帰路
帰り道は来る時よりずっと長く感じられた。
体中傷だらけで、一歩歩くたびに刃の上を、歩いてるみたいだった。胸の矢はまだ刺さったまま。抜くのが怖かった。抜いたら血が止まらなくなりそうで。
灰燼平原を抜けた時ベルゼブブが見えた。
彼は、一隊の魔族を連れて、焦った様子で、あたりを、見回してる。私の姿を見つけた瞬間、彼の顔がさっと青ざめた。
「すみれちゃん!」
駆け寄って、ふらふらの私を支える。
「なんで、そんなに傷だらけなんだ?あの女公爵がやったのか?」
「うん……でも、私も、あの女をぶん殴ったし……」
「よく、笑ってられるな!」
彼は何も言わずに、私を抱き上げた——あのまん丸い体で、本当に私を抱き上げたんだ。
「城に戻る!急げ!」
その後はあまり覚えてない。
ただ、ずっと揺れてたこと。耳元でベルゼブブの罵る声が、聞こえてたこと——バカって命知らずって、次にこんなことしたら、もう美味しいもの作らないからな、って。
城の門が見えた。一人の人影が、門から飛び出してくるのが、見えた。
銀色の長い髪。血のように赤い目。黒い長袍。
ルシファーだ。
彼の顔色、見たことがなかった。
それは、怒りじゃない。心配でもない。ただ——
恐怖だ。
あの自分を最強と名乗る魔王。あの誰も眼中に入れない男。その顔に今浮かんでるのは、恐怖だ。
「すみれ」
駆け寄って、ベルゼブブから、私を、抱き取る。
彼の手が、震えてる。
「どうして、こんな……」
「大丈夫。」無理やり、笑う。「死なないから。」
彼は、私を見る。その血のように赤い目に、無数の感情が、走り抜ける。
最後に、それらの感情は全部一つになった——
激怒だ。
「人間め。」
その声は、氷のように、冷たい。
「皆殺しだ。全員。」
私をベルゼブブに預ける。振り返って行こうとする。
手を、伸ばす。彼の袖を、つかんだ。
「待って……」
足を、止める。振り返らない。
「離せ。」
「離さない……」
「離せ。」
その声は、もっと、冷たくなる。
「あの連中を、皆殺しに、行くんだ。あの女公爵も、あの兵士たちも、それから、あの一条煌って奴も——全員だ。」
「一人で、七人は、無理だよ……」
「それでも、行く。」
私の手を、振りほどく。また、歩き出そうとする。
焦った。
最後の力を振り絞って、ベルゼブブの腕から、飛び降りる。よろめきながら、駆け寄って、後ろから彼の腰に抱きついた。
彼の体が、硬直した。
「行かないで……」
顔を背中に押し付ける。声はかすれて、自分でも聞こえないくらい小さい。
「ここに、いて……」
彼はそこに立ったまま、動かない。
周りは、水を打ったように、静まり返ってる。
ベルゼブブ、アスモデウス、ベルフェゴール、それに、遠巻きに、見てる魔族たちも、みんな、息を、殺してる。
「離せ。」
彼の声が、聞こえた。でも、さっきまでの冷たさはない。代わりに——
何か、変な、感じの、声。
「離さない。」
「離せって、言ってる!」
「離さない!」
「離せ!」
「行くなら、離さない!」
「お前」
振り返る。私と、向き合う。
で、見えた——
彼の耳が、赤くなってる。
耳だけじゃない。首まで、真っ赤だ。
その血のように赤い目が、私をにらんでる。でも、さっきまでの殺気は完全に消えてる。代わりに、まるでしっぽを踏まれた猫みたいな表情。
「お前……自分が何をしてるか、わかってるのか?」
「わかってる。」
「わかってて、離さないのか?」
「離したら、行っちゃうから。」
「俺は……」
「行ったら、もしあんたがケガしたら、どうすんの?もし勝てなかったら、どうすんの?もし……」
言葉が、続かない。
言いたいことが、なくなったからじゃない。急に、気づいたからだ——
私、彼のことを、心配してる。
この魔王のことを、心配してるんだ。
ルシファーは、驚いた。
私を見る。長い間、見る。
で、彼は、ため息を、ついた。
「行かない。」
「本当?」
「本当。」
やっと、手を離した。
離した瞬間。足ががくんとなった。そのまま倒れそうに。
彼が、抱きとめた。
「バカ。」
その声はとても小さかった。ちょっとした呆れが、混じってる。
「そんなに、ケガしといて、無茶するな。」
「あんたが、無茶するからだよ……」
「まだ、言い返すのか?」
彼は私を横抱きに抱え上げる。大股で、城の中に歩いていく。
後ろからこらえきれない、歓声が、聞こえた。
「陛下が、抱かれた!」
「違う、陛下が、抱かれたんだ!」
「妃殿下、素敵!」
「うるさい!」
ルシファーは振り返りもせず叫んだ。その声で一瞬で静かになった。
彼の腕の中に、横たわる。彼の横顔を、見る。
その顔にはまださっきの赤みが残ってる。
急に、笑いたくなった。
「何が、おかしい?」
「別に。」
「その顔、明らかに、笑ってる顔だ。」
「本当に、別に。」
「言え。」
「言わない。」
にらまれた。でも、それ以上追及はしなかった。
彼の胸に寄り添う。目を閉じる。
暖かい。
部屋に、抱き込まれた。ベッドに、下ろされる。
「皆、出て行け。」ルシファーが言う。
「陛下、彼女の傷が」
「出て行け、と、言った。」
ベルゼブブたちは、顔を見合わせた。黙って、部屋を、出て行く。
ドアが、閉まった。
部屋には、私と、彼だけ。
彼は、ベッドの端に、立ったまま、私を見てる。
「服、脱げ。」
「はあ!?」
「服、脱げ。」もう一度繰り返す。その表情は、冗談を言ってるようには見えなかった。「傷を、手当てする。」
「わ、私、自分でできる!」
「背中の傷も、自分でできるのか?」
できない。
黙る。
彼はしばらく待ってた。でも、私が動かないからため息をついた。
「食いやしないよ。」
「で、でも……」
「でも何だ?」
「でも……」
うつむく。
彼は、私を見る。急に、笑った。
「照れてるのか?」
「照れてない!」
「顔、赤いぞ。」
「ケガの、せいだ!」
「ふうん、そうか?」
その口調には、明らかなからかうニュアンスが、混じってる。
顔を上げる。反論しようとした。でも、彼は、もう傷薬と包帯の準備を始めてた。
その動作は、とても手慣れてる。何度もやったことがあるみたい。
「あんた……よく人に薬を塗ってやるの?」
「うん。」
「誰に?」
「部下に。昔、戦争でよくケガ人が出たから。」
彼は言いながら、いろんな瓶やら、缶やらを、ナイトテーブルに並べる。
「よし、脱げ。」
歯を食いしばる。体を向こうに向ける。服の紐を解く。
上着が、滑り落ちる。次にインナーも。
最後に、薄いキャミソールだけが残った。
彼の視線が、背中に当たるのを感じる。
で、彼の手が傷口に触れた。
その瞬間、全身が震えた。
痛いからじゃない。
彼の指が——
震えてるからだ。
あの誇り高き魔王。あの誰も怖がらない男。今、ただ、私の傷口に触れてるだけで、指が震えてる。
「痛いか?」
「平気よ……」
「嘘つけ。」
薬を指に取る。塗り始めた。
その動作はとても優しかった。まるで壊れやすい大切なものを、扱うみたいに優しい。
でも、彼の手は相変わらず震えてる。
「何で、震えてるの?」思わず訊いた。
後ろでしばらく沈黙。
「痛がらせるのが、怖いんだ。」
何も、言えなかった。
彼は、塗り続ける。一つ一つの傷を丁寧に塗っていく。聖光で、焼かれたところは薬がしみる。でも、彼は塗るたびにそっと息を吹きかける。
まるで、子供の頃、ケガをするとお母さんがしてくれたみたいに。
「あんた……よく、人に、薬を、塗ってやるんだよね?」
「うん。」
「じゃあ、なんでまだ震えてるの?」
答えない。
振り返って、彼の顔を見ようとした。
でも、動いた瞬間。肩を押さえられた。
「動くな。」
仕方なく、また背中を向ける。
「だって」
その声は、とても小さかった。
「人に薬を塗るのと、お前に薬を塗るのは違うからだ。」
「どこが違うの?」
「人が、ケガしても惜しいのは戦力だ。でも、お前がケガすると惜しいのは」
言葉を、切った。
ずっと待った。でも、彼はそれ以上何も言わなかった。
でも、彼の手はもう震えてなかった。
傷の手当てが、終わった。彼は包帯を取り出す。
包帯が一回、また一回、巻かれていく。背中から胸の前へ。胸の前からまた背中へ。
胸の前を、通るたびに彼の手がちょっと止まる。
彼の息が、耳元で、感じられる。
「よし。」彼が言う。声はちょっと掠れてる。
下を向く——
何、これ?
包帯が、めちゃくちゃだ。きついところもあれば、ゆるいところもある。それに、明らかに間違った方向に巻かれてて、変な交差ができてる。
「これが、包帯?」
彼は、黙ってる。
振り返る。彼の表情を、見る。
その顔にはまだ赤みが残ってる。今、自分の「傑作」を見つめて複雑な表情。
「初めて人にこういうのやった。」苦しそうに言う。
「さっき、よく部下にやってるって言ったじゃん?」
「薬を塗るのと包帯を巻くのは別だ。」
つまり薬塗りは慣れてるけど、包帯は初めて?
思わず笑った。
「何がおかしい?」
「別に。」
「また別にか?」
「本当に別に。」
にらむ。私も彼を見る。
で、彼はため息をついた。手を伸ばす。優しく私の頭を撫でる。
「次からもうこういうことするなよ。」
「こういうこと?」
「一人で死にに行くな。」
「死にに行ったんじゃない。勝ったんだから。」
「こんなに傷だらけになって?」
「それでも勝ちは勝ちだ。」
私を見る。その目は、複雑だ。
最後に、彼は、立ち上がる。
「ゆっくり、休め。」
振り返って、行こうとする。
手を伸ばす。彼の袖をつかんだ。
足を、止める。
「どうした?」
「あんたの手」
言った。
「暖かいんだね。」
彼は、驚いた。
続けて、言う。「ずっと魔族はみんな冷たいんだと思ってた。アスモデウスの手は、冷たいし、ベルゼブブの手も冷たい。ベルフェゴールはもっと冷たい。でも、あんたの手は」
顔を上げる。彼の背中を見る。
「暖かい。」
彼は、振り返らない。
でも、その手が逆に私の手を握った。
「バカ。」
その声はとても小さかった。
「そんなこと、簡単に、言うな。」
「どうして?」
「だって」
少し、間を、置いた。
「もっとお前に優しくしたくなるから。」
手を離した。部屋を出て行く。
ドアが、閉まった。
そのドアを、見る。そして握られた自分の手を見る。
その手にはまだ彼の手のひらの、温もりが残ってる。
その手を頬に当てる。目を閉じる。
暖かい。




