#05 告白と昔話
すっかり忘れていた課題は、たいてい眠りに落ちる直前に思い出す。
俺はいつも結局それらを思い出さなかったふりをして寝てしまうのだが、今回は思い出した途端に目が醒めた。
一つ。古井を諦めたいが、諦めきれていないこと。
二つ。サイ子の気持ちを知ってしまったこと。
三つ。俺はサイ子をどう思っているのかということ。
そもそも俺は、サイ子にある意味告白されたわけだ。いややっぱり、ちょっと違うかな……。偶然知ってしまった、の方が近い気がする。
それで、サイ子にまぁそう思われているとして。
俺は、
嬉しい?
迷惑?
ショック?
――俺は、サイ子のことは、多分とても好きだ。でも、それは恋愛感情とかではなくて、友達とか親友とかの括りになるはずだと思う。だから、どう思ったかといえば、「困った」だろう。俺はサイ子と友達でいたいし、古井が好きだ。やっぱり好きだ。
だが、サイ子はそれをよしとしない。というか、それをやってきて、無理をしてずっと笑っていてくれた。それで、ついに箍が外れた。これ以上は無理だった。
多分、サイ子は「友達でいよう」と言ったら頷いてくれる気がする。ただ、それはサイ子にあまりに酷だ。あの叫びを聞いた後で、そんなことを言うのは……あまりにも、あいつが報われない。
俺はわかっていたのかもしれない。
結局、このままではいられないことを。
このままでいようと努力していたのはあいつで、このままでいたいと甘えていたのは俺だった。
古井が好きだ。でもそれは、どうしたって叶わない。
サイ子とは友達でいたい。でもそれは、彼女に対する最大の甘えであり、彼女の思いに対する冒涜だ。
だから、俺には二択しかない。
サイ子の思いに応え、古井を諦めるか。
古井を想いつづけ、サイ子から離れるか。
応えられないのなら、友達でもいられない。俺たちは止まっていられない。サイ子に重い負担がかかることで保たれてきた微妙な均衡は、ついに崩れてしまったのだ。
――本当は、あの二択は間違っている。本当は、古井は関係無い。
俺は、サイ子の想いに応えたいのだろうか。応えられないのだろうか。
このままでは、いられないのだ。
*
「おはよー、鏡ちゃん」
朗らかに笑いかけてくる彼女を見て、きりりと痛みがはしった。俺が古井を好きだと知っていて尚笑いかけるサイ子を思って、痛みがはしった。
「あぁサイ子、お早うー……」
「どうしたの鏡ちゃん。元気ないね、寝不足かい?」
「うん……課題がさ、終わらなくて」
「?…今日までの課題なんて……」
サイ子が言い切る前に、被さるようにして椅子を引く音がした。
「おはよ、あずさ」
「おぉ、おはよう古井」
長くてまっすぐな黒髪が揺れる。
「二人とも、おはよう。」
……声が硬い。
「なんか、怒ってない?古井」
「怒ってますとも」
「……あずさ、何かあったの?」
憤然とする古井に、恐る恐る尋ねる。と、刺々しい声が返ってきた。
「喧嘩した!」
誰と、は言わずもがな、である。
そんな会話で、決意が固まった。
帰りのSTの時、ざわついている教室で、隣に軽く声をかけた。
「古井、今日、時間ある?」
「え?あたし?陸奥と帰るつもりだけど……何か用事?」
「ちょっと。帰りの五分くらいで良いんだけど」
にっこり笑うと、彼女は少し驚いた顔をしてから、躊躇いがちに「五分でいいの?」と尋ねた。
俺は頷いて、それで話は終わった。
その時ふと視線を感じて後ろをむくと、斜め二つ後ろの女子――そう、ゴムを貸してくれた、石川麗乃と目が合った。が、すぐに逸れる。意図的に逸らされたような気もしたが、あまり気にしないことにした。そもそも目前の問題で頭がいっぱいだった。
ついて来て、と告げて、靴を変えて歩き出す。生徒がごった返すホームルーム棟の廊下を足早に抜けて、渡り廊下をわたった。途端、人気がなくなる。屋根が無い為廊下から丸見えの渡りを後にして、特別教室棟に入った。更に進み、生物実験室の前まで来て、ようやく足を止めた。
此処は棟の端っこだから、殆ど誰も来ない。理科の先生がいる化学準備室や、サイエンス同好会の部室である物理実験室とは、階段の踊場を挟んで少し離れていた。それに、まだSTが終わったばかりなので、人は全くいなかった。
好都合だし、人が来る前にさっさと用件を済まそう。
「それで、何の用事?」
慎重な声。それで、思う。
「多分、察しはついてるかなぁとは思うんだけどさ」
これだけは。
ここだけは。
ずっと思ってきたことだった。今までどれだけ不様を晒しても、テンパったり挙動不審になったりしても。……ここだけは、格好つけたかった。
だから、
笑顔で。
「俺、古井が好きだよ」
少し驚いた顔をしていたけれど、それは俺の言葉の意味ではないのだろう。
「何処がどう好きかって聞かれたら、両手は無理かもだけど、片手くらいなら一瞬で言えるくらい、好きです。」
ちゃんと言えたのが嬉しくて、笑みが溢れる。それをとりあえずしまって、微笑みに変えて、ゆっくり続けた。
「古井に付き合ってる人がいるのは知ってるし、古井がその人のこと大好きなのも知ってる。でも、どうしても言いたいって思っちゃったんだよね」
彼女は困ったような、泣きそうな顔をしていた。
なんで古井が泣きそうなの。泣かないでくれよ、俺なんかの言葉で。
古井が黙っているので、こんこんと湧き出る言葉を紡いでいく。
「でもさ、古井には迷惑だったかもしんないけど、俺は古井を好きになれて良かったってすげぇ思ってる。今、すごい思う。なんか、変だけど……」
やっぱり、笑顔がこぼれた。
「ありがと、古井」
泣きそうな彼女は、一瞬俯いてから、勢いよく顔を上げて、かと思ったら、思いきり一礼した。
「ごめんなさい。」
そして、笑った。
「あと、あたしも……ありがとう、飯田」
陸奥を待たせているからと急ぐ古井に、自分はもう少し此処にいるからと手を振った。……一つ目の課題を片付けたのだ、と思いながら。
なんだかすっきりした。思っていたのとは全然違った。今にして思えば、最初の笑顔は緊張しすぎてかなりぎこちなかった。
しかし。ちゃんと、言えた。言いたかったこと全て言えた。やはり胸の奥底のあたりがキリリと痛んだけれど、それを含めて本当に気持ち良いと思えた。
一つ目の課題は、つまり、告白してしまえば済むものだった。…その勇気がなかっただけで。
サイ子の件は、結局告白の後押しとなったわけだ。自分の甘えを噛み締めたから、それくらいの勇気はだそうと思えた。
「よーし、帰るかぁー」
自分に一声かけて、歩き出そうとした時である。
「飯田…くん」
階段の陰から現れた人影は、よくよく見ると、
「あれ、……石川?」
石川麗乃。麗しいと書いて「ツグ」と読むのが珍しいと思った。
「どしたの、こんなとこで……」
言いつつ、さっきの問答は聞かれていたなと思い、心の中で舌を打つ。つけてきたのか?なんで?
「飯田くん、……あの、そのぉ……
あたしと、付き合ってください!」
ばっと髪が空を斬る音がして、彼女は頭を下げていた。
「え、……え?」
石川?って、あの、明らかに俺に恋愛感情持ってなさそうだった?あの?
「え、ちょ……」
意味が分からずに困っていると、彼女は顔を上げてくれた。今分かったことだが、頭下げられるのって安心しない。
「一年のときから好きだったんです。でもせっかく同じクラスになれたのに、、仲良くなろうと思っても、彩子ちゃんがいるし、一緒に帰ってるから、付き合ってるのかなぁって思ってて……でも、古井さんに告白したってコトは、付き合ってる人いないんだよね?」
お、おおちょっと待って。そんなに前から?え、じゃあやっぱり本気?
大して本気で好きでもなさそうだったのは演技だったのだろうか。なんで?
「えと、いないですけど……」
とりあえず疑問形だったので答えるが、まだ頭は回転中だった。
「じゃあ、付き合ってください!」
脳がようやく回転を止める。思考を終了したのだ。
とにかく、石川は俺が好きで、付き合いたいと申し出ているわけだ。石川には申し訳ないが、いつものパターンなわけだ。
「ごめんなさい、付き合えません」
「……なんで?」
ああ、怒ってる。泣き出す人や微笑んでくれる人、がっくりしながら帰る人。様々な女性に対してきたが、断られて怒る人は……ぶっちゃけると、始末が悪い。
「いや、俺あんまり石川のこと知らないし……」
「別に付き合ってからでも分かるよ。今、振られたんだから好きな人もいないんでしょ?」
威圧的だ。怖いです。キレても男は手に入んないよ!
しかも、断りの口上は幾つも使ってきたが、振られ現場を捕らえて現行犯逮捕ならぬ現行犯告白されたのは初めてである。よって、返す言葉が思いつかない。
「良いじゃない、断る理由なんてないでしょ!?」
無いこたないが。断られてキレている時点で断られる理由を自ずから作っていることにどうして誰も気付かないのだろう。
「いや、その……」
言葉を濁すと、更に煽ってしまったのか、頬が少し赤い。
「何よ、あたしじゃどうして駄目なのよ!古井さんなんて無愛想だし地味だし……いつも一緒にいる彩子ちゃんは可愛いけど……でも、あたしと二人、どう違うのよ!あたしの方が……」
ぐっ、と口をつぐんだのは、俺があからさまに嫌な顔をしたからだろう。
つい、眉間に皺をよせたままため息をついた。
「……あのさぁ。古井がどうって、悪いけど、それただの主観だと思うよ?それから」
ここまでは、良い。サイ子がまるで可愛くないとか言ってきたやつも過去に幾人かいるし、確かに石川はかなり一般ウケする方向で――つまり派手で、顔もなかなか可愛いとは思う。だから、そこまでいらついてはいない。
問題は、もう一つの方だった。
今までは深く考えなかったけれど、今は違う。聞き逃せない、と思ってしまった。
「サイ子とアンタが同じだって?あいつと、アンタが?」
嫌悪感を露にしたせいだろう、流石に泣きそうな顔を見せた。
本当なら自分に好意を寄せてくれた女の子を泣かすなんてしたくない。だが今、俺は怒っていた。
「アンタがサイ子の何を知ってるって?古井のことは俺もそんなに知ってるわけじゃない。でも、サイ子がどんだけ我慢して、我慢してくれてたかなら、知ってる。アンタはさ、知ってんの?その上で、同じだって言ってんの?」
俺は知ってる。
違う……思い知った。
あいつがどんだけ耐えて、我慢して、嫌な思いして、そのなかで笑ってけれていたのを知った。だから。
だから、聞き逃せなかった。
石川は泣きそうだった。目許には水が溜まってきている。
多分、言われるまで気付けなかった自分に対する憤りだった。……ああ、これじゃあ八つ当たりだ。だが、訂正するつもりはないし、やはり彼女の言葉は許せなかった。だから、少しだけ八つ当たりになってしまったことにだけ、
「ごめん」
ひとこと言って、立ち去った。
****
「鏡弥さん、不細工ですよ?」
笑って言うのを、眉間の皺もそのままに言葉を返す。
「ぶすくれてんだよ、大きなお世話っ」
芝楽は不思議そうな顔をして、サイ子に話を振る。
「なんでしょうねぇ、鏡弥さん」
「うっさいなぁ。自己嫌悪だよ、じ・こ・け・ん・お!」
何と答えたものかと困り顔のサイ子を一瞥し、組んだ両手に視線を戻してから、届くように呟いた。
「古井は関係ないからな」
「え」
俺が古井を呼び出したのを見ていたろう、言葉こそ短く謙虚であったが、ありありと「え、違うの?」という心情が見えた。
「なんつーか……」
二人をちらりと見ると、四つの眼睛が俺を捕らえていた。慌てて目を逸らす。
「ちゃんと言ってフラれて来ましたよ」
一応断っておくが、言いたくて言ってるわけでは決して、ない。ただ、サイ子には言っておこうと思った。というか……知りたいだろうし、隠すことでもない、ただ向こうからは訊きづらいだろうからという理由だ。
「でもそれは関係なーいの」
ほっとしたような、しかし傷ついたような顔をしているのだろう。見なくても容易に想像がついた。だから、意識して軽く言った。
「じゃあ、自己嫌悪中の鏡弥さんに良いことを教えてあげましょう」
やはりうたのおねえさんみたいに、にっこり笑って歌うように言う。
「……なんだよ?」
芝楽は俺のすぐ前にいる。斜め後ろの彼女には分からないように、視線だけでサイ子を示した。
「考えて出る答えっていうのは、本当はもう分かってることなんですよ」
サイ子のことだ、と気付き、どきりとした。変になりそうな声を落ち着けて、平静を装う。
「芝楽、お前それ……自己嫌悪カンケーなくねぇ?」
と、搾り出すような声が響く。
「……きょ、ぉちゃん」
「サイ子?」
俯き気味のサイ子は、眉根を寄せたまま困ったような顔で続けた。
「あのね……その、金曜日は申し訳ありませんでした」
「え、そんな」「それで!」
言いかけた俺を押しのけて、一瞬だけボリュームを上げる。
「ムシが良いんだけど……無かったことにしてほしいの。無理なことはわかってるけど……ちゃんと、自分でけりはつけるつもり」
無かったことにって、と言いかけて、口を噤む。
「無かったことって言うか、待っててほしいの。あたしがけりつけるまで。」
その直線的な視線を射かけられ、ああサイ子だ、と思った。こっくりと頷く。
「分かった」
サイ子の言う通り、無かったことになど出来ない。ただ、待つというのはつまり、あれを「告白」と受け止めないでほしいということなのだろう。端からそのつもりは無かったから、異存はない。
と、そこでぽつりと声が落ちた。
「けりをつけるつもり、……ですか」
二人同時に、声の主を顧みる。無意識に零れたのか、振り返った俺達を見てびっくりしていた。
「あの……いえ、立派だなぁ、と。」
「芝楽の方が、立派だわ」
堂々と、逆に自慢するようにサイ子が言うのを、気恥ずかしいような困ったような顔で見る。
「有り難うございます。でも……貴女の様にけりをつけられず、うやむやのまま逃げてしまう人も、いますから」
「……どういうこと?何の話?」
芝楽のその何処か侮蔑的で吐き捨てる様な口調が、ぐっと刻まれた眉間の皺が、何より厭な物を見るような――しかし、哀しげな――透き通った茶混じりの瞳が珍しく、気になった。
顔を覗きこむと、はっとした様に頭をぴくりと揺らし、四、五回素早く瞬いた。一連の動作は小動物のようだ。
「まぁ……その話は兎に角。鏡弥さん」
詳しい話を聞けると思っていたところにいきなり名前を呼ばれたので、体ごとびくついた。
「えっ、な、何?」
驚いた俺を見て、大人びた優しい笑みを浮かべる。年月を見た気がした。
「今日はギターを持っていらしてないのですね?」
ああそのことかと、今更ながら思い至る。
「うん、ちょっと……。話が大きく戻るんだけどさ、今日俺は四月からの宿題を済ませたわけよ。」
わざと回りくどい言い方を選んでみたが、二人には通じているようだ。直接的な言い方はあまりしたくない話題であるので、有り難い。
「だから、丁度良いかなって思ったんだ。
……元々、二年になったらギターは休もうと思ってたんだ。ただ、色々あって結局続けちまってた。芝楽って聴き手がいるわけだし、弾いてもいいかなって……。
でも、そうすると此処に来る以外にも家で練習するわけだし……そろそろ受験のこと考えなきゃいけないのになぁって、周りの話聞きながら思ってたわけ。だから、半永久的に辞めるつもりだったりもしたけど……まぁそれはともかく、どっかで一旦止めなきゃいけないとはずっと思ってたんだ。
だから、これを機にさ、受験が終わるまで封印しようと思って。それに……何て言うか、ほら、折角だからたくさん話したいじゃんか」
最後の言葉に少しだけ恥ずかしくなって、照れ隠しに笑う。
空気が柔らかな熱を持った気がした。
「じゃあ、何話す?」
優しく笑ったサイ子は、俺と芝楽を交互に見る。
「あたしは、芝楽のさっきの話を聞きたいなぁ」
「あ、俺も!」
小学校の頃の様に、指先を空に突き刺す。太陽は既に落ち、少しずつ夜に転じようとしていた。
「さっき、って、あの立派だって言ったことですか?でも、話すと長いですし……良いんですか?本当に長いですよ?」
困り顔の芝楽に、二人でこっくりと頷いた。詳しい話を目でせがむ。ちらと隣を見ると、やはりサイ子も同じ目をしていた。
先程の表情から見ても、かなり昔の――しかも恐らくは生前の話であろうことは察しがついた。だからこそ、幾ら長くなろうとも聞きたかった。
そんな俺達を見て、観念したのか溜息をつくと、
「……わかりましたよ。では、」
とても……とても穏やかに、語り出した。
「昔の話をしましょうか」
§
明治に入る前のことです。
時は動乱の時代・幕末。
日本を変えんと、老いも若きも志を持った者供が国中に犇めいていたころに、一人の女が娘子を出産しました。
女の姓は"雪童子"――"緋雪神社"という神社の神主家でありました。神道の中でも、地域的にはそこそこに名のある一族でもあります。
雪童子の家は巫女の力が特に優れていると言われ、よって女系家族でした。
その頃は、女の母が雪童子家の頭首であり、女が次期頭首と決まっておりました。更には女には既にの五つ娘と二つの息子がおり、その娘がいずれ頭首になると決まっておりました。
しかし、次女を身篭ると、その次女について占っていた頭首が、このような神託を賜ったのです。
銀ノ華 地ニ降リル
咲カス花 大輪 薫ル香 芳シ
神ヨリ賜リシ 神喚ブ聲
偉大ニシテ 尊崇スベシ
銀の華とは、雪のこと。つまり雪童子の者を指す。地に降りる、つまり生まれる。そして「尊崇すべし」。
この神託を賜り、頭首は「次女は偉大な霊力を持つ者である」として、長女を差し置いて頭首候補としました。緋雪神社における巫女の中でも特に力が強いとされていたのが頭首でしたから、信じぬ者はおりませんでした。
それからというもの、次女は強大な力を持つ者として、歴代の巫女の中でも一番と言って過言でないほど、厳しい巫女修業を受けて育ちました。基本的に日々を神殿で過ごし、世間というものを知らず……ただただ社の中だけで、穢れが付くからという理由で頭首以外の人間とは殆ど顔を合わせずに過ごしておりました。
しかし、娘はやはり娘でありましたから、外の世界というものに憧れておりました。時に姉や兄から聞かされる話に眼を輝かせており、ついにある時、具合が悪いと嘘をついて寝間には身代わりの兄を据え、姉と社を抜け出しました。
それがまた上手くいってしまった為、娘は時々務めを休み、姉や兄の協力のもとに外界へ遊びに出掛けたのです。
恐らく、頭首も次期頭首も気付いてはいたのでしょうが、黙認していた。あまりに閉鎖的な教育に、必要なこととはいえ、同情していたのでしょう。
しかし、この外出によって、娘は一人の男を見初めることとなります。見世物屋の青年で、それ自体はとても他愛ないことで、しかし、引き起こされた事態はとても重大でした。
そうして一歳また一歳と過ぎ、流れ流れ、時、1867年。将軍家によって、大政奉還と王政復古の大号令が発されました。後の時代から見れば、あれが「時代」の節目だったのでしょう。翌68年から一年余り、新政府軍と旧幕府軍の壮絶な戦い……後の戊辰戦争が続きました。
その戦火が依然各地で上がる最中、新政府は「神仏判然令」――つまり、神仏分離令を打ち出し、国をあげて神道を信仰しようと定めた。それが後の廃仏棄釈に直接繋がってくるのですが……。
兎に角、そうして「神道こそが正しい」という考えが浸透します。
しかし、――これは私の考えですが――幕末から維新直後にかけての明治政府誕生の経緯に、戦闘と戦争が多くあった為、将軍家が自らその権威を朝廷にお返ししたとは言っていても、誰もが武力による革命と感じていたからでしょうか……儀礼を重んじる旧い宗教、すなわち仏教・儒教・神道など――それらは「既に時代遅れである」という風潮が生まれ始めていました。
「神道こそ正しい」という思想。
「神道なぞ時代遅れ」という風潮。
その相反する、正に矛盾した流れが、あの時代――即ち明治初期には、確かに存在していたのです。
雪童子の末娘、齢十三。
数多の神官一族にとっては非常に微妙で、尚且つ重要な時期でありました。
明治初期は、時代の節目と言うよりも、時代の"裂け目"でした。――戦争の傷痕が各地に、そして各人に深く残ったまま、異国から突如流れ込んできた文化。馴染みのない制度。二百六十余年続いた幕府の崩壊。新政府への期待と不安。大変な混乱の中、神官一族にとって正の思想――即ち政府側の思想に乗れるか。はたまた負の風潮――即ち民衆の風潮に押し流されるか。有力な雪童子の一族としても、それは例外ではなかったようです。
幸い……というべきなのか、雪童子は偉大な霊力を持つとされる娘を擁しておりました故、彼女を柱に神道の力を見せつけ、一族の安泰を図ろうとしました。
……このような背景のもと、娘は今まで以上に厳しく、厳格な指導に基づく巫女修業が課されたのです。無論抜け出すことなど不可能。……いえ、物理的には可能だったのかもしれませんが、一族の存亡が彼女の小さな双肩にかかっている今、抜け出すことなど、娘の姉や兄も含め、誰もが考えなかったでしょう。
そう……いるとすれば。
娘、一人。
――巫女という存在の仕事は多岐にわたりますが、基本的には祭事の取り仕切り、祈祷、神託が主です。その中でも力の有無が顕著に顕れるのが、神託です。
娘に求められたのは、それでした。
神の聲を聞く。
神を喚ぶ。
色々な言い方があれど、つまりは預言者としての力でした。
しかし。
68年――つまり明治元年に打ち出された神仏判然令を受け、一心に身を神に捧げたのでしょうが、一年、また一年過ぎても、彼女には神の聲は聞こえてきませんでした。
結局のところ、彼女には「神を喚ぶ」力など、ありはしなかったのでしょう。
そして、もう一つ。
彼女は、かつて見初めた相手が、忘れられずにいたのです。
彼女は――どうしても、会いたかった。会って話がしたかった。一度でいい、一度でいいから。そうすれば、断ち切れるから。
神仏判然令から二年。彼女は決心していました。
それは確かに逃げであったし、甘えであったし、私欲によるものでありました。しかし、しかし、決して、一族を、家族を想っていなかったわけではないのです。
彼女は、とある空白んだ頃に、神社を抜け出しました。そうして、あの若者に会いに行きました。
幸い見世物屋は場所を変えておらず、また会うことが……いえ、『目にすることが』できました。
何故……何故あんなにも、恋しいと思ったのでしょうか。それは今でも分かりません。しかし……確かに、私はあの眼が、欲しくて堪らなかったのです。
彼を見て、決心がつきました。
そして、1870年の初秋――私は橋から落ちて自殺しました。
§




