第二章 私のいない世界へ、ようこそ
あの、自分を魔王って名乗った男は、そのぶっ飛んだセリフを言い終わった後、空気の中に消えた。
来た時と同じように、突然に。
私はその場に立ったまま、しばらくぼんやりした。頭の中はぐちゃぐちゃ。魔族の君主だの、七つの大罪の傲慢だの、「俺のモノになれ」だの——何がなんだかさっぱりわかんない。
今、私が一番すべきなのは、一条煌を見つけて、なんで私にこんなことをしたのか、はっきり聞くことだ。
そう、はっきりさせなきゃ。
深呼吸して——不死者に呼吸って必要かどうかわかんないけど——谷の外に向かって歩き出した。
数歩歩いて、気づいた。深刻な問題に直面してることに。
服、着てない。
まあ完全に裸ってわけじゃない。竜の鱗が変化したあの黒い膜が、大事なとこは隠してくれてる。でもあれ、どう見ても何か変なボディスーツにしか見えない。しかも、コミケで注目されるタイプの。今の私の姿は、まるで低予算の特撮映画の現場から逃げ出してきたエキストラみたいだ。
さらに問題なのは、体中竜の血まみれってこと。
あの黒くてどろどろで、かすかに生臭い液体は、乾いて皮膚にかさぶたみたいにこびりついてる。髪はもっとひどい。一筋一筋くっついて、触るとまるでワカメ。
こんな姿で人間の町に入ったら、絶対に化け物扱いされるよね?
違う、今の私は、元から化け物か。
苦笑いしながら歩き続ける。三十分くらい歩いて、ようやく谷の出口の近くで小さな小川を見つけた。
水は澄んでて、底まで見える。青い空と白い雲が映ってる。
迷わず飛び込んだ。
冷たい水が体を洗い流す。竜の血や汚れを流してくれる。必死に皮膚をこする。あの黒い膜が剥がれそうになるまで。でもあの膜は、どうやら皮膚と一体化してて、剥がれない。水に濡れると、さらに体にフィットして、質感も柔らかくなる。まるでぴったりした黒いインナーみたい。
まあ、いっか。
体を洗い終わって、髪も丁寧に洗った——櫛なんてないから、指でゆっくりもつれをほどきながら。それから岸に這い上がって、岩の上に座ってぼんやりした。
日差しが暖かくて体に当たる。小鳥が枝の上でさえずる。小川はさらさらと流れる。この風景は静かで、そして美しい。さっきまでの出来事がただの悪夢だったみたいに。
でも自分の手の甲にぼんやり浮かんだあの黒い紋様を見ると、それが夢じゃないってわかる。
ぼんやりしてる時、目の端に何かが映った。
小川のそばの茂みに、何着かの服が干してある。
正確には粗末な布の服だ。どっかの農家の奥さんが洗濯して、一時的に干して、他の用事に行った、って感じ。
三秒迷った。
そして人生初の窃盗をやらかした。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、絶対に返すから、誓うから!」ぶつぶつ言いながら、素早くその服を着た——粗末な布の上着と長いスカート。みすぼらしいけど、あの黒い膜よりはマシ。服はちょっと大きいけど、ベルトをきつく締めればなんとかなる。
着替え終わって、また歩き出した。
山を二つ越えて、森を抜けて、ようやく夕方近くに、遠くに町が見えた。
典型的なヨーロッパ風の町だ。高い城壁、尖った塔、城門の前は人でいっぱい。城壁には青い旗がはためいてて、金色の太陽の模様が刺繍してある。
そこだ。
足を速めた。




