#02 黄昏時にて
「ごっ、ごめんね!」
そう言いながら慌てて玄関から現れたのは、もちろんサイ子だった。インターホンを押して「ちょっと待って!」というやたら切羽詰まった指令を下され、待つこと一、二分。まさか何十分と待ちぼうけを食わされるかと危惧した割に(当たり前だが)たったの数分で済んだのは有り難い。が、やはりただ待つだけというのは時間を長く感じるものだ。
サイ子は随分と薄着だった。袖無しの空色ワンピースに白い半袖を羽織っている。なんと呼べばいいのかいまいちわからないが、ふんわりとしていて少し透けるくらいに薄手の上着だ。丈は短い。ヒールの低いサンダルを履いていた。
「遅れてごめんね!」
重ねて謝るサイ子から、つい目を逸らす。
「別に良いけど……呼び出したのこっちだし」
別に、同年代の女子の私服を見たことがないわけじゃない。サイ子の私服だって、中学の頃と去年の修学旅行や林間学校、クラス会なんかで何度か見ている。
だが、なんというか、こうもラフな恰好は初めて見た。そもそも制服以外ジーパンしか見たことがなかった。
こういう恰好、するんだな。
「なんか……そうゆうカッ…コ、」
口ごもるように言うと、
「え、何か言った?」
と笑顔で聞き返された。聞き返されると、もう言えない。改めて言うなど、さりげなく言うことすら不可能だったのに、どうすれば可能になるというのだ。故に、あらぬ方を向いてこう言うしかなかった。
「別に、なんでもねぇよ」
考えてみれば、そもそも女子の服装に言及すること自体が恥ずかしすぎるじゃないか。まして、まして……に、似合う、とか、言えない!そもそも思ってない!だから黙れ心臓!
俺の動揺を露も知らず、隣を歩くサイ子は俺の背を指して話しだす。
「それ、ギター?用事って、ギター聞くってこと?」
「ん、まぁな。そんなとこ。」
古井が好きだというのに、一体全体どういうことなのか。女なら良いのか俺は。というか、そもそもこれはあのサイ子だぞ。あの、前野木彩子だぞ。
嗚呼。
「毎日こんなとこで演奏してるの?」
「毎日じゃないけど、週に二、三日」
「ふーん……知らなかったわ」
その声にどこか不満げな色を見た気がしたが、それよりも、まずは芝楽に会わせるのが第一目的であり、目的のほぼ全てでもある。さて、その芝楽はといえば。
「……あれ?」
いないし。まだ二回しか会っていないが、ほぼ毎日この時間に此処に来るというようなことを言っていたのに、おかしい。
「どうかしたの、鏡ちゃん」
「あ、いや……」
困った。あいつの為に……いや、あいつが会いたいと言うから連れて来たのに、いないというのはどういうことだ。困窮である。行き詰まりだ。まさに四面楚歌。いや四面楚歌は違うか。とにかく困った。が、暫くのちに大して困った自体でもないことに気付いた。
別に、弾いてりゃいいんじゃん。
芝楽はまぁそのうち来るだろう。今日誘ってみるとは言っておいた。
「……サイ子、実はさ」
「え…な、何?」
サイ子がぎこちなく笑う。……うん、やはり言っておくべきだ。決断した俺は、一瞬の沈黙の後、切り出した。
「ギターの練習してんだよね、此処で。週に二、三日だけど…」
言葉は一旦そこで切れた。サイ子の顔がかなり怖かったからだ。まるで般若。
「………それ、さっきも聞いたけど?」
「え?あ、そうでしたっけ……それは、すいません……」
だからってそんなに怖い顔しなくとも。辺りが暗いから尚更怖い。自然、引け腰の遜り口調になる。
「んで?」
「あ、ああ……えと、それを一年くらい続けてるんだけどさ。こないだなんか…ッ…中学生が来て」
「中学生」
「そう」
女の子、と言いかけてやめたのは、なぜだか怒ってるらしいサイ子に話すと怒られそうな気がするのだ。サイ子は俺が女の子と仲良くすると良い顔をしない。良い顔どころか「こンのタラシがッ…!」という顔をする。だから、失念してるみたいだから言わせてもらうが、お前も"女の子"だ!
「実は一年前から聞いてましたとか言われて。こっちは恥ずかしいの何のって感じだし、なんかそいつ格好も変だし」
と一応予備知識を補足しておく。
「だけどなんか面白い奴だからちょっと話すようになったんだよ」
「ふーん?じゃああたし必要ないね」
だ、駄目だ、完全に怒ってる。
「いやいやいや必要!必要です!……実は、話をしたらそいつがお前に会いたがってさ」
そこまで言うと、残りは二つの声に遮られた。
「はぁッ?」「ああもうッ!」
「へ?」
確かに耳に届いた二種類の声。一つは前方から、一つは後方からだったように思える。前にはサイ子。躊躇わず振り返った。と、パチンコ店の角に半身を隠すようにしている少女を見つけた。もうそろそろお馴染みの、和服に袴・編み上げブーツ。明治から間違ってやってきたタイムトラベラー。
「…芝楽、何やってんだお前。」
芸が無くて申し訳ないが、また結論から言わせてもらう。
芝楽が明治コスチュームプレイヤであったことが幸いであった。
来たのが女子中学生だと分かった時、どれほど悪し様に罵られるだろうかと考えていたが、女子であることよりも中学生であることよりも、まずその服装に反応し、興味を持ったのだ。
「中学生っていうから、すっかり制服のイメージがあったわ、あたし」
ああ、それは別にひっかけようと思ったわけではないのだが。変な恰好とは、制服をやたら着崩しているイメージだったらしい。最初のショックを緩和しようとした俺の思惑は見事に外れたわけだが、結果的には良かったのだ。
「えーと、はじめまして。あたしはコレの友人兼保護者の、前野木彩子。」
「お前いつから俺の保護者になったよ、おい」
初対面のコスプレイヤにも臆することもなく笑顔で自己紹介をする。俺という仲介を経ているとはいえ、我が友ながら中々の適応力だ。
「…………」
芝楽は黙っている。普通に考えて逆じゃ……?しかし、芝楽はただただ呆気に取られたようにサイ子を見つめていた。……が、原因はすぐに知れた。
「え、アヤコさん?ですか?」
「!」
「ああっ!」
「?」
「バッ……この馬鹿鏡弥!まぁたあんたあたしのこと"サイ子"ってしか呼んでないんでしょう!」
その後もなんやかんや言われたが、一人状況の飲み込めていない芝楽の為、仕方なく悪態と罵詈雑言を連ねる作業をやめ、簡単な説明をする。
「なるほど。つまり彩子さんはサイ子さんなんですね!」
言葉だけ聞くととても馬鹿らしいが、言いたいことは分かるし否定も出来ないので、とりあえず俺たちは頷いた。
それから芝楽は少し言いづらそうな顔をサイ子に向けた。
「それで、その…なんとお呼びすればよろしいでしょう?アヤコさんか、サイ子さんか」
芝楽の怖ず怖ずとした言い方で察したのか、サイ子は少々投げやりに言う。
「いいわよ、サイ子で。鏡ちゃんからそう聞いてたらそっちの方が呼び易いでしょ?学校でもサイちゃんとか呼ばれてるし」
お前のせいでな、とばかりに睨んでくるのを気付かないふりをして躱し、嬉しそうにしている芝楽に「よかったな」と言っておいた。
「はい。……サイ子さんは寛大ですね」
邪気の無い笑みを湛えて褒められ、サイ子は若干恥ずかしそうにしながらも機嫌を良くした。場が和む。
「ほら、お前も名乗れよ」
「ああっ…、失念していました。これは失礼。」
そう言うと着物を正し、改めてサイ子に姿勢よく向き直る。両手は体の前で軽く重ねられている。
「私は、芝生の芝に楽しいと書いて、芝楽と申します。」
滑らかな動作で、厳粛な礼を一つ。
意外と良いとこのお嬢様なのか?と思わせる仕草だった。そういえば、思い返してみればこれまでも動作が美しかった気がする。
だが、もしそうだとしたら。
……何故、演歌とギザギザハート?
「"芝楽"?苗字?」
「あ、いえ…訳あって、それで全てです」
続けて、諸々の事情を話した。人間不信だったこと、名前を忘れたこと、俺が命名したこと。
「ネーミングセンス悪ッ!」
おい、芝楽の身の上話(?)を聞いておいて、感想がそれか。最初の感想がそれか。
「なんでだよ、良い名前じゃん!」
「いやぁー可愛いには可愛いけどさぁ、もうちょっと日本人的な名前にしようよ…」
駄目だこいつ、とばかりに首を振る。なんとも憎たらしい奴め。横目で当の芝楽を確認すると、奴は奴で首を傾げていた。
「ねえ、民具扇子……?」
あ、こいつ横文字駄目だったっけ。
「ったく……とにかく、よろしくね!芝楽…さん」
「はい!呼び捨てで構いませんよ」
そうにこにこと笑う。俺なんか最初っから呼び捨てだ。まぁ、自分で付けた名前にさん付けで呼ぶ方が変だが。
「じゃあ、芝楽。ねぇ、あんたって幾つなの?中学生って言ってたけど」
「ああ……えと、十六…いや、満十五になります。お二人は?」
「あたしは十六だけど、鏡ちゃんは誕生日早いから十七かな」
早速会話が進んでいる。サイ子は基本、かなり社交的なタイプだから、不思議ではなかった。しかし、人間不信の芝楽も普通に話しているのには驚いた。……ん?いや、さっきは「人間不信だった」と言ってなかったか?ということは、もう治ったのか?……前は、今でもそうだというようなことを言っていた気がしたが。俺の記憶違いだろうか?
色々考えつつ、二人を観察する。当たり障りのない話題ばかりとはいえ、会話が絶えないのはすごいと思う。女子同士だからというのもあろうが、恐らくは、そもそも気が合うのだ。
なんだかその図がやけに微笑ましく、ほっこりした気分で眺めていたが。
「それで、鏡ちゃんてどんなの弾くの?」
「そうですねぇ、大低は…こ」
「ばばばばばかやろぉぉお!黙れ芝楽!芝楽黙れ!」
何さらっと言いかけてんだてめぇぇぇえ!
「すっすみません!言わない方が良かったですか?」
あろうことか、申し訳なさそうに問うてくる。これが厭味でなく素なのだから中々どうして凄い性格と言えるだろう。
「あっっったりまえだろうが!お前に聴かれてたってのだって十分ダメージ引きずってんのに!」
だからびっくりすんなって!なんだその今初めて知ったみたいな顔!
「なぁに、そんなに恥ずかしいの弾いてたの?」
「なっ、そっ、だっ、……あああ、もう!とにかく!芝楽は黙ってろ!」
肩で息をするほどに叫んだあと、不意に、声が頭をよぎった。
気付いていないということではないかもしれませんよ
しゅんとなってしまった芝楽を横目で見ながら、その意味を考えていた。
――もし、サイ子が知ってたら?
今日、古井を誘ったのも、そのため?なら、どうして俺に何も言わない?気付いた時点で言うんじゃないか?俺に遠慮している?……何を遠慮するっていうんだ。
考えても考えても、考えれば考えるほどに分からなくなっていく。
ああ、女ってよく分からん。
「……されたのよ?」
「はい?」
気付けば俯いて情けない顔をしていた俺は、不意のサイ子の声に驚いて顔を上げた。
「だからぁ、なんであたしが呼び出されたのかって聞いてんの」
「へ、ああ、……だから、芝楽が」
「それはもう聞いた。で、会ったじゃない。もう帰っていいの?あたしは」
芝楽と話していて機嫌が良さそうだったのに、一転して不機嫌、寧ろ怒っている。ああ、本当女ってよく分からん。
「サイ子、帰りたいの?」
とりあえず、と思って訊いてみたが。
「そういうこと言ってんじゃないでしょうが!」
……怒鳴られた。
どうしようか。今は何を言っても怒らせるだけな気がする。というか確実にそうだ。
困り果てて黙っていると、それすら気に入らなかったようで、一瞬空気が張った。
――泣く。
「サイ子さん?」
空気が弛緩する。芝楽の柔らかい声で、俺はほっと息をついた。それから、我にかえった。
――泣く?
――怒鳴る、とかではなくて?
泣くと思った。サイ子が泣くと、そう思ったのだ。
「鏡弥さんのギター、聴いていきませんか?……いえ、私が、貴女に聞いてほしいのです。」
「あたし、に?」
他の人じゃなくて?とサイ子が尋ねたかのように、芝楽は微笑んで頷いた。
「他の誰でもなく、貴女に」
何故か、少しだけ震える声で、その少女は聞いた。
「……なんで?」
芝楽は困ったように、しかし芝居がかった風に、「ええと」と漏らす。
「話を聞いていたら、鏡弥さんが一番気を許している相手が貴女だったので。」
少女はそれには応えず、こちらを振り返った。
「鏡ちゃん、聞かせて?」
俺は黙って頷いた。
****
「下手くそ」
三曲連続、お気に入りの中でもマイナーなモノを選んで弾いた。それを聴き終わって拍手をしたサイ子は、本当に嬉しそうに笑っていた。
「お前、第一声がそれか!」
「あはは、うそうそ。あたしはギター分かんないけどさ、良かったよ。すごく」
ちょい、と付け加えられた「すごく」が、なんだか可愛いなと思ってしまった。
「……褒めても何も出ねぇぞ」
照れ隠しに顔を背けたら、そこに芝楽がいた。
「おい、何にやにやしてんだお前」
「はっ、はい!あ、いやにやにやなんてしてませんよ!言い掛かりです!」
口を尖らせて抗議するものの、未だに笑いが口元から抜け切っていない。自覚があるのだろう、そこまで言って、はぐらかすように笑った。
「別にぃ……天の邪鬼だなぁと思っただけですよ」
彼女の言葉は残念ながら中々的を射ていたので、分かったような口きくな、と返した自分はずいぶんと拗ねたような口調になっていた。
この女、人間不信って嘘だろ……平気な顔で中々"刺さる"軽口叩きやがる。
「鏡ちゃんもね、昔は素直で可愛かったんだけど。」
「あら、今でも可愛いですよ」
「そんなこと言ってくれるの、芝楽くらいだよー?」
……なんで井戸端会議になってんだよ。そしてサイ子、お前は俺の母かなんかか。
「ところで、お二人はいつ頃出会ったのですか?」
小首を傾げる仕種がかわいらしい。しかしそれは、中学生らしい可愛さというよりも、大人の女性が時折垣間見せる可愛らしさとかいう類な気がした。
「ええと、中二でクラス一緒になったからさぁ。だから、丸3年以上の縁かな。」
そう。中二からの付き合いだ。
昔っからサイ子は変わっていなかったし――若干の「成長」と呼べるものならばあるかもしれないが――、恐らく俺も変わっていない。距離も変わらない。だから、確かに芝楽の言葉は的を射ているのだ――「一番気を許している」というのは。
なのに、芝楽は言う。
――気付いていないというわけではないかもしれませんよ――
なんで黙ってんの?どうして言わねぇの?
訊けない言葉は鳩尾あたりに、暗雲みたいな感触で溜まっていく。
結局、この日は聞けずに夕方は終わりを迎えたのだった。
*
「芝楽って可愛いよねっ」
にこにこと笑って言うサイ子を見て、ああ会わせて良かったなと思った。
「あのコスプレが無かったら……普通に可愛いんだけどなぁ」
ああ、自分遠い目してるなぁ。
「え、あれってコスプレなの?」
目を見開いて驚いた顔をしているサイ子に、お前なー、と呆れ混じりに言う。
「あれ、コスプレじゃなかったらなんなわけ?」
「……そうだよねぇ、考えてみれば。なんかあんまり似合ってたから」
「から?」
「タイムスリップして来たのかと思ってた」
「……お前、本気?」
「漠然としたイメージでね。まさか本気で信じちゃいなかったけど」
からからと笑うサイ子だが、こいつなら『実はタイムトラベラーでした!』などと言われても動じない気がする。何たって前野木彩子ですから。
「でも、」
気付けば、辺りはかなり暗くなっていた。夏と言ってもまだ初夏の頭だ。案外暗くなるのは早い。芝楽と別れた時はまだ"薄暗い"程度だったが、そろそろ本当に暗くなってきていた。こういう時を『夜の帳が下りる』と呼ばわるのだろうか。
「うん?」
「今日は楽しかったよ」
向けてくる笑顔は、先程の驚きに満ちた顔よりも暗いベールがかかっている。それでも、うっすら輝いているように感じた。
「そりゃ良かった。誘った甲斐があったってもんだ」
「ふふ、鏡ちゃんにしてはナイスだったよ?それに……」
「…それに?」
軽く促す。空気というか、雰囲気というか……そういった類の「それ」が、少しだけ変質した気がしたからだ。重く、若しくは冷たく…或いは、鋭く。
「あの子、聡い子だよ。それに、心配りも出来るし」
「……」
聡い……か。ならば、あいつの推論は正しいのだろうか?
「心配りとかは分かんないけど……確かに妙に大人びてる所はある……気がする」
しばらく沈黙のままだった。黙々と暗い夜道を街灯に照らされながら歩くうち、ほこりと浮かんだ言葉を口にしようとして、思い留まった。
そのうちサイ子の家に着いた。親に見られるとどうのだの言い、そそくさと家に入っていった。俺もさっさと帰ろうと歩き出してすぐ、携帯が鳴った。閑静な夜空に思いがけず五月蝿く響いた。
かちっ。
小気味よい小さな音と共に現れたディスプレイには『メール受信 サイ子』と表記されている。
「はぁ?」
メールを開くと、
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from:サイ子
title:ごめんね
ごめんね!うちの親、
変なトコでテンション
上がるんだ…。
今日はアリガト
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「変なトコでテンション上がる……?」
まぁ、大方「今の誰?彼氏?名前は?」とかしつこく聞かれるということだろう。中学からの付き合いと言っても、親とは殆ど面識が無いし。
アリガト、は、まぁ送っていったことも含めてだろう。そういう所は律儀な奴だ。
薄い黒に覆われた夜道、携帯のディスプレイは白すぎる。その光は、道の先を更に暗く見せていた。
携帯を閉じる。
返信は後にしようと思った。代わりに、閉じた携帯に尋ねた。
「なぁ、芝楽が人間恐怖症だったって……本当だと思うか?」
俺が触ろうとした時、青ざめてそれを避けた。しかし、自分から話しかけてきた。時々話が噛み合わない。だが話す態度はあまりに「普通」で自然だ。
なんだか噛み合わない。
そんな簡単に治るモノなのか?大体、話す時と触れられそうになった時の温度差、あれは?話す態度は普通なのに、触れそうになった時は――「怖がっている」よりも、より危機感を感じているような気がした。もっと切羽詰まっていた。
「噛み合わないよなぁ……」
訊かなかったのは――訊けなかったのは、この質問が芝楽を疑うように取られたら嫌だったからだ。
それとも……俺は疑っているのか?芝楽が嘘をついていると、そう思っているのか?
もしそうなら、或いはそうでないなら。
どちらにせよ、サイ子にぶつけることもできなかった。
§
どうして私はここにいるのだろう。
昏い世界。閉ざされた扉。厳格にして厳粛な空気。
私がここにいる『理由』。それは、『神を喚ぶ』ため。だが、私は『神を喚ぶ』ことなど出来はしない。
『理由』が不可能であるならば、それは理由たり得ない。ならば。
どうして私はここにいるのだろう。
§