妃論争
やっとの思いであの魔族たちを追い出した。部屋の中はようやく静かになった。
残ったのは私とルシファーだけ。
彼は椅子に座っている。私はベッドに横たわっている。目と目が合う。
「あの……」
口を開く。
「さっきのあの人たちの言うこと、あんまり気にしないでね。」
「何を?」
「だから……妃殿下とか、そういうの……」
「なぜ気にしなきゃいけないんだ?」
「だって……」
少し間を置く。
「私、妃殿下じゃないし。」
彼は私を見る。何も言わない。
でも、その目つきがちょっと気まずい。
「何、見てるの?」
「あることを考えてた。」
「何を?」
「お前、まさか逃げようとしてるんじゃないか?」
「逃げる?何から?」
彼は立ち上がる。ベッドのところまで歩いてくる。見下ろすように私を見る。
「お前は、俺にキスした。」
私の顔が一瞬で熱くなった。
「あれは額だ!」
「額でもキスだ。」
「違う!」
「どこが違う?」
「だ、だから、違うものは違う!」
「魔族のルールじゃ、額へのキスは求婚だ。」
「それは魔族のルールでしょ!私は人間だ!」
「お前は不死者だ。」
言葉が詰まった。
彼は薬の茶碗をバンとナイトテーブルに置く。
「で、お前は逃げようとしてるのか?」
「逃げてない!」
「じゃあ、お前は求婚したことを認めるのか?」
「してない!」
「じゃあ、なぜキスしたんだ?」
その質問に、私は口を閉ざした。
なぜって?
あの時、もう彼が死ぬと思ったから。彼に生きていてほしかったから。彼を失いたくなかったから——そんな言葉が喉まで出かかっては引っ込む。
ルシファーは答えを待たなかった。立ち上がり、窓際へ歩いていく。背を向けたまま、低い声で言った。
「俺な、あの時、本当に死ぬかと思ったんだ。」
その声は、今まで聞いたことのない響きだった。傲慢さも、からかいも、危険な甘さもない。ただ——人間みたいな、脆さ。
「闇の勇者の呪いが体を蝕んでいく感覚の中で、俺が考えてたのはな」
彼は振り返らない。窓の外の三つの月を見つめたまま。
「『このバカ、また無茶するんじゃないか』って、それだけだ。」
私はベッドに座ったまま、彼の背中を見つめた。銀色の長い髪が、月明かりに淡く光っている。
「ルシファー……」
「何だ?」
「こっち向いて。」
彼はしばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと振り返る。
その顔は——意外なことに——笑っていた。いつものからかうような笑顔じゃない。もっと小さな、子供みたいな笑顔。
「お前な、知ってるか?」
「何を?」
「さっき、お前が起きるまで、ずっと手握ってたんだぞ。」
私の顔が熱くなる。
「な、なんで……」
「目ェ覚ました時、お前の顔が真っ先に見たいと思ったからだ。」
彼は歩いてきて、ベッドの脇に腰を下ろす。さっきまでの緊張感はどこへやら、いつもの傲慢な魔王に戻っていた。でも、その目はまだ月明かりの柔らかさを残している。
「で、どうなんだ?」
「何が?」
「俺の質問、まだ答えてもらってないぞ。なぜキスしたんだ?」
逃げられない。彼は真剣に答えを待っている。
私は深く息を吸った——不死者に呼吸は必要かどうか、この際どうでもいい。
「だって……」
「だって?」
「あんたを失いたくなかったからだよ!」
言ってしまった。顔から火が出そうだ。
ルシファーは一瞬、目を見開いた。そして——
突然、笑い出した。
「あはははは!」
「な、何がおかしいんだ!」
「いや……」彼は笑いをこらえながら、手を伸ばして私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。「お前のそういうところだよ、まったく。」
「ど、どういうところだ!」
「素直になれないくせに、急にど真ん中ストレートをぶち込んでくるところ。」
言葉が詰まる。図星だからだ。
彼は手を引っ込め、立ち上がる。ドアのところまで歩いて、振り返った。
「すみれ。」
「ん?」
「俺もだ。」
「何が?」
「お前を失いたくない。それだけだ。」
ドアが閉まった。
私はベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
あの魔王め。
最後の最後で、そんなこと言うなんて。




