死と覚醒
痛い。
ただの痛みじゃない。体中の細胞が、焼けてる。溶けてる。そんな痛み。
竜の胃酸が、私を溶かしてる。
自分の皮膚が溶ける感触、筋肉がはがれる感触、骨が柔らかくなる感触が、はっきりわかる。
周りは、どろどろの液体と、半分溶けた残骸。闇の中に、まだ完全には溶けてない骨や、私と同じ……
かつての生贄たちが、ぼんやり見える。
これが、死?
意識が、少しずつぼやける。痛みが、少しずつ麻痺する。
お母さんの味噌汁のこと、思い出した。
妹がリモコンを取り合う時の、あのふてくされた顔。
図書館でこっそり見てた、一条煌の横顔。
一条煌。
あの、私が二年間、片想いしてた人。
あの優しい目で私を見て、あのきれいな声で「ごめん」って言って、
それで、私を竜の口に、放り込んだ。
どうして?
なんで、私を選んだの?
なんで、私が?
なんで——
【死にたくないの?】
誰?
【復讐、したいんでしょ?】
誰が、喋ってるの?
闇の中で、無数の目が見えた。幽かな、緑色の目。
私の周りに浮かんでる、この残骸の中から。
ああ、そうか。
こいつらは、この竜に食べられた、すべての命が残した、執念だ。
消えきれない魂だ。安らかに眠れない、怨みだ。
【私たちも……死にたくなかった……】
【食べられた時……痛かった……】
【人間……お前も、生贄か……】
【可哀想に……私と同じ……】
喋ってる。泣いてる。怨んでる。
【でも、お前は、違える。】
一つの声が、特に鮮明に聞こえた。女の声だ。
優しいけど、底なしの悲しみを帯びた声。
【私は、千年前に捧げられた魔女。あの男も……
愛してるって言って、その手で、私をここに突き落とした。】
彼女の魂は、他のよりずっと明るくて、私の前に漂って、手を差し伸べた
——ただの幻の光だけど、その触れ合いが、感じられた。
【私は竜の腹の中で、七日間生き延びた。
自分の血で、あいつの心臓に、呪いを刻んだ。
でも、最後は、やっぱり持ちこたえられなかった。でも、お前は……】
彼女は私を見て、口元に、かすかな笑みを浮かべる。
【お前には『素質』がある。死霊術士になる素質が。
魂を喰らい、死者を操り、怨みを糧にし、執念を刃とする。】
他の魂たちも、ざわつき始めた。
【私たちを、喰え。】
【私たちの執念を、喰え。】
【そして、私たちの代わりに……あいつを、殺せ!】
無数の声が、奔流となって、私の頭の中に流れ込む。
体の奥で、何かが目覚めるのを感じる。
それは死よりも深い闇で、怨みよりも熱い炎だった。
私の体はもう溶けてる。でも、意識は、かつてないほど、はっきりしてる。
竜の構造が「見えた」。
どくん、どくん、脈打つ巨大な心臓が見えた。
心臓に刻まれた、ぼんやりとした傷跡が
——それは千年前の魔女が遺した、呪いの痕。
【今だ!】
動いた。
違う、私の体じゃない——私の体は、もう存在しない。
私の意識、私の魂が、無数の死者の怨念を巻き込んで、あの心臓に向かって、突っ込んだ。
竜が、天地を揺るがす咆哮をあげた。
感じたんだ。体内で起きた異変を。
でも、もう遅い。
私の意識が、心臓にぶつかった、その瞬間。
あいつの「すべて」が見えた——記憶が、力が、魂が。
混沌魔竜王。三千年生きて、無数の命を喰らってきた。
まさか自分が、喰ったはずの「餌」に、喰い返される日が来るとは、夢にも思ってなかっただろう。
【まさか——】
あいつの声に、初めて、恐怖が混じった。
【ただの人間ごときが——】
そう、ただの人間。
でもね、人間ってね、死ぬ間際になると、どんな化け物よりも、恐ろしくなるんだよ。
私は口を開いた——口なんてないけど——喰らい始めた。
魂を喰らう。力を喰らう。三千年の記憶を、呪いを喰らう。
かつてあいつに喰われた命たちが、みんな耳元で、歓声をあげてる。みんな私の応援団だ。
「私が、食ってやる——!」
竜王は、もがいた。絶叫した。許しを乞うた。
知らない。
でも、その記憶を喰ってる途中、一瞬、走馬灯のように映像が過ぎった——
それは、一冊の本だった。
青い光を放つ本。
一条煌が屋上で開いたあの本と、まったく同じ。
でも、その映像の中で、ページに書いてあった——
『生贄生存率:97.3%』
『聖処女覚醒確認』
『座標:混沌魔竜心臓』
その映像は、一秒も続かなかった。
竜が喰った記憶?
それとも——
考えてる暇なんて、なかった。
だって、次の瞬間、もう私は、竜の腹の中には、いなかったんだ。
骨の山の上に、横たわってた。周りには、竜の巨大な死体。
手を、上げた。
ある。
違う、新しい手があった。
前と同じ形。でも、皮膚の上に、ぼんやりと浮かぶ、黒い紋様。爪は、暗い紅色に変わってる。
顔を触った。顔もある。胸を触った。
心臓が——
ない。
心臓の音が、しない。
私、何になったの?
自分の、水たまりに映る影を見た
——竜の血が溜まってできた水たまりに、今の私が映ってる。
やっぱり、佐々木すみれ。顔は、前と同じ。
でも、目は暗い金色になってて、瞳孔が縦長になってる。
肌は、前より白くなったみたい。
黒い長い髪は、竜の血でべっとりして、顔や肩に張り付いてる。
服は、もうとっくにない。
代わりに、薄い、何の素材かわからない黒いものが、体に張り付いてる。
竜の鱗が変化した膜みたいな、そんなやつが、どうにか、大事なとこだけ隠してる。
立とうとした。足が震える。でも、立った。
足元は、竜の死体。周りは、無数の骸骨。空気は、死の匂いで満ちてる。
生き延びた。
私……
待って。急に、あることを思い出した。
周りを見回す。洞窟の出口が見えた。外は、光ってる。昼だ。
疲れ切った体を、引きずって、一歩ずつ、出口に向かう。
太陽の光が、顔に当たった、その瞬間。泣きそうになった
——不死者って、泣けるのかどうか知らないけど。
生きてるって、感じる。本当に、いい。
で、自分の今の姿を、改めて見てみた。
体中、竜の血。服はボロボロ
——いや、これ、服じゃない。
髪は、鳥の巣みたいにぐちゃぐちゃ。
顔も体中、血の汚れと、何かの液体でべとべと。
新しい体だけど、疲れはそのまま。体中、痛い。
一歩、前に進もうとしたら、足ががくっとして、転びそうになった。
こんな状態で、まずやるべきことは、どこかで体を洗って、それから、服を探して、それから——
待って。
急に、固まった。
頭の中に、恐ろしい考えが、よぎった。
今、何月何日?今日は、何曜日?こんな姿で、まだ、授業に出られるの?
ちょっと待って待って、もっと根本的な問題
——まだ、地球に帰れるの?
異世界と地球の時間の流れ、同じなの?
今月の出欠、もうヤバかったのに、先週も専門の授業、
一回サボっちゃったし、もしこれ以上、欠席が増えたら——
「終わった……」
近くの岩に手をついて、つぶやいた。
「終わった終わった終わった終わった……」
私の声が、がらんとした谷に、こだました。
見たこともない鳥の群れが、驚いて飛び立った。
「今月の出欠……これ、留年じゃね?」
普通の女子大生としては、暗恋してた奴に生贄に捧げられて、
竜に食べられて、竜を逆に殺して、不死者になった、
この一連のぶっ飛んだ出来事を経験した後、
真っ先に頭に浮かんだのが、よりによって——
やべえ、単位、やべえ。
もうすぐヤバいGPAのために、自分の身を案じてたその時。
後ろから、声がした。
それは、軽い笑い声だった。
低くて、ハスキーで、ちょっとだるそうな、嘲るような笑い声。
背筋が、凍りついた。
誰か——いや、何かが——私の後ろにいる。
それに、物音一つ立てずに、いつの間にか後ろに現れるなんて、絶対に、普通の人間じゃない。
ゆっくりと、振り返った。
そして、見た。
そこには、一人の男が、立っていた。
いや、あれがただの人間の男なわけがない。
竜の死体の横に立って、銀色の長い髪を風にそっと揺らしながら、
血のように赤い目で、面白そうに私を見つめてる。
その顔立ちは、精巧すぎて、まるで、狂気の芸術家が一生をかけて彫り上げた傑作みたいだった。
黒い長袍を着て、襟元はだらりと開いて、青白くて、
でも線のくっきりした鎖骨がのぞいてる。
ただ、そこに立ってるだけなのに、世界のすべてが、
あいつの足元にひれ伏すべきだ
——そんな錯覚を、与えられた。
「面白い……」
口を開いた。声は、だるそうなのに、それでいて、
絶対に逆らえないような威圧感が、にじみ出てる。
「混沌魔竜王が、死んだ……一人の人間の娘に、喰い殺されたか……」
歩いてくる。一歩一歩が、まるで雲の上を歩いてるみたいに、
ふわふわしてるのに、それでいて、体を動けなくさせる、圧倒的なプレッシャーがある。
本能的に、後ろに下がりたかった。でも、足が、言うことを聞かない。
目の前まで、来た。止まった。
私より、頭一つ分くらい、高い。顔を上げなきゃ、表情が見えない。
見下ろしてる。その血のように赤い目に、ボロボロの私が、映ってる。
で、手を、伸ばしてきた。
無意識に、目を閉じた。
でも、その指はただ、そっと、私の頬を撫でただけ。
竜の血の一滴を、拭い取った。
その指を、唇に持っていって、舌を出して、舐めた。
その動作が、優雅で、そして、邪悪だった。
「いい匂いだ……」
低く言う。その声は、まるでチェロの低音部分。
危険な魅力を帯びてる。
「これは、竜の匂い……死の匂い……それと……」
顔を、近づける。息がかかりそうなほど近くまで。
「俺のものになる……人間の……匂いだ。」
固まった。
体を起こして、まるで獲物を値踏みするように、私を見る。そして、彼は、笑った。
その笑顔は、どんな少女でも、ときめかせるには十分だった
——背筋が凍るような、あの独占欲のこもった目を、無視すれば、だけど。
「俺の名は、ルシファー。」
彼は言った。まるで、絶対に疑いようのない事実を、宣言するような口調で。
「魔族、七つの大罪のうち『傲慢』を司る、君主だ。」
私に、手を差し出した——さっき、私の血を舐めた、その手。
「お前は、どんな天使よりも、美しい。」
彼は、片膝をついた。私の前で。
あの、すべてを見下す傲慢な態度のままで、まったく身分に合わない、そんな行動を取った——
臣従のポーズだ。
「俺のモノになれ。」
顔を上げる。血のように赤い目に、危険な光が、燃え上がってる。
「お前の命も、魂も、死後の世界も、全部、俺にくれ。代わりに……」
口元に、笑みを浮かべる。
「お前を傷つけた奴らは、全員、殺してやる。」
その瞬間、風が谷を吹き抜けた。
彼の銀色の髪と、私の黒い髪が、舞い上がって、絡み合う。
目の前の、自分を魔王と名乗るこの男を見ながら、頭の中は、ただ一つ——
今日、まだ、どれだけぶっ飛んだことが起きれば、気が済むんだよ?




