異世界と生贄
本当に、私、飛んでる。
いや、正確に言うと、カラフルで不気味なトンネルの中を、すごい勢いで落ちている。
周りの景色はひっくり返った水彩画のように、いろんな色がぐちゃぐちゃに混ざり合い、耳元では風の音がヒューヒューと鳴る。
それに——一条煌の声が、直接頭の中に響いてくる。
「こんなやり方で、悪い。これは異世界への門だ、竜の谷ってとこ。君が落ちた先は、ちょうど混沌魔竜王の巣になってる。」
は?何それ?ちょっと待って!
「なぜ君なのかって?召喚の魔法には媒介が必要なんだ。
聖処女の魂が、扉を開く鍵になる。そして君は——条件に合っている」
そんな設定、私、知らないんですけど!
「それと……すまない。」
すまない?すまないで済むの?私を死なせておいて、最後に「すまない」?
悪態つきたかったけど、口を開けた瞬間、風が胃の中まで入ってきて、むせて涙が止まんない。
どのくらい経ったかわからない——一分か、一時間か——私は何かにどしんと落ちた。
痛い。
体中が痛い。
目を開けると、何かの上にうつ伏せになっている?白骨が山のように積もっていて、人間のもあれば動物のも、それに見たこともない生き物のもある。空気には腐った臭いと、言葉にできない圧迫感が漂っている。
そして、聞こえた、呼吸の音。
重くて、ゆっくりしてて、何か巨大なものが眠ってるみたい。
体が固まって、少しずつ、少しずつ顔を上げる。
見えたのは——
黒。
純粋な、何もかも飲み込んでしまいそうな、黒い鱗。
闇の中で、鈍く光ってる。あれは、山だ。
筋肉と鱗でできた山。
それが息をするたびに、洞窟全体がかすかに震える。
竜。
本当に、いるんだ。
混沌魔竜王。名前だけで不吉な感じがするのに。
それが今、私の五十メートルと離れてないところで、眠ってる。
どうすればいい?
こっそり逃げる?
でもここから出る道は一つだけで、竜の後ろにある出口だけ。
その横を通り抜けろって?ふざけんな!
って、頭の中でいろいろ考えてる時、足元でパキッて乾いた音がした——骨、踏んじゃった。
竜の呼吸が止まった。
洞窟が、まるで死んだみたいに、静まり返る。
そして、あの二つの巨大な目が、闇の中で、光った。
金色の、縦長の瞳孔の、私の体全体より大きい目が、私を見てる。
「人間……?」
声は喉からじゃない、直接頭の中で炸裂して、痛くて頭が割れそう。
「人間の、匂い……生きてる……人間が……」
動いた。
洞窟全体が揺れて、骨の山が崩れて、私は骨の山の中に転がり落ちた。
あの巨体が動き出す、一歩ごとに、地面が震える。
逃げなきゃ!
這い上がって、必死に出口へ。
でも、もう少しで飛び出せそうになった瞬間、後ろからすごい力が——腰に何か巻きついて、体全体が持ち上げられた。
しっぽだ。
竜のしっぽ。
顔の前に持ち上げられて、あの巨大な金色の目と、見つめ合う。
竜の目に、自分の姿が映ってる——ボロボロで、体中骨の粉まみれの、震えてる女の子。
「聖処女の……匂い……」竜の声に、かすかな戸惑いが混じってる。「お前は、生贄か……俺に捧げられた……生贄、なのか?」
生贄。
その言葉は、刃となって、私の心臓をえぐった。
一条煌は知ってた。ずっと前から、私が竜に食べられるって、知ってたんだ。
あの「死んでくれ」って言葉は、本物の「死」だったんだ。
「面白い……」
竜が低く笑った。その笑い声で、洞窟全体が揺れた。
「数百年ぶりだ、自ら生贄を差し出す人間は……
それも、処女とは……
じっくり味わわせてもらうぞ」
魔竜王は明らかに、私の慌てふためく様子を楽しんでいた。
低く唸るような声をあげて——たぶん笑ってるんだろう——そして、口を開いた。
見えた。
私より高い牙の列が。喉の奥で揺らめく炎が。息が詰まるほどの硫黄の臭いが。
いや——
死にたくない——
まだ、お母さんに、夜遅くに作ってくれた夜食の「ありがとう」を言えてない。
まだ、妹に、お菓子を取り上げた「ごめん」を言えてない。まだ——
まだ、ちゃんとした恋愛、したことないのに。
でも、竜の口が閉じる、その一瞬。頭の中に、別の映像が走り抜けた——
それは、一人の子供だった。
金髪の少年が、闇の隅っこで、丸まって震えてる。
誰かが耳元でささやく。
その声は、古くて、虚ろだ。
『お前は、選ばれし器……お前の愛は、生贄となる……お前の心は、鍵となる……』
少年は顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、虚ろな闇に向かって、こう訊く。
『もし……もし、使命を果たすために、
あの子を傷つけなきゃいけないなら……それでも、
僕は……あの子を愛していいの?』
答えは、なかった。
映像が、砕け散った。
竜の口が、閉じた。
私は、底なしの闇に、落とされた。




