になっていました。私が来たのに気づくと、すぐにこちらにやってきて、「こんにちは、先日はどうも足元の悪い道をおいでいただきましてありがとうございました。」と丁寧なお辞儀をして言った。
「やあ、おっさん、ごきげんよう」私も丁寧にお辞儀し挨拶した。
「きょうはたいそうお世話になります。子供たちはきょうの盆踊り大会をとても楽しみにしております」
「そうですか。子供たち中心の踊りの時間は5時半からです、まだ多少ひまがあります。まあゆっくり行きましょう」
私は何かを囲んで真剣に見ているこぎつねたちが何をしているのか聞こうとすると、おっさんは言った。
「先生、実はまたひとつお頼みしたいことがあるんです。あなたはきょうの祭りの屋台店の管理責任者をされていると聞いたんですが、私もひとつ出させてくれないかと思いまして。」
「あっ、けつねうどんはだめだよ。あれはちょっとね」私は昨年この種の管理を任されたが、食べ物を売る屋台には特に注意を払っており、衛生問題が少しでもありそうなものはみな断っていた。前任者たちも毒入りカレー事件の後は、料理関係はすべて町内あるいはその近隣で飲食店を営業するプロだけに許すことにした。だからけつねうどんは論外だった。
「いや、そんなんじゃないんです。私が出したいのは詰め将棋屋だ」
「おお、大道詰め将棋というやつかな?なつかしいね」
「うん、それです」
「おっさん、将棋なんてできるんかい?」
「何をかくそう、私は、長らくきつね将棋界のチャンピオンだったんです。若いときに父から鍛えられ、やがて地元の棋士について研鑽し、十歳でそのころのチャンピオンを全勝で破り、玉座につきました。日本中からほとんど毎日のように挑戦者がやってきたが、十年間玉座を守りました。やがて大阪の若い狐に王座を奪われたが、連続して十年間玉座にいたということで、棋聖の称号をもらって去年引退したばかりです。今では人間の将棋クラブに行っていて、そこではもちろん負け知らずで、いろいろ賞をもらい、いい思いもさせていただきました。まあ人間のプロ名人にはかなわないかもしれんが、人間界の六七段の実力は持っていると自負しています。」
「それで盆踊りで一儲けしようというわけかい」
「所場代はもちろん払います。儲けの一割二分の相場も心得ています」
「いや、そんなことじゃない。いんちきで儲けるのは困るんだ」
「私の詰め将棋にはいんちきはありません。お客さんが決して勝てないような詰め将棋はやりません。ただ簡単には私には勝てないまでのこと・・・」
「ならいいんだが・・・一手いくらだい?」
「大人百円、中学生以下が十円ですね」
「客がもし、詰めに勝ったら賞品はなんだい。」
「狐々(こんこん)堂謹製の将棋の駒です。これは文字の代わりに動物たちの凝った絵が描かれていてなかなかの逸物です。きつねの家庭でこれのないのはありませんくらいはやっています。」
「ならいいでしょう。二メートル四方くらいの場所があればいいかね」
「いいですとも。」
そのとき、子狐のひとりが大きな声を上げた、「おっさん、わかった、これで詰みだ!」
「どれどれ。ちょっと失礼」おっさんは、子狐たちのいるほうに行く、そして笑い声で、 「それではだめだ、ほれ、この桂馬が見えないかね。これはいただきだ、はっはっは」と言った。どうやら棋聖はもう商売道具を準備してきているようだった。
我々一行が柑子町の荒船神社に着くと、おっさんの娘とその婿の新婚夫婦が、これもうまく人間に化けて、我々を迎えてくれた。こどもたちはすぐに出店のほうに行ってほしいものを買ったり、金魚すくいや射的に興じた。
私は、それぞれの屋台を見て回った。そして最後に、準備中のおっさんの詰め将棋屋に寄った。彼は、大きな風呂敷包みを開くと、慣れた手つきで、折り畳み式テーブルの上に将棋の盤面の印刷されたその風呂敷を広げ、これの四隅を石で固定した。そしてその上に将棋の駒を並べて、詰め将棋の準備が完了した。私はこの情景をつぶさにスケッチして、あとでおっさんに見せると、感心してくれた。
さて、大道将棋の珍しさに、子供たちや大人が集まってきた。するとおっさんはよく通るだみ声で口上を始めた。
「さあさあ、お立ち会い、御用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで。お嬢ちゃんお坊っちゃん、いいこだから一歩前に出てね、そうそう。さあ、詰むといえば詰まない。 詰まないといえば詰む! これが七変化自在のきつねも化かされるといわれるナナバケの詰め将棋、さあ一度は見てらっしゃい、差してらっしゃい。賞品はこれ、森の動物たちが今夢中になって時の過ぎるのも忘れて楽しむといわれるコンコン堂謹製の鳥獣将棋の駒。嬢ちゃん坊っちゃんもすぐ覚えられる、なんとなれば、このやさしい絵入りの解説書つきだよ。これを欲しい方には、いつもは二千円のところ、きょうはここ荒船神社は私のかわいい娘が嫁いだめでたい神社だから、特別におまけして千円でプレゼントしましょう。どうですひとつ、そこの学生さん。もちろん詰め将棋で勝った名人には無料で進呈、差し代はチャラというおまけつきだよ。さあ、いらっしゃい、見てらっしゃい、差してらっしゃい!」
おっさんは口上しながら、鉢巻を頭に巻いて、扇子で行く人たちを指してはその歩みを止めひきつけた。しかし、まだだれも今では珍しくなったこの一見あやしい大道詰め将棋をしてみようという勇気はないようだった。すると彼は、人並みの中の自分の末娘を扇子で指して、「おっ、そこのきれいなおねえさん。いやあ浴衣が似合っててほれぼれしますね。その隣の粋な兄さんはもしかしてボーイフレンド?えっ、もう結婚しちゃった。それはそれはおめでとうございます。さあ、では亭主、ひとつこの詰め将棋に勝って若奥さんに頼りになるとこを見せてあげてはどうですか?」
亭主と呼ばれたそのきつね若神主は、ちゅうちょしているようだったけど、若妻に背中を押されて、「ではいたしましょう」と風呂敷将棋盤の前に立ち向かった。少々てこずったが、彼は結局詰ませてしまった。それで鳥獣将棋の駒をもらい、箱を開けて駒を周りの人にも見せた。その駒は確かに森の鳥や動物の色絵が描かれており、裏には表の動物となんらかの関係のある動物あるいは親子の関係にあるものが墨絵で描かれていた。怪しいのは、王将になっているのは、九つの尾を持った九尾の狐であったが、その裏はブランクのはずが美しい人姫が描かれていた。
さて、このさくらの効果は十分あって、詰め将棋の順番を待つ人の列ができた。
これをきつねにだまされた人々ということもできるが、さくらはもともと人間が考え出したことであって、それをきつねがしたから特別扱いするのは差別である。私はおっさんを責めるやぼなことはすまいと思った。
さて、笛や太鼓の華やかな囃子とともに盆踊りが始まった。始めは、子供たち中心の時間でしたので、ドラえもんとか、アンパンマンの曲が混じっていました。やぐらの上で太鼓をたたく人は一曲ごとに交替するのですが、そのばちさばきとやぐらの下のひょっとこ踊りに見とれて私はしばらく鑑賞しました。この時間帯には6人くらいの高校生たちが、男女交互でやっていました。微妙なシンコペーションを駆使して、それぞれが自分の得意技を披露していました。女性たちは、下から見られることを意識しているのか、わざとはっぴに隠れるくらい短い半ズボンをはいて、自らを陶酔の境地に誘い込み、狂い打ちをしているかのようでした。しかし子供たちの興味はまだお菓子や、光るおもちゃのほうで、なかなか太鼓の魅力に気付く様子はありません。
大人の参加する踊りには私も加わって、時の過ぎるのを忘れて踊りほうけました。9時に予定通り祭りは終わり、後片付けが始まりました。おっさんのところに行くと、彼はいなくて、すでに子狐たちを連れて森に帰ったようでした。
おっさんがその日どれだけ儲けたかの詳細はわかりませんが、彼は先ごろの大地震で被災した動物たちにその儲けの多くを送ったと、あとでフクスケから聞きました。
蛇足ながら、私もこの詰め将棋をして千三百円負けました。少しは被災地の復興に間接的に貢献したことになるかもと自分を慰めています。
第八話 土神伝説
きつねのおっさんから聞いた話です。それはこの夏も盛りを過ぎた午後、湖のほとりの木陰で彼に将棋の相手をしてもらいながら聞きました。将棋は例の鳥獣駒を使いました。飛車角落ちにあたる龍虎落ちのハンディをもらって臨み、途中までは当たり前のことながら優勢で、勝てると思っていたのですが、話に気を取られたのと慣れない鳥獣駒のせいで不本意にも負けてしまいました。
さて話の発端は、王将の代わりをしている九尾の狐についてたずねたことによります。おっさんは次のような話をしてくれました。
今は昔、この湖からさほど遠くないところに洞穴があったそうです。そこに土神様が住んでいたというのです。小さな神でしたが、足が速く、力持ちで、全身が黒檀の木のように黒く目がぎらぎら光って筋肉隆々でした。日本の神々の相撲大会でも優勝を何度もしたということでした。しかし性格は荒く、近隣の住民からは恐れられていました。
その土神さまの住んでいた洞穴を、みんなは「どじん様のほら穴」と呼んで、人間たちは祭りのときに農作物をその穴の入口に供えました。祭りには例によって狐たちも人間に化けてまぎれていました。そしてある夏祭りのとき、どじん様は美しいきつねの娘に一目ぼれしてしまいました。きつねと見抜いていましたが、恋をすると盲目になるのは人も神も同じです。しかし神とはいえ、あるいは神であったからこそ、その気持ちをこの雌ぎつねに打ち明ける勇気はありませんでした。
そして、その冬、寒さが特に厳しく、雪も深く積もり、狐たちの中には凍え死ぬものも出始めました。そこで当時のきつねの長は土神様に夜だけ寒さをしのぐためにどじん様の洞窟に入ることを許してくれるようお願いしました。神は例のきつねの娘を嫁にくれるなら許すと言いました。長は、その娘にはもういいなづけがいるのでほかの娘にしてくれるよう頼むと、その娘でなければならないと断られました。
さて、その娘のいいなづけというのは、きつねの中でも大きな体格を持っており、次期の長になると目されていた若者です。その若きつねは、自分がどじん様と戦って、どじん様を洞穴から追い出すので、決闘させて欲しいと長に許しを求めました。長はそれを許し、勝ったら長の座を譲るとも言った。
さて狐たちは、決闘の場所として湖のそばの一番高い踊り場のようになった場所を指定して決闘状をどじん様に届けました。どじん様はこれを受けました。
そして、翌朝決闘が行われました。踊り場をはさんで一方の岸辺にきつねたち、他方にどじん様を守護神とあがめるモグラたちが集まり、その他たくさんの動物らも戦いを見守りました。
いいなづけのきつねはどじん様よりも敏捷性は抜群でかつ体も大きかったので、距離を置いて引っかいたり、たたいたり、足蹴りをしている間は、きつね有利でした。どじん様は雪だまを作ってはきつねに投げつけましたが、簡単によけられてしまいます。石ころがみな深い雪で埋まっていたのがきつねに幸いしました。きつねは飛びけりを繰り返して、何とかどじん様を凍った湖に落とそうとしました。どじん様はその飛びけりを何度か受けてあとずさりを余儀なくされましたが、なんとか我慢して、瀬戸際でしのぎ、やがて疲れてきたきつねの体をとらえました。互いに取っ組み合いになると、力でまさるどじん様が優勢になります。彼はきつねの背骨を膝で受け折ろうと両手を力みました。しかしきつねにはするどい犬歯があり、これでどじん様の肩をかんで、彼が痛がってひるむすきにその手から離れました。どじん様はまたつかみかかりました。その腕力のすごさに恐れ入ったきつねは逃げ始めました。
どじん様も速いが、きつねも足には自信がありました。きつねは湖の周りを時計回り方向に走って逃げました。それをどじん様が追います。岩を越え、足が沈む深雪を乱し、いちぢくの木の枝を足場にし、風にゆれるぶどうの木のつるを飛び越え、きつねは走りました。この湖は凍っていましたが、湖水が少し温かいので、氷は薄く、この上を走ることは危険でした。これも逃げるきつねには有利でした。こうして三周目にはきつねとどじん様の距離は半周近く開きました。
しかしきつねは知っていました。自分は勝たねば負けであることを。逃げて生き延びて恥をさらすより、どじん様を倒すことがかなわないなら、いっそこの神の手によって殺されたほうが名誉であることを。
そしてきつねは、三度目に決闘の場所に戻ったときに立ち止まり、追ってくるどじん様をにらみつけました。しかし彼のぎらぎら光る目をまともに見ると、からだが震え始めました。最後の飛びけりに命をかけようと思いました。しかし雪のせいでいつもの必殺のジャンプができないことを知っていました。
「どじん様、お願いです。もし私が敗れて、あなたが私のいいなづけをおとりになったなら、狐たちにどうか洞穴での越冬をゆるしてあげてください」
そういうときつねはどじん様に飛びけりを見舞いました。しかしどじん様はそれをよけたばかりか、両腕できつねを抱きとめました。そしてそのままひざの上で暴れるきつねを折り曲げました。
きつねは背骨を折られ、息絶えてしまいました。どじん様はそのきつねの死骸を両手で宙に上げ、凍った湖に投げ入れました。薄氷はその屍を受けて割れ、湖水は狐を飲み込みました。
そしてどじん様は、(いつのまにか人間の姿に変容していた)くだんのきつねの娘を手招きしました。「お前はもう私のものだ、さあ一緒に洞穴で暮らすんだ。」
するとその雌ぎつねは、両手を広げてどじん様に走り寄り、抱きつくと、「かたきー!」と甲高く叫びながらどじん様もろとも湖に落ちました。そんなに大柄でもないこの雌ぎつねにどうしてそんな力があったのかは不思議です。とにかくふたりは一体になって湖に落ち、氷を割って沈みました。どじん様は泳ごうにもきつねの娘に両腕もろとも抱きつかれて、ついにおぼれました。恋に破れたあわれな土神さまは、水の中に溶けて墨のように広がってしまいました。
その色は永らく湖をおおい、それ以後、それまでは透明だった水がにごったままです。しかし、湖水は肥沃になり水中の生物は外敵から守られ、また食べ物も増え、これによっていままでいなかった種類の動物も湖にやってきました。しかし一方、土神様がいなくなった土地のほうでは農作物がとれなくなり、人々が去ってゆき、地は荒れ放題になって今に至っています。
さて、不思議なことにふたりのきつねの死体はいつまでも浮いてきませんでした。狐たちはもちろん、森の動物たちも、決闘で敗れたきつねとそのいいなづけを哀れみ、そのせいかこのきつねたちが合体して神となって飛翔して九尾のきつねになった、と伝承するようになりました。もちろん他の地方に行くと別の伝説があり、まちまちです。上方の狐たちは、中国の雌狐が日本に来て、美少女に化けて鳥羽上皇をとりこにしたが、それがきゅうびのきつねになったと言っているらしい。
また動物たちはどじん様をも哀れみました、特にモグラたちは中秋の名月には土団子を作り、湖水に供え物として沈めています。しかしいつしかどじん様の洞穴のありかは判らなくなってしまいました。モグラたちが知っているといううわさですが、彼らはしらを切って、知らないと言います。なんせ彼らはどじん様を崇拝しているので、その聖なる洞穴を「日和見」動物たちから守るつもりなのだろうというのが推測です。
ちょうどこの話が終わったときに私の九尾のきつねは逃げ場を失い、詰まされました。今思い返すと、おっさんはどうやら、話が終わるまでは詰まないように駒を手加減して差していたようです。
第九話 尾ナシのお話
夏も終わりに近づいたある日、私は湖畔でテント泊をすることにした。そこで午後おそく、重い荷物を担いで秘密の湖に行った。なかんずく荷を重くしたのは、ぼら親父が所望したので買っていった日本酒一升だ。
歩き疲れて木陰で休んでいると、西の空の高いところに富士の嶺が突然に姿を見せた。富士の山稜の左の斜面にそれほどもうまぶしくなくなった夕陽が少し沈みかかっており、夕靄の中に隠れていた富士の姿が後ろから夕陽に照らされいやがおうもなしにシルエットとして浮き上がったのだ。私はしばし見とれていた。晩夏の靄でこのころは富士山を見る機会があまりなかったので、うれしいことだった。
頂上にはちぎれたような雲がかかっており、その輪郭と富士の輪郭が黄金色の線で縁どられていた。しかし山裾の方に下がって行くにつれ金線は見えなくなっている。だから富士は空に浮いているようだった。そしてその黄金線にかたどられた富士のシルエットは淡い灰青色であった。太陽が沈むに連れ黄金色が赤みを増し、シルエットは黒ずんできた。時計を見るとまだ5時30分だ。富士に落ちるとき晩夏とはいえ日没は早い。
私は暗くならないうちに湖につこうと立ち上がった。急いだ。途中仕事に出かけるフクスケにあった。「ぼら親父のお相手だって?ごくろうさん」「早く仕事が片付いたら寄れよ」「おれは酒はだめなんだ。」などと言いながら互いに親指で敬礼をして別れた。
ときおり富士の姿を振り返って見ながら私は森に入った。自生のユリの花がそこかしこに咲いている。遠くでカナカナが鳴き始めた。そして控えめではあるが秋の虫も鳴き始めている。セミの鳴き声だけだった真夏はもう終わったのだ。セミの声に比べて、秋の虫の声もカナカナも哀愁を感じさせる。また私の大好きな夏がひとつ過ぎ去っていこうとしている。
湖につくと、まずテントを張った。小さな簡易テントだけど薄暗くなってきたので十分以上かかってしまった。若いころ山や海辺などいろんなところで使ってきたテントで、沖縄ではこのテントで寝ていてキジムナーに襲われたこともあった。南九州のある無人駅の中にテントを張って寝ていると警察官に職務質問されたこともあった。シニアになって旅をしなくなった今は、このテントはベッドの上に四季を通じて張られている。おかげで、夏は蚊よけ、冬は暖房は電気毛布一枚でまにあう。
アウトドアでは私はテントを張るとき、万が一雨が降っても避難しなくてもいいところを選ぶ。また強風が発生しても風防の役割をするだろうものを見つけそのそばを選ぶ。こうして雨が降っても風が吹いても、テントの中で豪華ホテルの高価な一室にいるよりもリッチな時間を過ごすことができる。それはひとえに自然という最高級ホテルのおかげである。自然ホテルにいればじかに接することのできる環境の特殊性でいつもその地方にいることをさまざまに自覚させてくれるが、一般ホテルはそこが例えば北海道であっても入口を入った途端に東京、名古屋、福岡、あるいは他のどの町にあるホテルとも同じ画一化されたスタンダードの空間が広がる。せっかく北海道にいても北海道から隔離された空間にいるのだ。これではとても旅の宿とは言えない。ビジネスの宿である。一般ホテルのナイトライフは部屋の電気を消して窓から街の夜景を眺めながらちびちび酒を飲む楽しみがある。しかし、私の夜景は真上にある。我ら自然ホテル愛好家の楽しみ、夜の醍醐味は何といっても地球をすっぽり包む巨大プラネタリウムである。いつまで見ていても星座は私らを飽きさせない。
さて、日が暮れてボートで月見をしながら待っていると、ぼら親父が現れたので、その口に一升瓶を傾けて酒を注いでやった。親父は結構いける口で、飲むと陽気になり、自分の自慢話をあれこれ聞かせてくれた。ぼらはそもそも海水魚だが、いかにしてこの淡水湖にいることとなったかが興味深い。
まだ小魚だった頃のある冬の日、竜巻によってすさまじい勢いで空中高く吸い上げられ、あっというまに冷凍され、意識がなくなった。気がつくとこの湖で泳いでいたという。要するに冷凍航空便で海から湖に直送されたわけだ。竜巻によって空中に吸い上げられた魚が地上に落下することは知られている現象であるが、運よく湖水に落ちたぼら親父は生き延びたわけだ。まだ小魚だったから全身が一瞬に冷凍されて輸送中に鮮度を保てたことがよかったのだろう。しかしそのため肝心なところの記憶がないので、この冒険談はこれだけ。ちなみにここの湖水で湧いている温水はどうやら多少の塩分を含んでいるらしく、おかげで海水魚でも生き延びれたらしい。
酒が進むにつれてぼら親父はろれつが回らなくなり、とうとう酩酊状態となり、妙な踊りをしていたが、やがて沈んだ。
私は、残った酒を、「わしにも一杯くれえや」と近づいてきた亀の尾ナシじいにふるまった。彼が尾ナシと呼ばれているのは、もちろんしっぽがないからであるが、そのいきさつがまた面白い。酒のお礼に尾無しになるまでの昔の話をしてくれた。
尾ナシが尾無しでなかったころ、彼は大きな川にすんでいた。彼にとって人生は賭事につきた。彼がギャンブラーとして成功した若い頃はまだ水が農薬などで汚されていなかったから、多くの種類の水中動物が池や川に生息しており、またそれを餌にする水鳥もどこにもいた。よってギャンブルに適した水鳥同士の戦いがしょっちゅう起きていた。たいていおす鳥同士がめす鳥を奪い合うための戦いだったが、たまにはめす同士のおすの奪い合いもあった。ギャンブラーたちはどちらの鳥が勝つかを予想しあった。
そして尾ナシは、あらかじめ水鳥とぐるになって八百長をしくんだ。打ち合せ通りの結果が出ると、儲けからの分け前をあとで水鳥に配った。
のちに「じんき」と呼ばれることとなるあるスッポンが尾ナシが勝ちすぎるので、何か裏があるのではないかと怪しんだ。なぜなら尾ナシは負けることはあったが、そういうときに限って掛け金は少額で、勝つときはたくさん掛けているという傾向に気づいたからだ。
尾ナシが大儲けしたある賭のあと、じんきは相棒のすっぽんとで、メスの争奪戦に破れた白サギを襲い、相棒がその足の水かきに食いついた。痛がるサギにじんきは尋問した。 「おどりゃ、あのじょじょ(尾ナシの当時の名前)から金をもらって八百長をしょおったろうが。白状せえ!この詐欺やろう」
「そんなことはしゃあせん、しゃあせん」そのシラサギは知らぬ存ぜぬをとおしたが、じんきの相棒はくいついた足をはなさなかった。彼もたいそうの掛け金を巻き上げられていたから。
「しらを切るんなら、これでもくらえ!」じんきはサギのもう一方の足にかみついた。サギは「ぎゃっ」と叫ぶと、あわてて飛び上がった。そしてスッポンたちを落とそうと足を振った。スッポンたちは必死でし噛みついた。サギは二匹のスッポンがぶら下がっているので、すぐに力尽きて落水した。そしてとうとうメス争奪戦でわざと負けたことを白状した。
じんきとその相棒はこの白サギを連れてじょじょのすみかに向かった。じょじょはすでに顛末を見守っていたので、しらを切ることはなかった。じんきはじょじょに落とし前をつけることを迫った。すなわちいかさまでもうけた金をみんなに返すことと、亀賭博界のしきたりに従って、尾を詰めることであった。こうしてじょじょは金なし尾なしになった。
スッポンのじんきはこのことにより亀仲間から崇められ神の亀すなわち「神亀」と呼ばれるようになり、じょじょは「尾ナシ」と呼ばれるようになってみんなから笑いものにされた。
それでもギャンブルをやめられない尾ナシは、その川を去り、日本全国の川や湖水を巡りギャンブラーの人生を続けた。やがて、冬でも暖かいこの湖に来て、ひどく気に入ったので、そのままここで余生を過ごすことにしたということだ。といってもそれは戦前のことで、ずいぶん長い余生を過ごしてきたものだ。
酒をちびちびやりながら、そのような話を聞いていると私も酩酊状態になり、うとうとしているうちにボートの中で沈んでしまった。
変な夢を見た。ボートにじんきが近づいてきて「わしにもその酒をくれえや。おもしれえ話をしちゃるけえ」と言うのだ。すっぽんにしては目が赤いので、私は「おまえはすっぽんじゃないね。目が赤い」と言うとじんきは「すっぽんの目は赤いんだ」と言い張った。そんな話をしていると、こんどは土神様が赤い目をぎらぎら光らせながら泳いできて 「その酒を飲ませろ」と言います。こちらは正真正銘の土神様だと思いました。「どじん様、この酒は私がもう口をつけたので畏れ多くて差し上げられません」と言うと、「ばかもん!」としかられました。次に寄ってきたのは何かわかりませんでしたが、やはり酒を欲しがり、断ると去っていきました。
あとで私は、自分は夢の中でもけちだなあと思いました。けちけちしないで酒を振舞ってやればよかったと思います、減るもんでもないし。
第十話 いのししのヴル
さて、未明に目が覚めると寒い、それもそのはず自分はボートの中で何もかけずに眠っていた。私はボートをこいで岸にもどり、テントで寝直したが、眠りに落ちたのもつかの間、大きなヒステリックなけものの声に目を覚まされた。
いさかいの声が聞こえてくる。テントの蚊よけネット越しにのぞいてみたが、声の主の姿は見えない。声音からどうやらイノシシの夫婦だということがわかる。朝っぱらから夫婦喧嘩のようだ。それにしてもまだお日様は姿を見せていないのに、参ったなあ、と思った。毎朝こうだともうここではテント泊はできないなとも。
夫婦喧嘩ではたいていそうであるようにかみさんのほうが優勢だ。それは彼女の強圧的なヒステリックな声だけでなく、だんなの「大きな声を出すなよ、まわりに聞こえたら恥ずかしいじゃないか」といういさめの語調からもうかがえる。
「恥ずかしいようなことをしているのは誰だい。みんなに聞こえて恥になるのはあんたのほうだけだよ。」
「うりぼうたちが目を覚ます。あの子らに聞かれるとまずい。」
そのとき、雌イノシシはいきなりかみついたらしく、だんなは「あいたっ!なんてことをする!グルル」と鼻息を響かせて叫んだ。すると「この浮気者、恥を知れ!もう帰ってくるな。牝ブタと豚小屋で一生暮らしゃあがれ。この女たらしが!」というヒステリックな声が森をこだました。
静かになったと思うと、イノシシのヴルが湖畔に現れた。初めはその強いにおいで気づき、やがて足音が聞こえ、鼻息が聞こえ、そして木々の間からヴルの姿が現れたのだ。私はこの森ではイノシシが一番危険だということをフクスケやおっさんから聞いていたので身構えた。特にこのヴルは大の人間嫌いだという。私はいざというときはテントから飛び出して、ボートに飛び乗って沖に行けば安全だと思った。
しかしその必要はなかった。ヴルのほうから丁重に声を掛けてきた。
「ひろしさんとやら、朝っぱらから騒いで申し訳なかったな。目を覚まされたでしょう、せっかくの湖畔の朝なのに」
「あっ、いえ、そちらさんこそ朝からかみさんにひどいことを言われていたようで、同情いたします」
「いや、全部わしが悪いんでさあ」
しばらく沈黙が続いた。私はまだ酒気帯びの状態で、このイノシシにそれを気づかれて暴れられはしないかと心配した。なぜそう思ったかはわからない。とにかくまだテントに潜んでいることにした。
「フクちゃんから聞いたけど、動物がお好きなんだってね。・・・ひとつその動物愛に免じてものを頼まれてくれないかい、ひろしさん」ヴルが言った。
この「動物愛に免じてものを頼まれてくれないか」は言い回しがおかしいと思ったが意味はわかった。フクスケやおっさんから聞いていたヴルとはうってかわって丁寧な口調だ。あの夫婦喧嘩のせいだと思った。あんなにこっぴどくやられたらだれでもしょげるであろう。
私はテントから出た。
「なんでしょう?動物は好きですが、それは食べるのが好きという意味も含まれています」
ヴルは荒い鼻息をした。ジョークを言ったつもりだが、我ながらなんというあさはかなブラックジョークだったろうとすぐに気づき、あわてて「頼みというのは何でしょう?お聞きしましょう」と注意を逸らした。自分はまだ酔いがさめていないのだと思った。
ヴルはやはりおかしな言い回しで話を始めたが、整理すると次のようなことを言った。
彼は、夜な夜な人里にゆき、養豚所の垣根を飛び越えて豚たちの間に飛び込み、ブタのえさを横取りして腹ごしらえをすると、雌ブタと交渉を始める。従わないメスや攻撃してくるオスにはするどい牙で脅して邪魔をさせない。初めは騒動に気づいた犬が吠えたてて、やがて飼い主がやってくるので、あわてて逃げ出していたが、あるときから事情が変った。 飼育者らはなぜか夜は犬を豚小屋から遠ざけ、あたかもイノシシの夜這いを歓迎しているかのようになった。そして交渉するだけで特に害をくわえるわけでもないイノシシのヴルの侵入にブタたちもあまり騒がなくなった。こうして豚小屋はヴルのハーレムとなった。
ヴルはしばらく考え込んでから続けた。
「雌ブタたちのそばにはいつも乳を吸う子ブタたちがたくさんおります。そしてある時、その子豚の中に体に縞の入ったものたちがいるのに気づいたのです。それが私の子であることはあきらかです。この縞は数ヶ月して消え、茶系統の毛並みを持ちます。そして乳離れした子らは別の囲いに移され、やがて殺されて肉になるのを待つのです。そのうりぼうたちのあどけない瞳をまともに見ると私はいてもたってもいられなくなって、小屋を逃げ出します。許してくれ、このおれがすべて悪い。おまえたちのような不運なイノブタを作った原因は私にある、と自責します。あいつらを救ってあげられなければ私は一生自分を責め続けることになるだろう。私はかみさんからならいくら責められても耐えていける。しかし自分からの責めには逃げ場を失うのです・・・」
ヴルはここで「ウーグ」と奇妙で異様な声を上げた。その声に自分でもびっくりしたかのように身震いした。
実は私はずいぶん前に、イノブタを食べたことがある。数人の友達と西沢渓谷を上り、その帰りに猪豚料理店に寄って食べた。店に入る前に、そこの飼育小屋をのぞいてみた。すると男性が餌を手ずから与えており、私らを見つけると餌を差し出して、噛まないからこれを与えてみろという。私は遠慮したが仲間の一人が一握りの餌をイノブタに与えるとぱくりとやられた。ただけがはなかった。
イノブタについて不案内な方々のためにもう少し説明を入れます。えっ味ですか?イノブタの脂の鮮度は高く、食べていると顔がほてってきましたよ。
さて、この男性の話だと、イノブタを得るために、飼育者たちはイノシシの雄とブタの雌を掛け合わせます。この反対も試みられたけど、結果はうまくなかったようです。おそらく雄ブタが荒っぽい雌イノシシにあいにく興味を示さなかったのだろうと憶測しています。ちなみにイノブタ同士を掛け合わせてみたが、生まれるのはブタばかりだということです。また野生化していない雄のイノシシを種シシとして飼っている小屋もあるそうでした。私らの訪れたその店の豚小屋では種シシはおらず、そのかわり野生の雄イノシシがジャンプして小屋へ入りやすくしているとのことでした。
そして、イノシシブルはまさにこの後者のパターンに自らはまっていってしまったのでした。彼を父としたイノブタたちはまだ子供の頃に殺されて食肉にされます。そしてこのことがヴルの心を痛めているわけです。
ヴルは言いました。
「自分の子供たちとこの森で遊びながら、ふと豚小屋にいる幼いイノブタたちのことを考えると心が痛みます。彼らは囲いに入れられ遊びざかりのころに食肉にされてしまうのです。その悲運の原因を作っているのはほかならぬおのれだ。そのおのれは、自分の育てた子供たちとのんきに遊んでいる。母イノシシにじゃれつき、私と走って戯れるここの子たちは何の心配もないだろう。
「それにひきかえ、あのイノブタたちはかわいそうだ。幼な心にも、自分たちが大人になる前に屠殺されることを知っているのだろうか。もしそうだとしたら、そのことに恐れをなして眠れない夜を過ごし、眠ったら悪夢にさいなまれていないだろうか。それもおのれの夜遊びのせいだ。そんなとき、自分はまっすぐに湖に向かって走って、飛び込んで死んでしまいたいという衝動に襲われる。ウーグ。
「かみさんにああがみがみ言われていると、ついおとなしいかわいい雌ブタたちのことに気が移ります。あの白いすべすべした肌が無性に恋しくなり、夜になると森を抜けてまた豚小屋に行ってしまうのです。そして鶏の鳴く頃まで飽食と享楽にふけり、帰ってくるとまたかみさんにがみがみやられる。これの繰り返しです。こんなおれはブタだ、いやブタ以下だと自己嫌悪に陥ります。」
ヴルはまた重々しく「ウーグ」とうなると、口をつぐんだ。
そのとき日の出となり、そのまぶしい光に湖面は輝き始めた。私はヴルを慰める言葉もなかった。ただ話を聞いてあげることがせいぜいだと思った。
「そこでお願いだ。一生恩に着るから、あのウリボウたちを逃がすのを手伝ってもらえませんか?」ヴルが哀願するように私を見つめて言った。私の場合それは犯罪になる。人の財産を盗むのだから、窃盗罪に当たる。しかしその財産が生命であって、ほおっておけば殺されるのであればどうだろう。人間の法律には殺人罪というもっとも重い罪があるが、殺生の対象が食肉用動物や実験用動物ならまったく罪にならない。この格差は本当に許されることなのだろうか?法律で許されても倫理で許されないと思うのだ。ここに動物愛護法というのがどのように関わっているのかは知らない。しかしそれを知るまでもなく、殺されようとするものを救うというのは人間の本能にインプットされている。これを人の法律の足かせによって行わないのは自然法に反するだろう。殺されようとする人間を救出するなら英雄、救出されるのが動物なら犯罪者、これはつじつまが合うまい。いや理屈はどうでもいい、「ヴルさん、わかった、手伝いましょう」と私は口走っていた。
こうして私とヴルは、その夜、養豚場のそばで落ち合うことにした。天気予報では大雨になるとのことだったが、むしろ好都合と思われた。
その深夜、雨の中、レインコートに身を包んだ私は、はがねのワイヤを切るための特殊カッター(これまた農業をしていた先住者が残していったもの)を持って約束の場所でヴルに会った。彼が言っていたように門には猪が通れるくらいのフラップドアがあり、我々はここを難なく抜けて中に進入した。
豚小屋には蠅や蚊を捕獲するための蛍光灯がいくつか灯っていた。
その明かりを頼りに、イノブタたちだけが入っている囲いにゆくと、ブルは言った。
「私はおまえたちのお父さんだ、ここからおまえたちを救い出すために来た。ここに残っていると・・・命が危ないんだ」
私は十頭ばかりいたウリボウたちに静かにするようにと言って、カッターで錠のワイヤを切り、扉を開け、彼らを外に出した。あとは門を抜けてひたすら下り坂を走って逃げるだけだ。匂いは雨が流してくれる。
ウリボウの救出は万事成功したかに見えた。しかしイノシシは見た、別の囲いで雌ブタたちの乳をむさぼっている生まれてまもない子豚たちの中にまた新たなウリボウたちが混じっていることを。私はそれに気づいていた。そしてそれを見て見ぬ振りをしていたが、ヴルの視線はその縞の入った子豚たちのほうに釘付けになっていた。
そして「ウーグ」と奇妙な声をあげた。
「おい、そろそろずらからないと犬がやってくるぜ」私は彼をせき立てた。
「犬は顔なじみだ。私を襲わない。あんたはこの子らを連れて先に行っててくれ」イノシシは悲しそうな目を向けて言った。
「じゃあな」
私は、イノブタたちを従えて、門を通り抜けて、来た道を下り始めた。
そのとき、養豚場の中で大きな音がし、けたたましくベルが鳴り始めた。そして犬が吠え始めた。続いて「泥棒だー」という声が聞こえたかと思うと、場内の明かりが一斉に灯った。私はあわてて走り出した。ウリボウたちも走った。しかし一匹の犬がくさりを切ったらしく我々を追いかけてきた。万事休すだ。私はカッターで応戦する構えに入った。
するとその犬はいきなり「きゃいーん」と哀れな鳴き声をあげた。見るとヴルがその犬に追いついて後ろからかみついたらしかった。犬とイノシシの格闘が始まった。
「ひろしさん、私がここで犬たちを止めるから、みんなをつれて逃げてくれ!」ヴルが言った。
ほかの犬も門から出てきた。私は、一目散に坂をかけ下りた、犬たちの悲鳴を後ろに聞きながら。
翌朝、雨が上がって、イノブタたちを連れて森へ行きました。昨夜からの雨のせいで、地面がぬかるんでいたのでイノブタたちはどろんこになったので、湖に連れて行き、きれいに泥を落とし、それからイノシシの集落に赴いた。イノシシたちは、イノブタを見て鼻息を荒くして威嚇したが、私が事情を話して、この子たちがヴルの子供であることを知らせると、みんなは一歩下がるような様子だった。こうしてイノブタたちを、イノシシたちに仲間入りをさせました。しかしヴルはそこにいなかった。かみさんは旦那が帰ってこないのでおろおろしているようだった。
私は彼女にしつこく聞かれたので、彼女や身内に、昨夜のことを詳しく話して聞かせた。かみさんはずいぶん泣き騒いだ。きっと人間に捕まったのだ、放っておくと今に殺されてしまう。夫を取り戻すためにその豚小屋に行く、と言って、私に連れて行ってくれと頼んだ。しかし皆から止められた。私としてもあそこに戻ることはできそうにない。ほかに力になれることがあるなら言ってくださいとしか言えなかった。
「ひろしさん、弟は自業自得です」イノシシの集落の長であるヴルの兄が言った。「弟は小さいころから、思い立ったらなんでも脇目も振らず向こうみずに事を進める性格でした。それでなんども痛い目にあいましたが、今回ばかりはあなたにも迷惑をおかけして申し訳ありません。」
「いえ、私が進んで協力したようなもんでしたから。このあと養豚場が見える裏山に行って様子を見てみます。」
私はイノブタたちのことをよろしく頼み、イノシシの集落を去った。
そしてそれ以来私はヴルを見かけない。もう秋になる・・・
第十一話 赤毛馬の騎士
森でイノブタたちがいじめられているということを聞いたのはもうカナカナの物寂しい鳴き声も聞かれなくなった頃です。風は時に冷たく、半袖で出かけると帰りには鳥肌がたつくらい冷えます。将棋倶楽部で久しぶりに会ったきつねのおっさんに、このことについて詳しく聞くと、次のように話してくれた。
イノシシたちは初めはヴルの子供だというので私が連れていったイノブタたちをちやほやし、自分たちの子供らと同等に扱って何不自由なく過ごせるようにしていたが、ヴルがどうやら人間の手に掛かって殺されたか、捕獲され種シシとして飼われているらしいと知ると、イノブタたちを差別し始めた。具体的には、食物を子供たちに分け与えるとき、最後の順番がイノブタだった。そして何匹かは食べ物にありつけなくなることが普通だった。
ヴルの兄であるイノシシの長は、自分の子供たちをヴルの子供たちなかんずくイノブタたちから遠ざけ始めた。そしてイノブタらは腹違いのイノシシ兄弟たちからも差別を受け始めた。差別される者が差別された腹いせに自分より弱いとみなす者たちを差別するのはよくあることだ。
ヴルはイノブタたちにとっても父親である。初めて来た慣れない森で唯一の頼りとなるはずだった父を失った不運の上に、いじめがのしかかってきた。
イノシシの子たちはイノブタたちにじゃれついているように見せて、いじめて、けがもさせているのだった。十頭いたイノブタたちはどういう訳か七頭に減って、残ったイノブタたちも森に来たときよりかなりやせ細っているという。豚小屋で飼育されていたイノブタたちは自然の中では食物を自分で得るすべを知らない。放っておけばイノブタたちは冬にはみな餓死するだろうときつねのおっさんは言っていた。
ある朝、私は、イノブタたちを飢えから救うために、食料をずっしり詰めたザックを背負って森に入った。荷物が重いので、歩きにくい湖畔を回るのでなくボートに乗って対岸に行った。そこでいくつかの荷物をボートに残して少しでも身軽になって森を進んだ。
そして、イノシシの集落に近づいたときに、馬の荒い鼻息の音を聞いた。見ると全体が赤毛の立派な馬がこちらのほうにやってきている。それに乗っているのはこの世のものとは思えない異様な顔をした人でした。片手に剣を持っています。目が合うと私は身震いし、怖くて、しゃがみこみ、地面に伏して、そちらを見ないようにしました。
その人は馬を私のそばで立ち止まらせ、「恐れることはない、顔を上げなさい」と言った。
「あなたはどなたですか?」とおそるおそる顔を上げながら私は震える声で言った。若いのか年寄りなのかもわからないし、男か女かもわからないし、日本人か外国人かもわからない顔つきです。声にしても、同じです。
その人は言った、「私は、地より平和を奪い、生きとし生けるものに殺し合いをさせる者だ。万物を争わせ、それを秩序とするのが私の責務だ」
「あなたがこの森に来られて、いじめが起きています。両親のいない弱いイノブタたちが犠牲になっています。」私は勇気を奮って言った。
「私が通り過ぎるところには争いが起きる。生きとし生けるものは弱者をねらい、弱者はさらに弱い者をねらう。そしてそれらの弱者は寄り集まりひるがえって強者をねらう。それが秩序だ」
「そのような秩序は悪です。倫理や道徳に反します」私は反論した。
「おまえたちのいう倫理や道徳というものを越えて、秩序がある。」
「あなたは悪魔ですか?」
「悪魔は秩序を乱す。私は秩序を守るのだ。」
「ではあなたは秩序のために争いを起こさせるのですか?」
「秩序のために争いを起こさせる。私のあとから来る者は、死をもたらすであろう。」
私は返す言葉もなく、去っていく馬上のこの人の後ろ姿を見送った。そこに神々しさを見た。
生物は確かに秩序というものの上に存在している。そしてその秩序は絶え間ない弱肉強食による自然淘汰の循環を骨格にして守られている。この循環を止めようとする道徳とか倫理というものは焼け石に水のように非力なものだ。法律もそうだ。秩序の必然の要素として争いやいじめがあるのなら、これを受け入れねばならない。
いじめの根源について私には持論がある。ある種族のペンギンの母親は、卵を二個産む。そして雛がかえり、これらを比べ、より元気のいいほうにえさを与える。そして、他方は放置するか、ひどいときには害を与え、早死にさせる。ここに幼児虐待の起源を見た気がした。こうして比較的強者が生き残るので、種全体にとっても生存力が向上し種保存が保証される。
そうすると、この弱いほうの雛が、この逆境にも関わらず生き延びる方法はおそらく一つしかない。それは自分が死ぬ前に、強い兄弟又は姉妹に怪我をさせて自分より弱者におとしめ自分が比較的強者の立場にのし上がる、あるいは死亡させて、母親から自分以外の選択肢を奪うことだ。ここにいじめの根源を見る。
人間の場合、弱者は一対一ではかなわないから、集団を作り、ターゲットの強者を一人だけに絞り込んでアタックをかける。あるいは強者が幼いうちなら年上の弱者は一人で負かすこともできよう。もしこれが弱者らの生存競争におけるおそらく一つしかない生存のための手段であるなら、それは、善悪などという人工的思想を越えて自然が与える正統なテクニックとしてとらえられるべきであろう。
そのようなことを考えながら、その人と赤毛の馬の姿が視界から去っていくのを見届けた。次に来るのが死をもたらす者なら急いでイノブタたちを助けねばならないと思った。しかしそれは秩序を乱すことになるのだろう。かの人はそれは悪魔のやることだと言った。
イノブタを連れてきたことがこの森の生態系という秩序を乱すだろうことはわかっていた。よりセクシーなイノブタのメスたちはやがてイノシシとの子を多産し、イノブタが増え、やがて純血のイノシシはこの森から駆逐されるかもしれないと思った。そしておそらくそのような秩序の乱れを防ぐべく、この森はあの赤毛馬の騎士を呼んだのだ。早いうちにイノブタたちを駆除しようとしているのだ、イノブタが増えて手に負えなくなる前に・・・
しかし私はとりあえず持ってきた食べ物は飢えたイノブタにあげようと思った。
「しかし」とまた私は思った。かのひとが言ったことは矛盾しているわけではない。これからまたあの美味のイノブタ料理を食べることがないとも限らない私が倫理だの道徳だのという資格もない。その時々のセンチメンタルなかつ瞬間的な独善的偽善行為により自分は動物愛護家だと悦にいるのは情けない。そしてその近視眼的一時的行為が秩序を乱す悪魔のやることだということに反論はできない。イノブタを自然界に繁殖させていいのか?
何よりも私は、あとに来る死をもたらすという者に会うのが怖くなり、イノブタ用の食べ物を詰め込んだザックをそこに残して、森を出ようと急ぎ足で赤毛馬の騎士の行った方向に進んだ。そしてそのときだ、すでに聞き慣れたイノブタの泣き声が聞こえてきた。イノシシの子らに追われてキーキー泣きながら一頭のイノブタが私のほうに走ってきていた。それはやせ細り、顔から血を流し、うしろ足の一本はケガしているのか、宙に浮いたままでいた。
そのとき私の体内に起こった突発的な怒りは抑えることのできないものだった。私は引き返し、ザックを拾い、それを振った、そして何度も投げつけた。
終わったときには、牙の生え始めたイノシシの子たちの死体がいくつか目の前に転がっていた。イノブタは地に横たわって、はあはあ息をしていた。
「ヴル、おまえが何の心配もなく暮らしている、と言っていたおまえの子らをおれは殺してしまったようだ。秩序を乱してしまったな。確かに悪魔のしわざか・・・」
すると森の奥の方の木漏れ日に照らされて一頭の馬が現れた。それは青ざめていた。誰かがそれに乗っている。その人は深い灰色の頭巾を深くかぶり細い鼻だけが見えた。そしてたづなを引いて馬を止め、私にうなずきながら手招きをした。私は逃げた。振り返ることなく急ぎ足で逃げた。馬の落葉を踏み鳴らす足音が聞こえてくる。ツタが手足にからまり、地に落ちた枯れ木がはねて足を打った。わき目もふらずきつねの集落を突っ切ると、赤毛馬の騎士の神々しい後姿が見えてきた。その人は振り返った。私は彼の顔を見まいと無言で走って追い越し、そのまま秘密の湖に飛び込み、泳いで横切り、しずくを落としながら森の出口を目指して転げながら走った。青い竹藪をかがんでくぐり、やっともう二度と来ることもなかろう森から逃げ出すと、スケッチブックをボートに忘れてきたことに気づいた・・・
完




