ベルゼブブの厨房夜話
その夜、私は眠れなかった。
昼間に囲まれすぎて疲れたからじゃない。ずっと心の中でリリィの言葉が引っかかってたからだ——「本当の化け物になっちゃうわよ」。
起き上がって、上着を羽織る。城の中を当てもなく歩き回る。
気づいたら、厨房の前に来てた。
中にはまだ明かりがついてる。
ドアを開ける。ベルゼブブがかまどの前にしゃがみ込んで、大きな鍋をじっと見つめてる。鍋の中では何かが煮えてて、不気味な紫色の湯気が立ち上ってる。
「まだ寝ないの?」訊く。
振り返って、ちょっと驚いた顔。で、笑った。「あんたこそ、寝ないの?」
隣に座る。その紫色のスープを見る。
「これ、何?」
「実験作。」彼が言う。「人間のコーンスープを再現しようと思ったんだけど、魔界にはトウモロコシがなくてさ。仕方なく地獄麦の穂で代用したんだ。色は変だけど、味はいけるはずなんだけどな。」
スプーンで一口すくう。私に差し出す。
一口味わう。
「うん……コーンの味はするけど、ちょっとピリッとする……辛い?」
「地獄麦、自前で辛味があるんだよな。」ため息をつく。「やっぱりダメか。」
落ち込んでるその後ろ姿を見る。ふとあることを思い出した。
「ベルゼブブ、あんたが生きてた頃って……いつの人間なの?」
彼はちょっと驚いた。
「急にどうした?」
「ただなんとなく気になって。」
しばらく黙ってた。で、口を開いた。
「千二百年前くらいかな。」
「そんなに前!?」
「うん。」うなずく。「あの頃はまだ人間界は聖王が治めてた時代だった。」
聖王。
その言葉に心臓がドキッとなる。
「聖王って……どんな人だったの?」
ベルゼブブの目が遠くを見るようになった。ずっとずっと昔のことを思い出すみたいに。
「すごく強かった。」彼は言う。「強すぎて、まともに見れないくらいに。あの人は日の光の下に立ってるだけで、全身から聖光を放ってた。まるで神様が降りてきたみたいに。」
「でもすごく怖い人でもあった。」
「怖い?」
「うん。」ベルゼブブの声が低くなる。「あの人はすべての人を愛してるって言いながら、『大義』のためなら誰でも迷わず犠牲にした。俺は一度だけ……見たんだ。」
「何を?」
「聖処女の生贄を。」
私の呼吸が一瞬止まった。
「あの頃、俺はまだ人間で、ある町でコックをしてたんだ。ある日、聖王の軍隊が町に来た。『至純の魂』が必要なんだって、何かの聖なる品を起動させるために。彼らは一人の娘を選んだ」
彼は言葉を切った。
「その娘はあんたと同じくらいの歳だった。普通の家の、普通の、普通の暮らし。普通じゃなかったのはただ一つ——聖王が『あの娘を愛してる』って言ったことだけだ。」
私の指先が冷たくなる。
「それでどうなった?」
「その後、彼女は生贄にされた。」ベルゼブブの声はとても静かだった。でもその目には何かがちらついてる。「町中の見守る中で、聖光で浄化されて灰になった。聖王は言った。彼女のためなんだって。人間の肉体から解放して、永遠の存在にしてやったんだって。」
「その娘の家族は泣き叫んでた。でも周りの人はみんな歓声をあげてた。聖王が『愛』だって言ったから。」
鍋の中の紫色のスープが泡を立ててる。ぐつぐつ、ぐつぐつ。
長い間黙ってた。
「その聖王って人……今の一条煌と似てる?」
ベルゼブブは私を見る。
「似てるんじゃない。」
彼は言う。
「まったく同じだ。」
心臓がどんと沈んだ。
「どういう意味?」
「千年前の聖王は絶頂期に突然消えたって言われてる。神に昇ったとか、魔王に封印されたとか、いろいろ言われてるけど、本当のことは誰も知らない。」ベルゼブブの声が重くなる。「でも一つだけ確かなことがある。聖王の魂は決して消えないんだ。それはふさわしい器を見つけて、再びこの世に降り立つ。」
「一条煌がその器なの?」
「わからない。」ベルゼブブは首を振る。「でもあいつのやってることは千年前の聖王とまったく同じだ。『愛』の名の下に生贄を捧げる。『浄化』の名の下に殺戮をする。『大義』の名の下に誰もが黙らせる。」
私を見る。
「すみれちゃん、あんたが選ばれたのは偶然じゃないかもしれない。」
拳を握りしめる。
「あんたは聖処女だ。」彼は言う。「誰でも聖処女になれるわけじゃない。魂が『純粋』である者だけが、聖光に狙われるんだ。」
「純粋?」
「純粋な執念、純粋な恨み、あるいは純粋な愛。」ベルゼブブが言う。「あんたの魂は、聖光の目には一番美味しい生贄に映るんだ。」
厨房は静まり返った。
鍋の中のスープだけがぐつぐつ、ぐつぐつ。
長い時間が過ぎて、私が口を開いた。
「じゃあ、私はどうすればいい?」
ベルゼブブは私を見る。あのまん丸い顔に真剣な表情が浮かぶ。
「強くなれ。」彼は言う。「聖光がお前に触れられないくらい強く。一条煌がお前を『浄化』できなくなるくらい強く。そして……」
言葉を切った。
「自分で真実を暴けるくらい強く。」
私を見る。
彼も私を見る。
で、彼は笑った。またいつものにこにこしたコックの顔に戻った。
「でも今夜はそんなこと考えないでおこう。」スープをお椀によそって、私に差し出す。「ちょっと味見してみて。色は変だけど、味はいけるはずだから。お腹いっぱいにならなきゃ、強くなれないしな。」
お椀を受け取る。一口飲んだ。
紫色のスープは確かに美味しかった。
「ベルゼブブ。」
「ん?」
「教えてくれてありがとう。」
手をひらひらさせる。
「いいってことよ。あんたは俺の初めての人間の友達だ。誰を助けるって、あんた以外にいるか?」
笑った。
窓の外から月明かりが差し込む。紫色の柔らかな光。
でもわかってる。今夜から心の中に、不安の種が植えられたってことを。




