#03 嘘
「ぅあっつい!」
耐え切れずに吠えると、叫びは教室内にこだました。
「いーだーぁ、叫ぶと更に暑くなるぞー……」
指摘する声も力無い。
――気付けば、季節は夏を迎えていた。
サイ子を芝楽に初めて会わせた日から、二週間が過ぎた。初夏だ初夏だと思っていたら、ばっちり夏は到来していた。道理でやたらと暑いわけだ。
我が校は、公立高校の極寒たる懐から、どうにかこうにか捻って捩って搾り出した費用により、ようやくクーラーが各教室に設置された。当然の如く生徒は喜んだわけだ、
が。
「安物買いの銭失い?」
「お前……ただの故障だって。来週には直るつってたじゃん」
つまるところ、故障して動かなくなったのだ。
クーラーの恩恵を享受したのちには、暑さは更に俺達に重苦しくのしかかっていた。
「鏡ちゃん、その髪見てるだけで暑苦しい……切りなよ」
「うーん……それは正論なんだが」
「括りなよ」
「ゴムが無い。サイ子貸して」
「あたしだって余分には持ってないわよ」
なんとなく襟足を伸ばしている髪は、中学の途中から定着し、今はそれ以上短くするのは不安になるくらいだった。だが、夏はやっぱり、暑い。
首筋にべったりと張り付いた髪の毛は、うっとおしい以外の何でもなかった。
「あつい………い」
せめてと机に突っ伏すが、机の表面は期待したほど冷たくはなかった。それでも起き上がる気力もなく、ぐったりと机に体を預ける。
今週中には直らないと思うと、ますますげんなりした。
と、背後から高い声。
「いいだっ、ゴム貸してあげよっか?」
突っ伏したまま振り返ると、クラスの女子が三人。ああ、女子はスカートだから良いよね。でもなんで髪そんな長いのに結ばないんだろ……。
朦朧とした思考の後、ようやく言葉の意味を理解した。直ぐさま体を起こす。
「貸りる!」
ぱっと手を出すと、にこやかに「結んであげるよ」と言って近付いてくる。まぁ確かに髪を結んだことなど殆ど無いし、女子は髪を弄るのが好きだったりするからと思い素直に前を向いた。
「髪べたべたしてるでしょ」
「そんなコトないよぉー……出来たぁっ」
「お、さんきゅ」
女子が一歩下がる気配がして、首筋を風が撫でた。大分すっきりした。
「ありがとねー、帰りに返すわ」
笑ってそう言うと、女子たちはきゃいきゃい姦しく笑いながら、どういたしましてとかわかったとか返した。
笑いかけると、たいていきゃいきゃい言われる。多分好意を持たれているのだろうが、きゃいきゃい笑っている女子の中で何人が本気で好意を持っているかと言えば、二人いるのかどうかといったところだろう。五月蝿い鳥が囀るみたいに笑う女子は、みんな、真剣に好いてくれているわけではない。
それに不満があるわけでは全くないが、別に特別嬉しいとか恵まれてるとか思ったことはない。……笑顔を向けたら嫌がられるとかよりはマシだろうが。
だから、友達が「いいよなぁ、飯田は」と言うのが理解できないし、サイ子が「女子と仲良い」と目くじらを立てるのも不可解だ。
だから。
「サイ子ー、みてみて、結んでみた!」
「……………ふぅーん、ヨカッタネ」
「なんで棒読みなのさ」
「別に?」
サイ子が不機嫌になるのも分からない。
*
最後の授業が終わった時、俺はある重大なことに気が付いていた。早急に手を打たなければならないことだ。何故こんなギリギリまで気付かなかったのかと自分に舌打ちしながら、教科担任に儀礼的一礼をしたあとで慌ててサイ子のものへと駆け寄った。
「ちょっと」
それだけ言って手首を掴み、廊下へ引っ張っていく。
「ちょ、ちょ、何?」
よく飲み込めていないらしいサイ子を廊下に出してから、教室から少し離れた。みんな帰りの支度をしているのだろう、教室からは誰も出てこない。それを良いことに、俺は重大な話を切り出した。
「サイ子、助けてくれ」
「何、何なの?一体何を?」
「お前にしか頼めないんだって」
状況が分からず慌てているサイ子の目をひたと見据え、俺は言った。
「教えてくれないか」
「……鏡ちゃん?何、を?」
慌てが収まったらしいサイ子は、どこか血の気がひいたような顔をしていた。薄々感づいているのだ。
「だから、その……――」
「本当に、汗べたべただけど…このまま返しちゃっていいのか?」
「いいよいいよ、気にしないでー」
言葉尻を奇妙に吊り上げて鷹揚に笑うその女子。髪の毛が多くて長いのに、結びもしていない彼女。そんな彼女に、俺は笑顔で言うのだ。
「サンキューな、『石川』!」
「信じられない、ほんとに」
帰りぎわ、サイ子は説教臭い口調で述べていた。
「真剣な顔して『あの人、名前何だっけ』だよ?まさか、一学期も終わるってのに……クラスの子の名前覚えてないなんてね!」
「ちがっ…名前は覚えた!顔も!ただそれらが一致しないだけだ!」
ああ、全然自慢げにいうことじゃないよ俺……。
「あーあ、可哀相な麗乃ちゃん。鏡ちゃんにアピールしてんのに覚えてもらえてなかっただなんてぇ」
わざとらしく長いため息に、むっときて言い返す。
「別にアピールなんかされてねぇし。石川は俺のこと好きでもなんでもないよ」
妙に真剣な物言いに驚いたのか、きょとんとした顔で見つめる。
「……そんな風に思ってたんだ?」
「意外?」
「うん……不愉快?」
「そんなことねぇよ。きゃいきゃい言う相手がいたほうが楽しいってのは分からなくもないし、本気じゃないってわかってる分、楽なのかも」
不意に、足音が小さくなった。二つあった足音が一つに減ったのだと気付く。振り返ると、俯いたまま立ち止まっているサイ子がいた。細く色素の薄い髪は、今が夕焼け時ならきっとその日差しに溶けてしまっていただろう、と思う。
「……サイ子?」
聞こえてないのかと不安になる。それほど身動きがなかった。
「サイ子?」
もう一度呼ぶ。慎重に近付く。
慎重に?何故?早く駆け寄ればいいのに。それができないのは、それは――
ぱっと上がった顔は、明るい笑顔だった。
「ごめんごめん、コンタクトがズレちゃってさ」
「……っなんだよ、急に立ち止まるから驚いたろうが」
「ごめんってばー」
陽気に笑って謝る彼女は明るく楽しげで……なのに、どこか昏かった。
よく、太陽のように笑う、と言うけれど、今のサイ子は太陽は太陽でも、夕日のようだった。沈む直前。真っ暗闇になる直前に、作り物みたいな赤を纏った太陽。
「……サイ子?」
不安な声が出た。一瞬、この声も届かないんじゃないかと思った。
「鏡ちゃんは、さぁ。女の子が本気かそうじゃないか……分かるんだ?」
なんでもないような声。しかし、どこか張り詰めた空気。嫌な汗が伝った。
きりきり。
音がする。
「本気じゃないってことしか分かんないよ」
きりきり。
きりきり。
嫌な音。
切れる寸前の弦の声。
「そう……だよね。鏡ちゃん、告白されて驚いたりしてるしね。」
「まあ……。だって、本気だったら隠すだろ、こう、気付かれないように」
「……そう。隠すの。だから、鏡ちゃんは気付かない。……でもね、なんで隠すと思う?ううん、なんで隠してるのに結局告白するんだと思う?」
気付けば、いつの間にか嫌な音は止んでいた。
緩んだわけでもなく、ただ、静寂。
それはつまり。
「伝えたいからだよ。伝えるのはね、気付いてほしいからだよ。ねぇ、分かる?隠してても、本当は気付いてほしいんだよ?……鏡ちゃんは、違う?」
どきり、と脈の音が煩く鳴った。
「彼氏がいるの分かってて…分かってるから、黙ってた。隠してた。気付かれないように……。 でもね、本当は違うんじゃない?本当は気付いてほしかったんじゃない?自分からは言えないからこそ……気付いて、応えてほしかったんじゃないの?」
脈拍が耳障りなほど煩く鳴っていた。まるで火事を告げる半鐘のようだ。
……気付いてほしくなかったなんて、そんなわけ、ない。
応えてほしかった。有り得ないと分かっていても、捨てられなくて、ただ見つめていた。
「見つめていられれば良いとか、傍にいられれば良いとか、友達でいられれば良いとか……全部、嘘。
そんなわけない。全部虚構。建前。偽善。そんなに人間、美しくないでしょ?
本当は、もっと自分を見てほしい、誰より近くにいてほしい。
友達なんて、そんなの、
……いやだよ……」
ぼろっと零れ落ちた、大粒の露。きらきら光る。動揺し狼狽する俺の傍らで、石の上の露をダイヤモンドに喩えた俳句が在ったなどと思い出す俺がいる。
無理だと分かっていて尚、諦めきれない。諦めた振りをして、心の中で「俺を見てくれ」と叫ぶ。
知ってる。その気持ちは、知っている。
でも、彼女の喉から溢れる言葉は、俺なんかよりもっとずっと切実で、強くて烈しかった。
「ねぇ、なんで気付かないの。気付かなくていい、気付かないで、なんて、全部嘘だよ。気付いてほしいよ。当たり前でしょ?
――ねぇ、気付いてよッ……!」
絞り出すような声とはこういうものかと戦慄する。か細く、儚く、けれど強靭な力。ぞっとするほど、必死な声だった。
彼女はそのまま片手で頬と眼を拭い、走り去った。声だけが耳に残って谺する。
その意味を、分かっていて必死に理解を拒んでいる俺が、そこにいた。
夏だというのに、流れゆく一筋の風は不思議と冷たい気がした。
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to:サイ子
title:(no title)
とりあえず、
色んな話抜きで
芝楽の所に行きませんか。
今日の七時にあの場所へ
行きます。
来れたら来てほしい。
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「メール送信完了」の文字が、ディスプレイに浮かび上がる。それを、ぼけっと見つめていた。
今は午後五時半。あと一時間以上ある。それまで何をしようかと、暇を持て余し、結局携帯をいじくる。何も考えずにいると、メールの受信ボックスに辿り着いていた。過去の受信メールをぼんやりと流し読みしていく。不毛で非生産的な行為は、この世界の意義有る行為の全てを馬鹿にしているような気がした。
俺が今メールを送ったのはどうだろう。生産的な行為なのだろうか。意義があるのだろうか。……意味はある、と思う。ただ、意義があるかは分からない。そもそも、意味と意義の違いを知らなかった。
――学校帰り、サイ子が俺を置いて帰ってしまった、あの日。丁度上手い具合にとでも言うべきか、あれは金曜日のことだった。今はその二日後――つまり、日曜日。
学校で下手に顔を合わせる前に、一度二人で話すべきだとは思っていた。が、いざ話すとなると、何と言って呼び出せば良いのか、呼び出した後何を話せば良いのか分からなくなってしまったのである。そこで思い付いたのが、「芝楽のところに行く」だった。
多分、学校で会っても彼女は普段通り、何事もなかったかのように振る舞うだろうし、そうされたなら自分も何事もなかったかのように振る舞ってしまうだろうと思う。そうなったら、きっと今まで通りでいられるだろう。
……でもそれは、一瞬のこと。
今、ちゃんと掴んでおかないと――何を掴んでおくのか分からないけれど――、取り返しがつかないような気がして、怖かった。
俺は、臆病者なのだろう。
臆病者でも構わない。失くしちゃいけないものを、失くしたくないと思えるなら。
ああ、だけど……失くしたくないものって、何だっけ?
前までは……古井に対する感情だった、と思う。だけれど、この間ギターをやめようとした――結果的にはやめなかったが――時に、それは捨てようと考えた。失くしたくないと思いながら、頭では捨てるしかないと考えていた。
今は、何を失くしたくない?
一番失くしたくないものは?
古井は関係無いことは、分かっていた。「友情」だとか、そんな簡単なものでもなかった。複雑で、よく見えない。
失くしたくないのは確かなのに、「それ」の存在は痛いくらい感じてるのに、何なのかわからない――それ、どういうことだよ、ホント。
「ああっもう、こういう時はぁー!」
わざと騒がしく立ち上がる。ギターケースをひっつかんで部屋を飛び出した。
*
「……で、此処にいらしたのですか?」
頼られたのが嬉しいらしい顔をして、しかし少し呆れたような表情で、芝楽は俺に笑いかけた。俺も、さっきまで悩んでいたのが嘘のように晴れやかな笑顔を向けた。
「困った時の芝楽サンだろー?」
「いやいやいやいつからそんな肩書が」
「今付けた」
「思い切り即席じゃあないですかっ!」
盛大に突っ込んでから、額に指先を当てた大人びた仕草で息をついた。
「まぁ、古井さんのことは他の人に相談できませんしね」
やっぱり、変な所で大人っぽい。
「……っていうか、古井が関係あるのかもよく分からないんだけど。」
何を捕まえておきたいのかも。
何を悩んでいるのかも。
全て自分のことなのに、分からないことばかりで。
「もどかしい?」
心を読んだかのような一言に顔をあげると、それを合図にしたかのように、少女は俺の前にちょこんとしゃがみ込んだ。それは、座り込んだ俺と目線を合わせようとしてくれたのだろう。
俺を見つめている芝楽の眼を見つめる。
色んなものが見透かされているような気がしたけれど、芝楽なら嫌でもない、と思う。透き通った、茶色がかった瞳が綺麗だ。
今更だが、髪といい瞳といい肌といい、色素が薄いような気がする。それは生来のものというより、長い年月で色が抜けてしまったようにも見えた。もしくは色素を取り入れる前、つまりこれから黒くなる――そんな気もした。
「……もどかしい、ってんじゃない、と、思う。どっちかっていうと、情けないとかのが近いかも」
下手すれば弱音……いや、どう聞いても弱音以外の何物でもないそれを聞いて、しかし、芝楽は優しくにっこり微笑んで、言った。
「それじゃあ、一度きちんと整理してみましょうか。人に話すと意外と冷静に確認できるものですよ」
幼稚園の先生みたいだな、と思う。それじゃあ俺は幼稚園児か、と考えて可笑しくなった。
「ぐちゃぐちゃでも構いませんから、貴方の頭や心を埋めているものを一つ一つ話して下さい。私、聞きますから。」
「うん……じゃあ、聞いてください。」
息を吸う。夏の夜の涼やかな空気が肺に触れた。時間を遡る。
「……まず、俺は、四月に古井に会って、結構すぐ好きになった。サイ子とは長い付き合いで、親友……みたいなものなのかな。でも、古井は彼氏がいて……二ヶ月悩んだけど、結局諦めることにした。……でも多分、諦めきれてないんだよなぁ。
それで、芝楽に会って、あと近頃サイ子の様子がおかしいなって思ってた。で、昨日、サイ子は俺が古井のこと好きだった……いや、今も好きなこと知ってて、その上でサイ子は……多分俺のこと、が、好きらしい……みたいなことを、言われた。サイ子に。
……で、それに何か言わなきゃって思って、とりあえずメールで呼び出したんだけど、何を言えば良いのか悩んで……そのうちこんぐらがってきて、芝楽に助けを求めに来た。」
とりあえず全て言ったが、整理された気もしない。だが、芝楽はそう思ってもいないようだった。
「ふむ……。つまり、鏡弥さんが悩んでいるのは、」
そこで「いち」と言いながら指を一本たてた。右手の人差し指だ。
「古井さんを諦めたいが、諦めきれていないこと。」
「に」の掛け声で二本目が立つ。ピースサイン。
「サイ子さんの気持ちを知ってしまったこと。」
クイズの答えを教えてもらうような気持ちで「さん」という言葉と共に三本目の指が立つのを見つめる。
「自分はサイ子さんをどう思っているのかということ。」
さて四本目はと構えていたところに、「以上三点です。」と締められてしまった。拍子抜けして、自分のことなのにも関わらず、つい
「え、それだけ?」
と訊いてしまった。芝楽はこくりと頷く。
「いや……俺はもっとさ、複雑な」
言いかけて、笑顔の芝楽にストップをかけられた。
「複雑に考えるから複雑に思えるんですよ。一人で考えると、突き詰めていくつもりがとんだ袋小路に迷い込むことが多々あるのです」
意外と言い返せない。確かに、とんだ袋小路に迷い込んだような感覚だった。
……しかし。
「でもさ、俺は……なんで俺は金曜日のことを放っておかないのか……放っておいちゃいけないと思ったのか、それが分かんないんだよ?自分のことなのに……。」
そう、だから、それが一番悩んでいることなのだ。そう……なんで放っておかないのか。何を掴んでいたくて……
また頭を抱えそうになった俺をして、芝楽はあっさりと言った。
「それは、三番目に帰着しますね」
「え?」
絡まった電気コードのようにぐちゃぐちゃの俺の思考を、ばっさりと切ってほどくような物言いだった。
「考えてみてください。貴方は、『何故サイ子さんの行動を放っておけないのか』という命題について悩んでいる。それはつまり、貴方がサイ子さんをどう思っているのかという命題に帰着するでしょう?」
……言われてみれば、確かにそうだ。
「そして、三つのことは一つに帰着します。それは――サイ子さんの言葉をどう受け止めたらいいか。それで悩んでいらっしゃるんでしょう?鏡弥さんは」
「……なんか、それってつまり、すごく単純な悩みだった……ってこと?」
若干……いや、普通に恥ずかしい。大人びているとはいえ明らかな年下に単純な悩みを持ち掛けてしまったわけである。蓋が開かないと瓶を持って行ったら、回せば簡単に取れたと分かったときのような感覚だ。しかも中学生に……。「これ全然開かないんだぜ」「回せば開きますよ?」みたいな。……考えたら更にダメージが深くなった気がする。
「まぁ、バラバラの悩みが一つに纏まっただけで、まだ悩みは解決してないわけですし……その悩みは私もお手伝いできませんしねっ!ねっ!」
うおお、思いっきりフォローされてる……。優しさが痛い……。
「でも……」
急に変わった雰囲気に気を引かれ、顔を向ける。彼女は既に立ち上がって歩き始めていた。
そういえば、初めて会った日も歩き回っていた。歩きながら話すのが好きなのかもしれない。その様子は、妙に似合っていた。
「もしかしたら、じっくり悩めば良いのかもしれませんね」
「どういう意味?」
ふと気付いたが、もしかしたら俺、このコスプレイヤより頭が悪いかもしれない。
「いえ……貴方が来てすぐ仰った話では、告白というより、一時的に昂った感情をそのままぶつけてしまったような形でしょう?鏡弥さんのあまりの鈍さに、つい」
「一言多い。それは俺も今反省中だ」
「いえいえそんな……。」
何がいえいえなのか。
「ですから、きっと今頃サイ子さんは頭を抱えてると思います。」
そう言うが早いか、頭を抱えて苦い表情を作った。
「あんな言い方するつもりなかったのに!ずっと言わないつもりだったのに……とまぁ、こんな具合に」
あっさりと普通の表情に戻り、手を広げる。なんだその小芝居。
「言わないつもりだったのかなぁ………そりゃそうか」
理由を思いたって自分で呟く。サイ子は俺が古井を好きだと知っていたのだから。
「サイ子さん、きっと貴方にどう思われたのか、すっごく気にしてます。発熱するんじゃないかってくらいに。……恋する女の子はね、可愛いんですよ」
うたのおねえさんみたいな顔で、芝楽はにこにこと笑った。
それを聞いてようやく普通の感覚が戻ってくる。そうじゃん……よく考えたら、サイ子っていつから俺のこと好きだったの?てか何処が好きなの?なんで?
「つーかぁ…考えたら恥ずかしくなってきた」
「あははっ、鏡弥さん顔赤いですよー?今何時です、サイ子さん来ちゃうんじゃないですか?」
芝楽の言葉にはっとして、携帯を取り出す。着信・新着メールなし。時間は六時四十八分だった。
「あーあーあと十分くらいで多分来る……っていうか、来るかな?」
「来ますよー。誘いを放置して平気でいられる人ではないですもの」
確かに。いやでも今のサイ子は興奮してるかもしれないから……いや、あれから会ってないけれど、もう二日経っている。落ち着いているに決まってるか。
「案外こう……飄々としてたりな」
「ありえなくもないですねぇ」
折角だし、サイ子が来るまでギターを弾こうと思った。ギターケースを開けて、そっと取り出す。立ち上がった。
とりあえず軽く音の確認をしようと思った時、芝楽が目の前で何かに蹴つまずいた。
一瞬、やっぱりこいつも中学生の女の子なんだなぁなんてよく分からないことを考えた、気がする。感じた、の方が近いか。本当に刹那のことだ。
それと同時に、反射的に手首を掴んで支えようと、手を伸ばした。
*
「どうしたの?来てみたら、二人とも黙って…」
「サイ子!」
多分、俺は泣きそうな顔をしていた。
「鏡ちゃん?」
「サイ子、俺……」
金曜日のことなど、頭から吹き飛んでいた。ただサイ子に縋りたい気持ちだった。
「どうしよう、なんで、こんな、」
芝楽を見た。
正確には、その右手首を――いや、
『右手首があった場所』を。
隣でサイ子が息を呑んだ。
芝楽は黙っている。表情は見えなかった。視線は一点に釘付けになっていた。
俺は、芝楽の右手首を掴んだ――掴もうとした、自分の右手を見る。そこには何も残されていなかった。
しかし、芝楽の手首から先は、石像のように砕け落ちていた。
「どう、いう…なんで、なんでこんな、触っただけで……人間の手が、砕け、てっ……!」
激しく狼狽した俺の肩を、サイ子の小さな手が支えた。それで、少しだけ安堵する。しかし、すぐにその手が震えているのに気がついた。それでも彼女は、毅然と言う。
「芝楽……その手は、どういうこと?」
ようやく手首から目を離し、芝楽の顔をみた。宵闇に溶け込みそうなほど、暗く悲しい顔をしていた。
「いつかは分かってしまうと思っていました……嘘はばれるって。ごめんなさい。」
芝楽の言葉一つ一つに頭を揺さぶられるような感覚を感じながら、俺の中の誰かが言った。
ああ、瞳が。やっぱり透き通るみたいな茶色をしてる。
「私、随分前に死んでいるんです。」