#04 私という存在
「死んでる……」
意味が分からず、鸚返しに呟いた。
死んでいる?誰が?……芝楽が?
「な……に、言ってるの?貴女、死んでいるって、そんな、」
「私が死んだのは、1870年……明治政府による統治が始まった頃です。政府が一世一元の制を打ち出し、年号を明治と改めてから三年目、つまり明治三年のことです。」
飽くまでも淡々と、早すぎも遅すぎもしない速度で語る。段々と頭の中で、芝楽の言葉が処理され始める。そこから垣間見える事実が信じられなくて、完全に諒解する前に急いでまくし立てた。
「ちょ、ちょ、待てよ!死んだ?いつ?…お前、いま生きてるじゃねぇか!」
「生きている人間の手が、こんな風に崩れたりしますか?崩れた先が跡形もなく消え去ったりしますか?」
無表情のまま彼女が持ち上げた右手は、石像のように砕けた切断面を境に、消えて無くなっていた。
――掴んだ、と思ったのは一瞬だった。コンマ一秒よりもずっと少ない時間。……次の瞬間には俺は空気を掴んでいた。目が無かったら、掴み損ねた――掴んだと思ったのは気のせいだったと考えたろう。
しかし、そう考えなかったのは、彼女の手が、触れた瞬間さらりと乾いた砂のように崩れたのを見てしまったから。掴んだ手首から、触れていない指先まで何かになぞられたようになめらかに輪郭が曖昧になって、そうかと思ったらもう空気に溶けて、破片の一粒も残らなかった。
「それは……俺が触ったから、なのか?」
知りたくない、聞きたくない。
そうは思っても、やっぱり、と期待して。
やっぱり、違うんじゃ。
ただの思い込みなんじゃないか。
そんな期待をしてしまって。
……すぐ、後悔した。期待なんかするんじゃなかったと思った。
芝楽の表情が、生気のない無表情が、揺らいだ――悲しげに、揺らいだから。
「俺のせい、なんだな」
背筋が伸びた。
頼りなげな彼女の表情を見て、しっかりしなければと諒解した。
真っ直ぐに見つめると、所在なさげに視線をコンクリートに落としてから、伏し目がちのまま斜めに逸らした。
「……いつかは起こることでした。貴方には責任などありませんし、負い目を感じる必要もありません。これだけ長くいれば、避けられないことでした。責任は私にあります。こうなることを分かっていて、貴方に話しかけるべきではなかった。」
「なんでそんな、よそよそしい喋り方なんだよ」
「そんな……ことは」
「なんで目ェ逸らすの?」
「鏡ちゃん……」
斜め後ろにいたサイ子が、Tシャツの裾を小さく握った。
「なんで、そんな暗い顔してんの?芝楽ってさ、いっつもくるくる表情変わって、笑ったり慌てたり忙しないやつだなぁって思ってたんだよね、俺」
「鏡弥さん?何言って……」
「だからぁ、お前が死んだとか死んでるとか明治とかよくわかんねぇけど、話すんならもっと『らしく』話してくんねーかなっつってんの!」
なんだか言ってて元気が出てきた。自分の言葉に自分が励まされる感覚。そうじゃん、そうだよ、って納得する。
俺が徐々に自信を持っていくにつれ、芝楽は逆に目に見えて狼狽え始めた。「狼狽える」よりも「おろおろする」の方が似合うかもしれない。
「シリアスな話ならそれでも良いけど、悲しい顔なり真剣な顔なりして話せよ。ちゅーとはんぱに無表情で喋りやがって……お前誰だよ!?とか思うじゃねーか」
「でも、あの、分かってます?私、死んでるんですよ。人間じゃないんですよ?」
「はぁ?知るかよ。なんか右手も痛くはないみたいだしさぁ、初めて会ったときと変わったのってそこだけじゃん。いつ死んだとか知らないけど……お前はやっぱり『芝楽』だろ」
言ってやったとばかりに鼻を鳴らす。芝楽は泣きそうな顔をしていた。女の子の泣き顔はやっぱり嬉しくはないが、無表情よりはずっと『らしい』表情だった。
「で、でも、わたし、幽霊なんですよ?明治時代の人ですよ?」
「あああああっもうしつこいな!ほら……さっき言ったろ、失くしたくないものがどうとかなんとか……」
ついつい声が小さくなる。なんでこんなことまでこいつに言わなきゃならないんだ。しかもサイ子の前で。
全部芝楽が悪い。物分かり良いくせに今だけやたら意固地なこいつが悪いんだ。
「だからぁ…一番はよくわかんねぇけど……その中には、こういう……三人でいるのとか、芝楽のこととか、だから、そういうのも入ってるから……その……」
「鏡ちゃん、何言ってるの?」
サイ子、突っ込まないでクダサイ。そして芝楽、泣きそうなくせに今だけきょとんとすんな。
ああもう!
「だから!お前も俺の『失くしたくないもの』で、今更お前が何者だろうとそれは変わんねぇって言ってんだよ!」
は、恥、ず、か、し、い。
あああ耳が!熱い!顔とか!恥ずい!
芝楽が悪い。全部芝楽が悪い。ああ涙滲んできそう。とりあえず全力で俯いた。
と、Tシャツを掴んでいた手が離れる。顔を向けると、真剣な顔のサイ子がいた。
「私も、鏡ちゃんと同じ意見かな。……芝楽さ、『話し掛けるべきではなかった』って言ったよね。それは、出会わなければ良かったってこと?」
漸く顔をあげると、やっぱり泣きそうな顔の芝楽がいた。だが、その顔はすごくへなちょこで、嬉しさがじんわりと滲んでいた。
「あたしは、芝楽に会えて良かった。友達になれて良かった。今そう思ってるし、多分この先もそれは変わらないと思うのよ。……だから、」
不意に、サイ子の声が震えた。
「あんまり悲しくなること言わないでよぉ……」
そうしてはらはらと泣き出す。
それを見た芝楽も、ついにぼろぼろと泣き出した。小さい子のようにしゃくり上げて、左手で顔を覆って泣いた。
「なんでえ……二人、とも、そんなに優しいんですかぁー!普通ユーレイとか、ひっ、怖いでしょーがぁー!それを……ひく、友達とかぁ……」
ぼろぼろと涙と言葉が零れていく。ああ、失くさずに済んだのだと安堵する。
「……あのさ、二人ともそろそろ泣き止んでもらえる?俺ね、流石に困ってるんですけど……女の子二人に大泣きされて」
「ああっ!ご、ごめんね!」
慌てて涙を止めようとするサイ子を見ながら、わざと触れなかった。芝楽に触れられないなら、二人共に触れないべきだと思った。別にそれは同情とか優しさとかじゃなく、きっとこういう時はこうするものなんだろうと思ったからだった。
「気が済んだか?」
「なんとか……」
涙目ながらすっきりした表情のサイ子と、まだ鼻をぐずぐず言わせながらも頼りない笑顔を見せている芝楽を見て、一旦コンクリートに座る。二人もすとんと座った。
その勢いついた様子を見て、ふと疑問が浮かぶ。
「地面は、触っても大丈夫なんだな」
「ええ、何故か。」
考えるように視線を宙空に漂わせたのち、俺達を見る。
「折角ですから……この百年余り私が考えていたことでも話しましょうか」
ひゃ、ひゃくねん?いや、単純計算しても約百四十年前に死んでるわけだ。
「聞きたい!」
「俺も聞きたい……が、その前に事実確認しとかないか?」
二人の視線が集まる。
ええと、と一瞬頭を整理した。
「お前は約百四十年前に亡くなった。今は幽霊……なんだよな?」
「その呼称が適切かは判断しかねますが、概ね正しいと私は思っています」
確かに、幽霊の定義なんてものはない。なんたって死んだ後にどうなるかなぞ皆知らないのだ。死んでからだって、自分のことしかわからない。他と比べようがないのだから、「幽霊ですか?」と訊かれても「そうなんじゃないかと思ってますがねぇ、実際のところはどうだか」なんて答えるしかないだろう。
「……んと、じゃあ人間恐怖症だったってのは嘘なんだな?触られない為の」
「そうですね。触られない為というより、長いこと人と話していなかったことと、恐らく常識にズレがあること、触られそうになったら必死で避けてしまうだろうことなんかをおかしく思われない為に、一番簡単な設定は人間不信かなと思ったんです。最初は今もーって通すつもりだったんですけど、性格的に人間不信の役は無理があると思ってこっそり言い換えました」
赤い目のまま悪戯っ子のように笑う。
「まぁ人間恐怖症ってのも十分おかしいと思ったけどなぁ……」
横文字が弱いのは、普通に明治の人間だからだろう。
「あとさ。たいてい此処にいるっていってたけど、もしかして行動可能範囲狭い?」
「ああー……私って地縛霊なんですかねー。動けなくはないんですけど、不思議と動きたくないんですよね」
自分で「地縛霊なんですかねー」って。まあ仕方ないけども。変な会話。
「それでも大体は覚えましたよ、太陽暦とか六十進法とか。結構箱入り娘だったのでそもそも生前も世間に疎かったですから、慣れるのは苦じゃありませんでしたよ」
「日本の歴史とともに幽霊やってんだもんな、タイムスリップしたわけでもないし……ああ、ま、こんな場所に篭ってたら『タイムスリップ』とか分からなくても不思議じゃないけどね」
きょとんとした顔を見て、すぐにフォローを入れる。
「それで……ずっと此処から動かずに、百余年考えていたことって?」
サイ子が切り出した。芝楽は、いつものように笑って話し出した。
「私という存在についてです。」
*
「死んでから、気付くとこんな幽霊だかみたいな状態になっていました。その時の驚きやら何やらは割愛しましょう。
色々と試した結果、無生物並びに植物はすり抜けるようです。動物は試したことがありませんが……砕けたりするのは人間だけのようですね」
「……無生物と生物で分かれるならともかく、植物も平気とは……なんというか、主観的な区分だな」
人間は、植物が自分たちと無生物とどちらに近いかと言ったら、無生物に近いイメージを持っていると思う。そういう意味で『主観的』だと思った。
「あと、飛んだりは……出来ないと思います。というか、宙に浮く方法がよく分からなくて。重力を受けてる感じはないんですけど……あ、でも何かに躓いて転ぶことはあります。怪我はしませんけど」
そういわれてみれば、さっきも転んでいた。だが、幽霊に重力……は、ないよなぁ。
「大体、どうしてすり抜けたり毀れたりするのかしら……人間もすり抜けられた方が自然な気がするけど」
「『何故人間に触れると、すり抜けるのではなく消えるのか』ですよね。それは私に、二つの考えがあります。
一つは、私のこの状態が『無生物並びに植物より確か』で『人間より朧』な存在であるという考え。人間より朧だから、人間に触れられると消えてしまう……。しかしすり抜けるというのも不思議です。それなら触れられるような気がしますからね。
だから、二つ目を考えました。それは『無生物並びに植物には感知されない』から。そして……『死んだ人間と生きている人間は相入れない』から。」
どきり、と心臓で嫌な音がした。
分かるような気がしてしまったからだ。そしてそれは、そのまま芝楽と俺たちに当て嵌まるからだった。
「それから、消えることについても考えがあります。…私が『人間に触れると消滅する』と知ったのは、結構最近です。二、三十年くらい前でしょうか」
最近って。俺ら産まれてねーよ。
「その時も、一人の男性がふらっと来たので、話し掛けてみました。……何を話したのか。どんな反応をされたのか。全て……全て忘れてしまいました。」
それは何故か。
分かる気がする。つまり……ショックが大きかった、ということなのだろう。
「覚えているのは……彼が触れた羽織りの裾が、ぼろっと崩れて……かと思ったら、空気に溶けるみたいに消えて無くなりました。その時、直感したのです――私自身も、この羽織りと同じだと」
一瞬眉が顰まる。その時の恐怖が思い出されたのだろう。
「羽織りは捨てました。そしたら案の定、手を離れた途端に崩れて消えました。中心――それが心臓なのか頭なのか分かりませんが――から切り離されると、形を保ってはいられないようです。そして、それは手足でも例外ではない……先ほど、皮肉にもその考えが証明されたわけですね。」
「ちょ、ちょっと待てよ」
彼女の砕けた右手を見て、最後の言葉にきりりと痛みがはしる。
「触れたら砕けて、中心から切り離されても消えるんだろ?それって――」
言葉を飲み込む。怯えたようなサイ子の声が後を継いだ。
「――もし、中心に触れてしまったら?」
神妙な顔の芝楽は、遠くのコンクリートをねめつけながら、呟くように答えた。
「仮定が正しければ――
――私という存在が、消える」
ぞっとするような、不吉な悪寒が空間自体にはしった。芝楽の手首が儚く無情に、一瞬で消えていくのが蘇る。
恐ろしかった。
「じゃあ、また明日も来るね」
結局ギターを弾くことなく、帰ることとなった。
いつまでも手を振っている芝楽をもう一度振り返ってから、前に向き直る。
と、芝楽のもののような、
「…っと…く、そ…する……だっ…」
声。
振り向いたが、もう芝楽は闇に消えていた。
§
死んだ者と生きている者は相入れない。
それは自分が出した答。
分かっている。
……分かっている。
だから。
明日。
決意を固め、それと同時に言葉がまろび出る。
「もっと早く、そうするべきだった」
分かっていた。
――大丈夫、明日ならできる。
そう思った。
§