#06 掴んだ手を
最後なので少し長いです。
自殺。
ぱさり、と大きな枯れ葉が落ちるような。大きいけれど、軽い。そんな音のような、言い方だった。
「ああ……」
声につられて隣を見ると、悲しげなサイ子がいた。
「……気付いてたのか」
力無く首を振り。否定、か。
「もしかしたら、って……それだけ。私たちよりも年下の姿、なら、と」
ああ、そうだ。
こんな若い頃に亡くなったならば、病気か他殺か……自殺しかない。
俺は、こんな話を聞くつもりではなかった。もっと、ただの思い出話か何かを考えていた。でも……聞きたくなかった、とは思わない。
「あの……、芝ら…あ、いや……」
本名で呼ぶべきだろうか。しかし、……思い返してみても、彼女は苗字以外誰の名も語らなかった。
「芝楽と呼んでください。こんがらがってしまいますからね」
にこりと笑った彼女の顔は、何とは無く淋しそうだった。
それで、諒解した。
彼女は本当に自身の名を忘れたのだろうか?初めに言っていたように。否、ここまで過去の記憶が鮮明であって、そんなものを忘れるとは到底思えない。それはつまり、わざと隠したということだろう。
それは何故か、と訊くつもりだった。
しかし、彼女の言葉を聞いて、諒解した。彼女は、『雪童子の自殺した巫女』ではなく『芝楽』でいたかった。……多分、そういう意味だろう。話の中でも名を伏せたのも同じ理由。
衝撃的な話だったけれど、彼女が『芝楽』という位置、もしくは立場、或いは『芝楽』としての彼女の記憶・経験を大事に思ってくれているのが分かって、小さく嬉しいと思った。
――と。
「今日、何をするつもりなの?」
和らいだ気がした空気の中、緊迫した声が一筋走る。
隣を振り返ると、芝楽を見つめた鋭利な瞳があった。
「ねぇ芝楽、何を……」
「何のことだよ、サイ子」
思わず尋ねるが、答えはない。鋭い視線はちらりとも揺らがずに、対象を見つめ続けていた。
「……昔の話……もとからするつもりだったんでしょう?違う?」
「なぁサイ子、話は俺たちが頼んだからしたんであって……」
「ううん、芝楽は最初から、今日この話をするつもりだった。そうでしょう?」
漸く俺を振り返ったサイ子は、すぐ芝楽に向き直り、焦るように質問を重ねた。
「昔の話をして……それで、何をするつもりなの。ねぇ、貴女、まさか……」
惑うような足取りでふらふらと詰め寄るサイ子を、芝楽は避けようともしない。その顔には笑みすら浮かんでいて、その笑みは―――
「――!!」
心臓が叫ぶ。
恐怖に似た感情。
咄嗟に、目の前の手を引っ張る。
力無く歩いていたせいか、サイ子は勢いよく俺にぶつかった。
「鏡ちゃん……」
乱暴な手つきであったが、それを諌めようともしない。放心状態から我に返ったような顔。俺の心臓はまだ煩く鳴っていた。
「芝楽……今、なんで避けなかった。お前……消えちまうだろ、触られたら」
笑みは消えない。
「なんで笑ってんだよ、そんな……諦めたような顔っていうか、悟ったような顔っていうか……」
ぞっとした。
消える、と瞬間的に思った。
「それなの?」
ぽつり、と言葉が落ちる。
自分がまだサイ子の手首をしっかりと掴んでいることに気付いた。慌てて離す。
「それって、どういう」
「消えるつもりなの?」
毅然と言い放ったようで、しかし、泣き出しそうな顔をしていた。
「今日……消えるつもりなのね、芝楽」
*
「いやはや、サイ子さんは考える鋭くて参りますねぇ」
へらっと笑う芝楽を注視する。
「じゃあ、お前、本当に消えるつもりなのかッ?なんで?」
「なんでって……ユーレイがいつまでも現世に居たらおかしいでしょう?」
「そんなことないッ!」「そんなことねぇよ!」
サイ子と声が被る。芝楽が、本当に可笑しそうにくすりと笑った。
「つか……大体さ、今までウン百年留まり続けてきたんだから、今更だろ」
「百数十年だから…何百年じゃない……」
ぽそりと呟くサイ子の声は聞こえなかったことにする。
「とっとにかく、なんで今になってそんなこと言うんだよ。せっかく、せっかく、会えたのに……なんで今……」
言葉にすると込み上げてくるものがあって、涙が滲みそうになる。慌てて口を紡ぐと、芝楽がすぐ側に寄ってきて、にっこり笑った。
「鏡弥さんは可愛いですねぇ」
「はッ?」
「そんな可愛さに免じて、教えて差し上げましょう」
秘密をこっそり教えるような、悪戯っぽい光。双眸に宿っていたそれが、不意に消えた。ぽつり、穴をあける様な声。
「私はね、きっと誰かに聞いてほしかったのですよ」
口許から笑みが消え、力無い真顔にいつの間にか変わっていた。それで漸く先程の笑みが強がりだったのだと気付いた。
「私は……あの閉塞的な生から逃げたかった。重苦しい期待から逃れたかった。自身の無力をこれ以上識りたくなかった。」
言葉が強くなっていく。
「自由になりたかった。
苦しかった。
辛かった。
いつまで続くか知れない、拘束された人生が怖かった。
もうどうでも良かった。
期待に応えられない自身が憎かった。
私を閉じ込める母が憎かった。
私を身代わりに自由な姉が。
私を可愛がってくれたのに、修業が厳しくなった途端会いに来なくなった兄が。
出鱈目な預言をした祖母が。
助けてくれず頑張れとしか言わない父が。
私を束縛する雪童子の家が。
私の声に答えてくれない神が。
……ああ……
みんな、憎かった。
嫌いだった。」
「味方なんていなかった。
頑張るのが当たり前だった。
家の為、神社の為。
みんな私を『巫女』として見た。
尊ばれ、丁重に扱われ、畏怖された。」
「でも、私は巫女の力なんて無かったのよ。巫女じゃなかった、最初から……私はただの『女の子』だった!でも誰も気付いてくれなかったの、誰も!ねぇどうして?
……知っていたわ、みんな私に縋ってた。預言にある『巫女サマ』に。危うい現実なんて見たくなかった。だからみんな私を神聖なものとして、畏怖すべき巫女として奉り上げて……それで安堵したのよ。
あそこには『私』なんていなかった!ただの預言の『巫女サマ』!誰も『私』なんか見てなかった。逃避、責任のなすりつけ。でも良心の呵責なんてなかったでしょうよ、だって神聖なる『巫女サマ』だもの!」
あははっ、と渇いた笑い声があがる。
同時に上げた顔から、小さな真珠たちがとぶ。
それらは芝楽から離れた途端に風に溶けて消えていった。
あは、ははは、ははっ、と愉しそうに笑う彼女の頬を、熔けた金剛石が伝う。零れると同時に毀れる。
どうしてこんな時、頬を濡らすそれを拭うことすら出来ないのだろう。
笑い声が小さくなっていく。伝う金剛石の雨は増える。
「はははっ、はは、は……ぁ……あぁ……」
音もなく崩れ落ちた。膝をつく。
左手と、崩れた右手首を顔に押し当てて、自分の息の根を止めようと足掻くように、声を殺して泣いた。
「うあ…あぁあ…ぁ……」
息の詰まる泣き声を聴きながら、俺とサイ子は立ち尽くす。いつの間にか闇に染まった空に、声は吸い込まれて消えていく。
この嘆きは、現在のものだろうか。
それとも、百数十年前の?
あの星の光が数百年前のものであるのと同じように。
吐き出せる場所までずっと歩いてきたのかもしれない。
闇の中を旅して地球に辿り着いた光と同じように。
芝楽の声が小さくなっていく。震えていた肩も、落ち着いた。
「でも、ね」
零れた声は大人びても神聖でもなく、普通の女の子のものだった。
声だけは、彼女を離れても風に消えたりしないことが救いだと、不意に思った。
「少しだけ……少しだけ、家族を想っていたのよ」
先程とは違う、躊躇うような色を帯びた声。ぽつり、ぽつりと呟くように。
「私には…巫女の素質などなかった。家族を救う力など。けれど、何度そう言っても聞いては貰えなかった。ただの弱音と取られた。そして相も変わらず私を神聖視した。
……もたないと、思ったの。私がいたら縋ってしまう。本当はね、切り札なんてなくてもやっていけた筈。でも、楽な道を選んでしまったの、彼ら……いえ、私たちは」
ゆっくりと言葉を繋ぐ。それは、心の奥に潜んだ言葉たちを追いかけるよう。
「他に方法が無かったとは思わない。けれど、私が消えることが一番確かで、早くて簡単な気がしたの。」
だから、出した結論には後悔はしていない。そう言った。
「自殺が……?」
サイ子の呟くような声に、顔をあげる。赤い目を細めて弱々しく笑った。
「人は皆生まれた意味を持つとするなら、私の生まれた意味はあの自殺にあった。あのまま生き永らえていたら、私の生まれた意味など何処にもなかったと思う。」
分からない、と呟いた俺に、分からなくてもいいの、と言った。
「ただ、人生に後悔が全くないわけじゃない……」
切って、真顔に戻る。
「死ぬ前に、伝えてしまえば良かった。好きですと一言、言えば良かった」
そして、ゆっくりと立ち上がった。左手で自分を抱くようにして、呟くような小さな声で――しかし、強い口調で宣った。
「短い一生だったけれど……」
小さな恋。
ただの一目惚れ。
叶うどころか伝えられもしなかった。
けれどもちっぽけなそれが、百数十年支えになった。
「私は恋をした。それが私の誇りなのよ」
*
「誰かに聞いてほしかった……私は、私の為だけに死を選んだわけではなかったのだと。それが果たされた今、私が此処にいる必要はなくなった。」
必要、なんて。
声が嗄れたように、出ない。
言葉が返せなかった。
多分、何処かで俺は芝楽の言葉に納得してしまっていたのだろう。
「未練がある人は、皆こうして現世に留まるのかしら。それとも私が特別だった?……分からないけれど、きっと、歪んでいるのだろうと思いました」
この世は生者の世界。死者が留まるなど、世の理から外れたこと。ましてや死者と生者が関わりを持つなどと。
「自殺し、次に目覚めた時は随分見慣れぬ景色がそこにありました。場所も時代も、少しばかりずれていたのです。」
どれだけ流されたのか。確かめる方法もないわけではなかったろうが、結局確かめることはしなかった。
「知るのが怖かった、というのも勿論あります。が、知ってどうなるものでもない……死んだ身に、今更どうすることも出来ないのですから、知る意味などありません。願わくば、母たちの力で雪童子の家がまた安泰になっていますように、と……ただそれだけ」
本当は、知りたいとも思ったのだ。
彼女の表情を見て、そう思った。
「だから、もう本当に全て、お終い。もう、いかなければ」
透き通るような焦茶の瞳が、優しく笑いかけた。
「さて!」
「うわっ!……いきなりでかい声出すなよな!こう、しんみり来てる時に!」
「あ、すいません」
その謝り方があまりにもいつも通りの芝楽で、笑ってしまう。今生の別れだというのに軽いものだ。
「実はですねぇ、非常に申し訳ないのですが、鏡弥さんに手伝っていただきたいのですよ」
「へ、俺?」
思わず自分を指差して間抜けな声を出してしまった。
今更一体俺に何をしろと。
「ちょ、お経とかは読めないぞ俺!」
あれ、お経は仏教だっけ?
「いえいえ誰にでも出来ることですから」
そう言う芝楽は、なんとなくちらちらと視線を動かし、せわしない。
「それって、あたしじゃ駄目なこと?」
誰にでも、に反応したのだろう。サイ子の言葉には、困ったような笑顔で答えた。
「うーん……サイ子さんでも十分嬉しいんですが……我が儘を言わせていただくと、鏡弥さんの方が適任、というか」
なんとも歯切れが悪い。ここはざっくり訊くいてしまった方がいいのかもしれない。
「で、俺は何をすれば良い?」
直球で訊くと、びっくりするくらい身を引いて、これでもかというほど狼狽を示した。芝楽にしてはかなり珍しいことだ。
「んー……と、二つ、先に言っておかなければいけませんね。」
またピースサイン。いや、本人はピースサインなんて知らないだろうけど。芝楽と二人で話した時のことが思い出された。随分前な気がするが、考えてみれば昨日のことだ。…………うわ、近ッ!
「まず、人に触れると、私の体は崩れます。分断されると、片方が全て崩れる。推測するに、体の中心から離れている方が崩れます。私のこの状態が、依然話した通り『思念』に依り形成されているとすれば」
「ちょちょちょ、ちょっと待った!『思念』って何の話?聞いてないんだけど」
慌てて遮る俺に、「話してませんでしたか?」とあっさり言ってのける。
「何かに躓いて転んだりすることや、空中に浮かべたり出来ないことっていうのは、私が私の思念で形成されているからではないかと思うのです。私の思念で出来ているから、ある程度は生前と同じ常識が生きるのではないか、という推測です。特に空を飛ぶなんて、体験したことがありませんからねぇ。歩いている時に足元に石があったら『躓く』という常識が咄嗟に働くのでしょう。
つまり、『私自身』に関しては私の常識が通じますが、『私以外』――例えば人、植物と関わる時は私の常識は通じない。例えば『草は手折れる』なんて常識は通用しません。だから石に躓いて植物をすり抜けるのではないでしょうか。無生物をすり抜けるのは……多分、植物をすり抜けた体験があったからでしょうね」
「ふーむ……」
ちょっと分かりづらいが、昨日の説明と併せてみれば確かに通る。気がする。
「じゃあ、話を戻しましょうか。
ええと、もし今の仮定が正しいとしましょう。すると、私自身には私の常識がある程度通用します。では、私の『中心』とは何処か?……心臓、と答えたいところですけれど、胸部だけ残る姿はちょっと想像できません。ですから、恐らくは頭――頭部です。」
つまり。
頭部に触れてしまえば全て毀れて消えてしまうのだ。
「頭部が損傷した状態で残るのも考え辛いですし、頭部に少しでも触れられれば全て消えると考えて間違いないかと思います。
それから……これはただの楽観なのですが、親より先に逝ったとはいえ一応私も神に仕えし身でありました。砕けて消えるのは……成仏、ではないかと思うのです。」
……芝楽が俺に頼もうとしているのは、つまり?
「これが知っておいてほしい一つ目。二つ目は……」
と、急に歯切れが悪くなった。もごもごと聞き取り辛く、しかも「あのぅ……ええと」と口ごもっている。
口が重くなるのは今し方したばかりの話題の方ではないだろうか……。何だろう、今の以上に嫌な話題?
しかし、彼女の顔を見て、分かった。
大分呆れる。
「おい芝楽、早くしろ」
「ああっ御無体なっ」
キャラ変わってんぞ。
「ええーと、ですねぇー」
「芝楽。」
「はいっ!その……鏡弥さんって、少しだけ……少しだけなんですけどね、見た目がですね………」
うん、これは。
「わ、私の好きな人に似てるんですよぉ」
うわァーやっぱりィー。
「そっそれに、そのひと『恭一』さんって言って……『キョウ』繋がりだなぁって」
「ええぇー……なんかこう、すごい断りたい」
「なんでですか!」
「だってこう……オンナノコオンナノコした芝楽って地味に気持ち悪いんだもの」
「ひ、ひどいこと言いますね」
私本当に傷つきましたみたいな顔をして涙を拭うふりをする。
「いやぁ……でも、えもいわれぬ縁を感じるね、鏡ちゃんと恭一さんなんて」
恭一という人は、週に一度集まって見世をやる、一種の劇団みたいなものの一員だったらしい。曲芸やらをやって、町を活気づけていたのだろう。その見世に稀に現れる若い娘を、その娘の瞳の色は透き通るような焦茶だということを、彼は知っていたのだろうか。
「…………あっ!」
「どしたの鏡ちゃん」
「芝楽さぁ、好きな色とかある?」
きょとん、とした顔で俺を見てから、一瞬の間を置いて答えた。
「紅。……白と違って、生きているって思う色だから」
そうなんだ、と相槌をうつと、サイ子が突っ込んで訊いてくる。下手くそながらに躱していると、漸く諦めた。
それを見て笑っていた芝楽が、一つ、息をついた。
「……言い置くべき言葉は尽くしました。お願いです、鏡弥さん」
芝楽の声は、静かで、明瞭で、大人びていて、幼くて、遠くて、近かった。
「一度だけ、抱きしめてもらえませんか」
それは、掴んだ手を離すこと。
――出会いには別れがあると言うけれど、ならばどうして出会うのかと思っていたことがある。
中二だかなんだかで、そういう『定説』とか『決まり文句』みたいなのに意味もなく反感を抱いていたころ。
結局試験だ受験だとうやむやになって忘れて、思い出しもしなくなった。その程度にしか関心がなかったということかもしれないし、諾々と受け入れることに慣れたせいかもしれない。
今、それが分かった……なんて言うつもりはない。
やっぱり今でも、寧ろより一層分からなくなってしまった。
でも。
出会いとは全てが全て自発ではないし、別れとは全てが全て強制ではないらしい。
例えば、運命と呼ばれるもの。奇跡と呼ばれるもの。必然と呼ばれるもの。偶然と呼ばれるもの。定めと呼ばれるもの。意志と呼ばれるもの。
出会いも別れもそれらの発露であり、発生であるのかもしれない。
一歩、踏み出す。
遠くで車の音がした。
ふと、芝楽の声がした。
そういえば、J-POP向きの歌声だった。あれから一度も歌わせていない。一曲くらい覚えさせてやろうと思ったのに。
「…死後目覚めたとき、私は生前の『私』ではなくなったのだと思いました。『私』は死んだ。なら、ここにいる私は誰だろう――そう思った時、答えは『ただの人』でした。人ですらないのかもしれなかったけれど、個人ではなく名前の無い不定のものとなってしまったと思った。誰にとっても私人ではない。それが一番……怖かった。
だから貴方が『芝楽』と名付けてくれて、あなたたちが『芝楽』と呼んでくれて、私は『芝楽』になった。
だから……ありがとう」
笑顔を見つめながら、その小さな頭を包むようにして、そっとだきよせてみた。
気付けば、そこには夜の闇。
何も掴めなかった自分の掌だけが俺を見つめていた。
*
「帰ろうか」
ぽつりと呟いた声は、するりと空に滑っていった。
「ああ」
帰り道へと歩き出す。サイ子は俺の顔を一瞥したが、黙って隣を歩いた。
「………」
「なんだよ」
「……じゃあ言うけどね?前に鏡ちゃん、『女子二人に泣かれると困る』とか言ったじゃない」
「……覚えてないな」
「嘘」
切り返しが早過ぎないかい、前野木さん。
「でもね、男子一人に泣かれてもやっぱり困ることには困ると思うんだよね」
「……何の話かわからんが」
「なら別にいいけど」
「…………」
歩きながら、俺を見上げる。
「ねぇ鏡ちゃん」
「なんだよ」
声が。
俺も、こいつも。
「あたし、鏡ちゃんのことが好き」
「……。」
「中一でさぁ、初めて会ったじゃない。二学期だかに同じ班になって、あたしのこと『サイ子』呼ばわりしたでしょ」
覚えてる。ものすご怒鳴られたから。
「モテるからって人のこと馬鹿にしてんのかと思ったけど、違った。鏡ちゃん、よく見たらかなり抜けてるよね」
かなり……ではないよ?残念ながら『サイ子』は素で間違えたが。
「多分、そこら辺から好きだった」
それは知らなかった。
自然、足が止まる。向き合った。
「……あたしと付き合ってもらえますか、飯田くん」
「………」
細くて色素の薄い髪。触れたら溶けてしまいそうなほど。
「……俺な、石川に告られた。」
目を見開く。瞳は、濃い、黒。
「断ったんだけど。……なんかこう、石川ってぜってぇ俺のこと本気で好きじゃないと思ってた。見た目、本気じゃない女子と変わんねぇの」
俺の声が吸い込まれていく。黒は色んなものを吸い込んでいく。
「あと、俺、多分まだ古井のこと若干好きなんだよね、一応諦めたんだけどさ。時間かけないとかなーって。昨日まで好きだったけど諦めたから今日からは普通ですなんて、出来なくて」
夜空と同じ色。
「だから……」
口が重くなったのを見てか、堪えられなくなったように呟いて去ろうとする。
「そうだね、ごめ」
「こ、こんなんで良かったら付き合ってください!」
「………………は?」
振り返ったサイ子は、心底理解出来ないという顔をしていた。
「えーと……やっぱり駄目ですかね」
「ば…………」
「ば…?」
「馬 鹿 じ ゃ な い の !?」
「ひぃっ」
やっぱり怒られた……!
「もう本当、馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬っ鹿じゃないの!?」
「ごっごめんなさい!」
「馬鹿!あーもう馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ったら馬鹿!」
こ、こんな夜に騒いだら近所迷惑ですよ?
「ほんっとに馬鹿だ、あんた馬鹿だ!馬鹿馬鹿馬鹿!馬鹿!」
「そ、そんなに言わなくても……いたっ!たたたたたかないでください!」
ばしばしと地味にバイオレンスな音が夜の道路に響いた後、漸くそれがやんだ。
と。
背中に重み。と、腹に腕。
「さささサイ子ッ?」
背中が微かな振動を感じた。
「いーよ」
「え」
じんわりと背中があったかくなる。人の体温は同じくらいなはずなのに、人に触れると温かく感じるのはどうしてだろう。
「鏡ちゃんは女心に鈍いしあずさがまだ気にはなる。それでも、あたしを手放したくないって思ってくれたんなら、それでいいよ」
本当、なんで全部伝わるんだろう。いや、なんで全部分かるんだろう。俺は何にも分からなかったのに。
結局、考えたところで「一番失くしたくないもの」「一番大切なもの」は分からなかった。ただ、とりあえず訊いてみた。
――何を失くしたくない?
拍子抜けだが、答えがあまりにもはっきり返ってきたのだから、仕方ない。
ようやく背中から離れて歩きだす。
「大体さぁ、鏡ちゃんはへたれなんだよ」
「いきなり説経ですか……」
「だって鏡ちゃんはモテるけど、みんなこんなにへたれだなんてしらないでしょ?詐欺だよね、詐欺」
「べっつに、俺はへたれじゃないなんて言ったことは……つか!実際俺へたれじゃないし!」
肩を竦めて笑う仕種はあからさまに馬鹿にしている。
「とにかく、そのヴィジュアルでその性格はもう詐欺だよ」
なんて失礼な。褒めてるのか貶しているのか……というか、普通に貶してるよねそれ。落ち込んで良いですか。
「だからさ、鏡ちゃんの性格もちゃんと知っててずっと一緒にいようなんて女の子いないんじゃないの?」
「……いくらなんでも『いない』は酷くないか?」
「じゃあ訂正。そんな子、あたしくらいしかいないんじゃないの?」
思わずサイ子に顔を向けるが、飄々としているようで、しかし顔が見えない。
「あー……かもね」
速度は変わらない。つかの間の沈黙が落ちた。再び足を止めたのは俺の方だった。
「……そうだ、なぁなぁサイ子、ちょっといい?」
「へ?」
ひょいと手首を掴んで軽く引くと、彼女は逆らわずにくるりとこちらに不思議そうな顔を向けた。
恐ろしい妄想を振り払う為と、乱暴にだきよせた。
「はわっ」
「うわっ、変な声」
「ううううるさいな!鏡ちゃんがいきなり……引っ張るからでしょうが!」
あの星は、一体何年前の光だろう。もしかしたら、今はもう消えてしまった星の光なのだろうか。
星の放つ光を目で捉えることは出来ても、どうしたって星に触れることなど出来はしない。
だから、
せめて触れることが出来るものくらいは、掴んだ手を離さないでいたいと思うのだ。
腕の中のそれは、触れても消えてなくなったりはしなかった。
これにて本編終了ですが、一応エピローグも用意してあったりします。
全体のあとがきはそちらに。
補足説明としては、
飯田と鳥喰は友人で鳥喰と陸奥は仲の良い友達ですが、
本文中にある通り飯田と陸奥に直接の面識はなく、
お互いに共通の友達がいることも知りません。
飯田、サイ子、古井、陸奥、鳥喰は陸奥と飯田がお互いを知らないだけで
あとはみんな友人だったりします。
(ていうか一回名前だけ出てきた鳥喰を覚えている人はいるのだろうか…)




