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魔王の誘い

闇が、まるで生きてるみたいに退いていった。


違う、闇が退いたんじゃない。あいつが闇を臣従させたんだ。


あの男が目の前に立ってる。銀色の長い髪は、この汚い下水道でも少しも汚れてない。血のように赤い目が、闇の中で幽かな光を放ってる。黒い長袍を着て、襟元はだらりと開いて、青白い鎖骨がのぞいてる。


ルシファー。


あの、自分を魔王って名乗った男。


あいつの手はまだ私のあごをつかんでる。無理やり顔を上げさせる。その血のように赤い目が上から下まで私を値踏みする。顔から、首、露出した肩、破れた布がかろうじて隠してる胸、布きれを巻いた太ももまで。


きっと嫌そうな顔するんだろうな。


だって今の私はこんな——体中傷だらけ、血と汚水まみれ、服はボロボロ、髪はぐちゃぐちゃに顔に張り付いてる。まさに人間のクズみたいな姿。


でも、あいつはしなかった。


その目は最後に私の口元で止まった。


そこにはさっき逃げてる時に噛み切った血の跡があった。


身をかがめて、舌を出した。その血の跡をそっと舐めとった。


温かい感触が口元から伝わる。全身が固まった。


体を起こして、目を閉じる。まるで美味しいものを味わうみたいに。


「いい匂いだ……」


低く言う。


「これは竜の匂い……人間の匂い……死の匂い……それと……」


目を開けて私を見る。


「恐怖の匂い。絶望の匂い。それから……怨恨の匂い。」


言い当てられた。


私、恐怖してる。絶望してる。もっと、怨恨してる。


「一条煌はお前を竜の生贄に捧げた。お前は生き延びた。」彼は言う。まるで事実を淡々と述べるように。「ここに戻ってきて、あいつに問い詰めようとした。そしたらあいつは英雄の栄光を享受してるのを見た。聖光教会に見つかって、魔王候補として追われる身になった。ここに逃げてきた。この汚い下水道に隠れてる。まるで捨てられた犬みたいに。」


どの言葉も刃みたいに正確に私の痛いとこをえぐる。


「憎いか?」


彼は問う。


黙る。


「怨むか?」


やっぱり問う。


唇を噛む。


「復讐したいか?」


最後の質問には、彼の声にかすかな笑みが混じってた。


顔を上げる。その血のように赤い目を見る。


「あんた、助けてくれるの?」


言った瞬間、後悔した。これで認めたことになる。復讐したいって。助けが必要だって、認めたことになる。


でも彼は笑った。


その笑顔は誰の心臓も一瞬止まる——その危険な意味を無視すれば、だけど。


で、彼はまったく予想外の行動を取った。


片膝をついた。


この汚い下水道で。この足首まで汚水につかる場所で。この全身貴族のオーラを放ってる男が、私の前に片膝をついた。


「俺の名は、ルシファー。」彼は言った。まるで疑いようのない事実を宣言するように。「魔族、七つの大罪のうち『傲慢』を司る君主だ。」


私に手を差し出した。


「俺と来い。」


彼は言う。


「お前を傷つけた奴らは、全員殺してやる。」


その声は低くて危険だ。


「お前を捧げたあの男。お前を追いかけたあいつら。『聖王様、万歳』って歓声をあげてたあの連中。この世界のすべての人間。お前が望めば、全部殺してやる。」


呼吸が止まった。


「代わりに」


彼は顔を上げる。血のように赤い目に危険な光が燃え上がってる。


「お前の命も、魂も、死後の世界も、全部俺にくれ。」


下水道は静まり返ってた。


ただ時々頭上から水滴の落ちる音がする。ぽたん、ぽたん。


目の前で片膝をつくこの男を見ながら、頭の中はぐちゃぐちゃ。


これ、どういう展開?


さっきまで追われてて、この汚くて臭い下水道に隠れて死を待ってたのに。今、自分を魔王って名乗る男が目の前にひざまずいて、全部殺してやるって言ってる。条件は私があいつのものになること?


これ、夢?


それとも、実はもう聖光で焼かれて死んでて、ここは死後の世界?


「なあ……」やっと口を開いた。「なんで私を助けるの?」


ルシファーは首をかしげた。その仕草、ちょっとかわいかった。


「なんで?」


考え込む。


「面白いから。」


「お前はとても美味しそうだから。」また言う。唇を舐める。「お前の匂いはこの数百年で一番いい匂いだ。無念、怨恨、絶望、怒り、それから生きようとする執念——まるで手の込んだごちそうだ。」


思わず半歩後ずさる。でもあごをつかむ手は動かない。


「それと」


彼の表情が急に真剣になった。その血のように赤い目がまっすぐに私を見る。まるで何か珍しい宝物を見るみたいに。


「お前はとてもきれいだから。」


「それ、冗談?」


今の私のこの姿、どこが「きれい」なんだ?


でも彼は首を振った。


「お前にはわからない。」彼は言う。「人間の審美眼はいつも皮相にとどまってる。肌が白いかどうか。目が大きいかどうか。スタイルがいいかどうか。でも俺にとって本当に美しいのは魂の色だ。」


手を伸ばす。指がそっと私の頬を撫でる。


「お前の魂は燃えてる。」


声が低くなる。まるで何か神聖な誓いを立てるみたいに。


「一番愛した人に裏切られても、それでも心は折れてない。世界中に追われても、それでも生きたいと願ってる。絶体絶命のピンチに追い込まれても、それでも諦めてない。」


指が私の目尻で止まる。


「そんな魂はどんな天使よりも美しい。」


この男……本気?


「だから」


手を引っ込める。また片膝をつく姿勢に戻る。その表情は真剣そのもの。まるでプロポーズみたいに。


「佐々木すみれ。」


私の名前を呼んだ。


「俺のモノになれ。」


その目はまっすぐに私を見てる。その中には病的なほどの執着心が燃えてる。


「お前の命も、魂も、死後の世界も、全部俺にくれ。代わりに俺はお前を守り、愛で、すべての望みを叶えよう——俺から離れたい、という願い以外は。」


何、これ?

これ、何てどっかの社長令嬢モノのシチュエーション?


口を開きかけた。何か言おうとした。でも言葉が出てこない。


その時、頭上から騒がしい声が聞こえた。


「下水道の入り口、ここだ!」

「あの魔物、絶対下に隠れてる!」

「聖光術を放て!下を照らせ!」


白い光がマンホールの隙間から差し込んで、下水道の一部を照らし出した。


追っ手が来た。


ルシファーは顔も上げない。ただ私を見て、答えを待ってる。


「時間がない。」彼は言う。「お前の選択は——俺と来るか、それともあいつらに捕まって聖光で浄化されるかだ。」


マンホールが開けられた。数人の白いローブの人影が現れる。


「いたぞ!あそこだ!」

「男もいる!あいつも魔物か!」

「まとめて浄化しろ!」


聖光が集まり始める。まばゆい光が下水道に満ちようとしてる。今にも落ちようとしてる。


ルシファーはそれでも動かない。


ただ私を見てる。血のように赤い目にかすかな笑みを浮かべて。


「早く選べ。」


彼は言う。


「お前の命は俺の手の中。お前の魂は俺の目の前。お前の未来は……」


手を差し出す。


「俺の前に、ある。」


その手を見た。細長くて、青白くて、完璧すぎて、人間の手とは思えない手。


それから顔を上げて、頭上から今にも落ちてこようとしてる聖光を見た。


目を閉じて、深く息を吸い込む——


不死者に呼吸が必要かわかんないけど。


で、手を伸ばした。


私の手は血の汚れでべっとり。傷だらけで、まだかすかに震えてる。


それが彼の手を握った。


彼の手は冷たい。でもしっかりしてる。


その瞬間、ルシファーの笑顔が咲いた。


それは満足そうで、嬉しそうで、ちょっと子供っぽくさえある笑顔だった。


「よし。」


彼は言った。


で、聖光が落ちた。


まばゆい白い光がすべてを飲み込んだ。

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