#01 ギターと少女
本編スタートです。
少し分割しました。
「私があなたの鍾子期では駄目ですか?」
彼女は言ったのだ。
****
「はーぁあ」
制服のポケットに手を突っ込んで、中の携帯を触りながら三回目のため息をついた。
右手の中のつるつるした携帯は、昨日、突然鳴かなくなった。
それは壊れたとかではなく、メールのやりとりの最中、相手が唐突に「じゃあ明日ね」と切ってしまったからに外ならない。ラリィの途中でボールを放り投げたまま去ってしまったようなものだ。
相手に嫌われているとは思わない。多分……『彼女』の優先順位一位、つまりは『アイツ』が何か関わっているのだろう。
その、『彼氏』が。
はてさて、人様の彼女とメール交換で急に切られたからといって、どうして俺はこんなに落ち込んでいるのか。理由は一つ。
『彼女』――古井あずさに横恋慕しているから、だ。
「おはよー、きょーちゃん」
声をかけてきたのは、幼なじみのサイ子だった。前野木彩子。本当はアヤコと読むのだが、幼き日の過ちから、サイ子と呼んでいる。お蔭様で周りの女子の数人が「サイちゃん」と呼んでいる。
「あー、お早うごぜぇやす」
「おおう、どうした鏡ちゃん。元気ないなぁ」
ねーよ。今の自分の恋が不毛であるという確定申告なされた翌日に元気あったら怖いっての。
不意に、隣で椅子を引く音がした。急いで振り向くと、古井が席につこうとしていた。……昨日まで冬服だったのに、今日から夏服にしたんだなぁ。
「おはよ、あずさ」
「おはよう。…飯田ぁ、昨日ごめんね」
突然挨拶のついでに核心を突かれ、体をびくつかせてしまう。
「えっ、あ、ああ、メール?別に良いよそんなん」
全然『そんなん』じゃねぇけどな!泣きたい!
「ええ何、二人ってメアド交換してたんだ?」
「してたよー。ま、つい昨日なんだけどね」
ふふっと笑う古井は、普通に可愛い。すげー可愛い!って感じではないけど、笑うとホント可愛い。好きだなぁ、と再確認して更に落ち込んだ。
*
ギターを持って外に出ると、まだ若干明るかった。夏に近付いてきたんだな、としみじみ思う。
家から歩いて二分のところに、寂れ気味のパチンコ店がある。その周囲は駐車場になっているのだが、無駄に広い駐車場は中々埋まらず、裏手に車があるのを俺は見たことがなかった。そこに一本だけ立つ、スポットライトみたいな白いライト。そのすぐ下のブロックに座って、ギターケースを肩から下ろした。
週三回か四回、ここでギターの練習をしていた。
練習と言っても、好きな曲を耳コピで弾くだけ。何度も弾いて、飽きたら別の曲を弾く。それの繰り返しだから、練習とは言えないのかもしれなかった。
実は最近は、……自作曲を弾いていた。
店の裏手は小さな畑に面していて、夜に人と出くわすことはまずない。一年くらいやっているが、一度もそんなことはなかった。だからあまり恥ずかしいとも思わずに弾いていたのだ。
ギターケースを開けた。
父のお下がりだから古いが、傷もなく初心者でも弾きやすい。ギターそのものは三年くらいやっているが、昔からずっとこのギターだった。
でも、これでお別れだ。
愛おしむように撫でてから、弾き始めた。
*
ちゃんとした曲というわけでもなく、なんとなくいつもより長めに弾いた。
気が済むまで弾いて、俺は息をついた。
そして上着のポケットから折り畳みナイフを取り出した。ちゃっちい切れ味の悪いやつだ。
切れるものといったら、本当に細いモノくらいだ。
変に緊張しながら、ナイフの刃を弦に当てる。
さあ切るぞ、と息を吸い込んだところだった。
「伯牙、琴を破る――ですね」
少女の声がした。
あわててナイフを離しあたりを見回すと、すぐ傍に少女が立っていた。
ほんのついさっきまで誰も――
いなかったのに、という言葉が脳に浮かぶ前に、俺は目の前の少女に釘付けになっていた。
可愛らしい顔立ちで、恐らく一・二コ下。茶色がかったふわふわの髪を、上の方だけ高い位置で結わっている。それは良い。だが、俺が釘付けになったのはそんなことじゃない。というか、そんな「ところ」じゃない。もっと下、つまり体、誤解のないよう正確に述べるならば――服装、だった。
薄桃色に桜の散った着物に、紺色の袴。焦げ茶の編み上げブーツを穿いて、それはまさしく――
「タイムトラベラー?」
まさしく、明治時代のような格好だったのだ。
「たいむ、とらべら?虎箆?」
きょとんと小首を傾げた明治少女は、先程聞こえてきたのと同じ声で言った。
なんだ、この女――
頭オカシイのかな――
まぁ、人は見た目によらないって本当だな。雰囲気はまるっきりまともな人なのに、格好があきからにおかしい。そして平然としているからこそ更におかしい。
「あんた誰」の一言が出ない。言いたいのは山々だが、下手に刺激できない。
「ギター、やめちゃうんですか」
質問というより、確認。考えるより先に、目を逸らした。それでも即答する。
「やめるよ。あんたさー、こんな遅くに一人で出歩くなんて危ないよ」
まぁ多分逆に避けられるだろうけどね!
心にもないことを言ったのは、こっちが普通のことを言えば、普通に返してくれるんじゃあないかと期待したのだ。
あと。
彼女の一言に、一瞬動揺した。だから、それを隠すために、わざとどうでも良さそうに言った。「そんなことよりさ、」という感じに。
すると彼女は、困ったように笑った。
「ありがとう。でも、ご心配には及びません。」
何故、と訊くと深みに嵌まってしまいそうだったし、誘われているような気がしたので、敢えて問うことは避けた。ともすると、沈黙が降りた。居たたまれなくなって、不意に浮かんだ話題に縋った。
「そういやさっき、なんて言ったの?琴がどうとか」
少女も沈黙に困っていたのか、ぱっと顔を上げて即座に食いついた。
「伯牙琴を破る」
……諺かな?
「昔、中国に伯牙という琴の名手があったそうです。彼の親友に鍾子期という男がいたのですが、その彼は誰より伯牙の琴を理解した。だから、鍾子期が亡くなった時、一番の理解者を喪ったといって伯牙は己の琴の弦を切り、生涯琴を弾かなかったといいます。」
知ってますか、と問うように小首を傾げて俺の顔を覗きこんでくる。
初めて聞いたのでとりあえずかぶりを振ると、彼女は俺から目を離して向こうにゆったりと歩きだした。歌うように続ける。
「伯牙琴を破る……とは、無二の親友との別れを嘆くことを意味します。」
「へぇ…」
「だから!」
曲線を描いていた明治少女は、急にこっちを向いた。あまりに急な動きだったから、ほんの少し飛び上がってしまった。
「……あなた、大事な人をなくしたのですか?」
「……はい?」
なんだ、なんなんだ、初対面の相手になんなんだこの明治少女は。ていうかそうだ、話がまともだったから普通に聞いてしまったけど、こいつ不審者じゃん!
なんだか嬉しそうに微笑みながら、音もたてずに歩み寄ってくる。ちょ、来んな!
「大事なギターを壊してしまうのでしょう?まるで伯牙です。そんなことをするなんて、きっと大事な何かをなくしてしまったのでしょう?」
言葉は早くはないが、気が急いているようにまくしたてた。
「ちょ、ちょっと待てよ。何決めつけてんだよ。別に……このギター、そんなに大事なものでもないよ」
最後は穏やかに言ったが、ついつい乱暴な言葉遣いになりそうになる。刺激したくはないが、なんだか軽く挑発されている気分にさせられる。
「大事じゃあないんですか?」
「そんなにね。」
「一年も弾いていたのに?」
「そう………え、ええ?なんて?」
恐らく不審者であるということも、明治コスプレイヤーだということも忘れて、のめり出るようにしてまじまじと少女の顔を見てしまった。
少女は慌てて一歩下がった。頬に、ぱっと朱が滲む。
「え、あ……変なこと、言いましたか」
「一年もって、どういうこと?何、なんで知ってんの?」
詰め寄りながら、その答えが頭に浮かんだ。それしかないと知りつつも、それだけは勘弁してくれと思う。それだけは――
「す、すみません、勝手に聞いて……」
………叫びだす代わりに、頭を抱えて崩れ落ちた。
「しにたいッ……!」
それだけは、恥ずかしすぎる。
数分――いや、本当は一分もなかったろうが、まあ暫くの悶絶と葛藤とまた悶絶の末、俺はようやく顔をあげた。一瞬期待したが、残念ながら、やはり彼女はまだそこにいた。
「………何回、くらい?」
「ええと……すみません、此処での演奏は毎回だと思います……」
「うわぁぁあっ!」
また頭を抱え、今度は叫び出した俺を、明治少女は恐々見ていた。いかん、これでは俺が不審者だ。
しかし、恥ずかしいものは恥ずかしい。
だって、だって、口に出すどころか脳裏に浮かぶだけでも悍ましい――赤裸々な、しかも自己陶酔入った馬鹿げた曲を――つまり、古井に対する気持ちを歌った曲を、歌いまくっていたのに。全部、全部聴かれていたなんて。
死にたい、いっそ、死にたい、
誰だっけ、こんなこと言ってた人がいた気がするけれど。嗚呼、寧ろ殺してくれと叫びたい。
「あ、あのー…」
「……」
「あの、えと、みんな素敵でし…」
「言うな!」
右手のひらを超スピードで突き出して止めた。因みに左手は顔を覆っている。
「お前が見たこと聞いたこと、全て何も言うな。決して言及するな、どんな形でもだ。忘れろ。」
相手を慮っている余裕などないから、自然低い声の命令口調になる。殆ど脅しに近いが、俺はもう虫の息だった。これ以上傷をつつかれたら本当に死ぬ。顔から発火して死ぬ。
「……あ、とぉ……」
「………」
「………」
困っている。彼女はかなり困っている。しかし、俺は今かなりいっぱいいっぱいで何も言えなかった。胸が詰まる思いだ。……ちょっと意味が違うか。
「あー……じゃあ、弾いて貰えませんか?」
「…………………はい?」
気詰まりな沈黙は解除されたが、一瞬意味がわからなくて思考が停止した。しかしもともとパンク状態だったため、逆にそれが幸いして、彼女の次の言葉が頭にすんなり入った。
「あの、弾いて貰えませんか」
続けて、有名な演歌を挙げる。
「……はぁ」
――結局、その演歌は弾いたことが全くなかったし、聞くのも紅白くらいだったため、別の曲で我慢してもらった。
「じゃあ、ギザギザハートの子守唄」
「……なんでよ。なんか選曲古ぃよ。」
「でも良い曲でしょう、あれ」
実は数年前にハマって、なんとなく弾いたこともあった。そういうわけで、アレンジというか、つまり適当に即興で弾くことになったのだ。
ギターの弦が、空気を打った。
ちっちゃな頃から悪ガキで
弾きながら歌いながら。響く、響く。
*
ぱちぱちぱち。
ショボイ拍手に迎えられ、曲は終わりに辿りついた。
「お疲れ様ですー。上手いですねぇ、今リクエストしたのに!」
「上手くなんかねーよ、所々止まっちまったし、殆ど適当だし」
初めて褒められたのが恥ずかしくて、ふて腐れたように返してしまう。彼女はそれを、ふふっといたずらっぽく笑った。
「素人にはわかりませんよ」
それだけ言って、彼女は去った。去り際、
「ギター、破ったら勿体ないですよ。袖にされたくらいで」
「……!」
……そうか、そりゃ、聞いてたらわかるよなぁ。
またも恥ずかしい思いをしながら、もう家族が家に帰っている時間だと気付き、慌てて引っ返した。
明日も、あいつはあそこに来るだろうか。
****
「鏡ちゃん、一緒に帰らない?」
下駄箱の前でサイ子が笑いかけながら問うてきた。どうしようかと一瞬考えて、答えを出すその刹那、「みちのく」と、声がした。反射的に振り返ると、古井が男子に駆け寄っているところだった。古井よりは勿論勝っているが、男子にしては小さい。
陸奥。下の名は、知らない。
古井は、陸奥のことを苗字で呼ぶ。だから知らない。
目立たないタイプだよな、と思った。古井も目立つタイプではないが、決して地味ではない。だが、陸奥は多分「地味」なタイプだろう。
――なんで付き合ってんの?
聞いてみたかった。席が隣になったのを良いことにアドレス交換して、そこで、口を滑らせた。……本当は、完全に滑らせたのではなく、半分は意図的だった。ただの興味半分を繕って、軽く聞いてみた。
――なんでだろーなぁ
そう言って、笑ったのだ、彼女は。だから少し期待した。けれどそれが逆に親しみの深さを表しているような気もして、結局のところ、ココロを秤にかけたら期待よりも痛みの方に傾いた。
陸奥を一瞥してから、サイ子に目を戻した。そこでようやく答える。
「いいよ」
微笑んだつもりだったのに、卑屈な笑みになった。気がする。
*
「携帯貸してよ」
サイ子は言いながら、俺の手元から携帯を奪い取る。中一からの付き合いだから、もう諦めて抵抗もしなかった。
「……鏡ちゃんてさぁ」
「何だよ」
「女の子のアドレスたくさんあるよね」
「突然だなぁ……」
別に『女が切れたことなんてないぜ!』なーんてことはなく、ただ女子と喋るのに抵抗がないだけだ。親しくなったらアドレスを交換する――というか、挨拶代わりにアドレス交換という方が多いが。だから携帯にある女子のアドレスの半分は殆ど使ったことがない。
「女の子友達多いよね」
一応お前もその一人なんだけどなぁと思いつつ口にはしない。
「彼女は一人元カノがいるだけだけどな」
などと言ってはぐらかした。
実を言えば告白されたことなら何回もあるし、「誰々はお前好きらしいよ」とかもちょこちょこ聞く。そういうのって、ほぼ女子と話すかどうかだけで決まるものだともおもうけどね。
「あたしと鏡ちゃんてさぁ、丸三年?ってさ、結構長いよね。」
「まぁ、そうだな」
「……鏡ちゃんはさぁ……本当は……」
「うん?」
表情は思い詰めたように暗く、ぶつぶつと切れた言葉は聞き取りづらい。そしてそれは更に小さく篭った声になっていく。
「……てる……の」
「ごめん、なんて?」
思わず聞き返すと、どこか暗澹とした顔が、効果音でも聞こえてきそうなほど「くるっ」と変わった。いつもの明るいサイ子だった。
「別にぃ?鏡ちゃん、あたしに隠れて女の子遊びに耽ってないか心配してるだけー」
「女のッ……って、んなことするか!」
慌てて、サイ子の言葉に対してではなくその表情の変化に狼狽して、慌てて言い返した。俺の狼狽をどうとったのか、からからと笑う。そう、いつも通りに。
「分かんないよー?鏡ちゃん見た目だけはそこそこ良いから」
「だけってのに棘を感じるのはあれかね、勘違いかなんかかね」
「やだなぁ棘なんて、褒めてるのにぃ」
褒めてるように聞こえねーよ、と軽くどつく。そうして笑いながら、しかし、何かがひっかかったままだった。
****
ジャリィン、と、ギターの弦を鳴らす。
「もう来て下さらないものかと」
闇から現れた少女は、やはり着物にブーツの明治スタイルだった。
「別にあんたの為に来てたわけじゃ…」
にこにこと微笑んだままの少女は目の前にしゃがみ込んだ。
近くで見ると、かなり可愛い。
前回は顔の良し悪しに何か感じている余裕などまるきりなかったが、今回は二回目とあって緊張や不安もない。それに、独白の様な曲を数多聴かれていたとあって、恥ずかしさを乗り越えた今は、逆に可怪しな親密感があった。
「あんたさぁ、俺がフラれたからギター止めるって分かってて、琴がなんたらとか言ったんだろ?…大事な人を失った、とか」
「伯牙琴を破る、です」
突然の詰問口調にも慌てることなく、やんわりと訂正を加える。恐らくこの叱責は予期されていたのだろう。
一拍おいて、彼女はギターに視線を落として言った。
「確かに、そうです。…今にして思えば、ひどく意地の悪いことですね。申し訳ありませんでした。……許していただけますか?」
真実申し訳なさ気に上目遣いで見られると、自分がひどく嫌な奴になったような錯覚を覚える。
「そんなに怒ってたわけじゃないし……悪いと思ってんなら、別に……」
もごもごとそこまで言うと、彼女はぱぁっと顔を赤らめた。
「許していただけますか?ありがとうございます!」
にこにことしている様子を見るに、感情の起伏が激しい子なんだなと思う。
と、彼女の表情の変化にふと思い出したことがあった。
「三日もみえないので、もういらっしゃらないのかと……」
「ああ、それは、練習してたからさぁ」
そう言って、前にリクエストされた演歌のサビを軽く弾く。
途端、頬を紅潮させ顔を輝かせた。
「れっ、練習してくださったんですか?」
「まあ、俺ヘタクソだから三日じゃサビしか覚えらんなかったけど」
それに、そんなに熱心に練習したわけでもない。サビも勝手にギターアレンジにしたのでかなり簡単だ。
しかし、それを説明してなお、泣き出すのではと心配になるほど興奮した様子で聞かせてほしいとせがんできた。
「まぁ、その為に練習したからそれは良いけど…本当にショボイからな、ガッカリすんなよ」
そう言ってから、今まで聴いてたなら俺の力量くらいわかるかと気付き、ともかく弾き始めた。
「……」
彼女は黙りこくって聴いていた。サビだけなのですぐに弾き終わってしまったが、一応「……どう?」と聞いてみた。無論、恐る恐る。
「……」
無言で、こくこくというよりブンブンといった勢いで頷いてくれている。どうやら合格らしい。
と思ったら。
「もう一回お願いします!」
あ、アンコール?
さっき間違えた箇所に気をつけながら、指を、手首を動かす。ギターで演歌って変なの、と思っていたら、
戻れなくても もういいの
え、ちょ、歌い出しちゃったよこの人!まままマジかよ!
本気でびびったが、弾き終わった瞬間、ふと気付いた。
彼女は、おそろしく綺麗な歌声の持ち主だということに。
「すいません……なんかどうしても歌ってみたくなってしまって……」
恥ずかしそうに俯くが、それどころではない。
「あんた、すごい声綺麗だな!」
「へ?」
ぽかん、と放心したような顔でこちらを見つめている。あまりにも予期せぬ言葉だったらしい。
「ほんと、めっちゃ綺麗じゃん。何、ボイトレとか行ってないの?」
感激のあまり一歩のりだすと、彼女の顔色が変わった。
さっと青ざめた。
そして直ぐさま一歩ひいた。
俺が悪いのだろうが、流石に少し気分が悪い。興奮が冷めた。
「……あ、ごめん、びっくりしたよな」
「……っあ、あ…ごめんなさい。貴方が悪いんじゃあないんです」
「いや、年上の男に詰め寄られたら怖いでしょ」
自嘲気味に言うと、ふるふると力無く首を振った。
「違うんです。私…最近全く人と話してなくて……人が、駄目なんです」
――人が、駄目?
「人間恐怖症ってこと?」
「……そうです。」
「え、でも、俺に話しかけてきたじゃん」
くっ、と顔を上げる。表情は真剣そのものだった。
「貴方は、特別。」
かっ、と熱くなるのを感じた。
恋愛感情などでなくとも、他人から「特別」と言われるのは、恥ずかしくて、嬉しかった。
「……でも、話しかけるのに一年かかりました。それに、触るのは、全然。」
ひどく落ち込んだ少女に、反射的に呼びかけようとして、言葉に詰まった。
「……じゃあ、名前教えてよ」
「はい?」
少女は顔を上げる。
「名前。友達になったらまず訊くだろ?」
「友達………」
「そ。俺は、飯田鏡弥。鏡に弥生の弥でキョウヤ。」
少女は暫く呆然としていたが、不意に我に返り、慌てて言った。
「わ、私は、…私、は……」
「うん?」
えへ、と笑って言う。
「……暫く呼ばれていないので…忘れてしまいました」
「……はぁッ?」
まさか、嘘だろ?
「話すのが久しいもので……名前が無くても、友達……なれるでしょうか?」
慌てて言う。本心忘れてしまっているらしい。なんという。
「………」
考え、即決した。
「名前が無くて友達になれるか!……ということで」
一瞬ショックを受けた彼女は、「え」と漏らして俯きかけた顔を上げた。
「俺が新しくつけてやる!」
「……本当ですか?ありがとうございますッ!」
いいのかなぁと思いつつ、とりあえず勢いで思案し、ふと頭に浮かんだ名前を呟いた。
「しばらく」
「………はい?」
「シバラクってのはどうよ」
「………………はい?」
「うん、良いな。漢字は……そうだなぁ」
「……あのぅ、「しばらく」ですか?私の聞き違いですか?」
「いや『しばらく』だけど?……うん、じゃあ、芝生の芝に楽しいで『芝楽』ってのはどうよ」
目の前には、またしても放心したような、どこか愕然としたような表情の『芝楽』が立っていた。
「あ、話を戻すか、芝楽。」
「うう…なんだか釈然としませんが、まぁ自分の名は自分で付けられないのは常ですから、良いでしょう。…話とは?……飯田さん」
ぎこちなく苗字を呼んだため、少し焦った。
「ちょ、いいよ、下の名前で良いよ」
すると少々狼狽えるようにきょろきょろと辺りを見回して、俺を見据え、恥ずかしそうに――しかし嬉しそうに、呟いた。
「……鏡弥さん」
やっぱり可愛いなぁ、と思う。さぞかしクラスでモテることだろう――いや、明治コスプレのせいで台なしだが。
「ああ、えっと……芝楽さぁ、声が綺麗だから演歌よりもJ-POPのバラードとか歌ってみればいいんじゃない?」
「自衛…六腑?薔薇?」
んん?伝わってないかも?人間恐怖症となんか関係あるのかな。
「とにかくさ、今から俺が弾くから――」
言いかけて、止まった。芝楽は困ったような顔をしている。多分、俺の表情が急に暗くなったからだろう。
「……ごめん、忘れて。俺、もうギターやめるんだったわ」
口を「え」の形にしたまま、芝楽は俺を見つめていた。居心地が悪くなり、ギターをしまうために俯いたふりをして目を逸らした。
「今日あの演歌も弾いたし、これでお終い。もうここに来ることもないかも」
「そんな……やめる必要なんてないじゃあないですか」
なんでこいつ、泣きそうな声になってんだろう。本当、感情の起伏が激しい。感情が表に出やすい人なんだろう。
「ギター続けてたら、どうしたって古井のこと考えちまうだろ。うじうじと引っ張るより、すぱっと諦めたいんだよね。情けないけど、ギター切るくらいしないと気持ちにキリがつかないと思うから」
情けない。本当に情けない。まだ初対面に近い女の子に、こんなに全部吐露して。なんなんだよ、俺。
「じゃあ……」
芝楽の声が降ってくる。じゃあ、か。じゃあ仕方ないですね……そんなこと言わないだろう、彼女は。じゃあ本当に切るんですね、とかだろうか。
「じゃあ、じゃあ……」
しゃがみ込んで、俺の顔を覗きこむようにして、言った。
「私があなたの鍾子期では駄目ですか?」
「……は?」
「私が貴方のギターを理解しますから、だから、私の為に弾いてください」
なんの冗談かとも思ったが、冗談ではないらしい。真剣そのものの顔をしていた。しかし冗談じゃないにしても、理解できない。
「待って、しょーしきって……誰よ」
芝楽はせっつくような、いかにももどかし気に顔をしかめて答える。
「嗚呼、三日前話したでしょう?伯牙の無二の親友です」
ああ、と一言漏らし、思い出した。鍾子期なんて名前だったか。それにしても、やっぱり意味が分からない。
「……で、どういう意味さ」
「だから……、ああもう、つまり、ギターをやめないでほしいんです。彼女を思い出してしまうというなら、私の為だけに弾いてください。……今まで、彼女の為に歌ってきたんでしょう?」
とにかくギターはやめては駄目だという。
「ギター弾いてるとき、鏡弥さんのカオは一番きらきらしてました。ギターをやめるのは間違ってます」
きらきらとか。よく恥ずかしげもなく言えるものだと思った。しかし――良い響きだな、とも思った。「輝いていた」とかよりも自然で、世辞ではない気がした。少しだけ――ほんの少しだけだが、ギターを弾く自分のカオをみたくなった。
「弾くのを休むのだって良い。でもやめるのは間違ってます、絶対。」
結局彼女の迫力に圧されて……そして少しだけその言葉に惹かれて、ギターをやめるのは止した。
ただしその日はもう弾く気になれず、芝楽と話すことにした。
大体、友達になったはずなのに、俺はこいつのことをまるっきり知らない。なんで明治コスチュームに身を包んでいるのかとか、外来語は知っているものと知らないものがあるのかとか、そもそもどうしてここにいるのかとか、まあ山ほど質問はあったし、山ほど質問してやった。……しかし、結局大したことは分からず終いだった。分かったことと言えば、いつも日が暮れると此処に来るということくらいだった。
「まぁ私のことは良いじゃあないですか」
困窮した笑みを浮かべて、そう言った。
怪しいと思いつつも、怪しいのは初めからだと思い直し、最終的にはどうでも良くなった。
「鏡弥さんの話を聞かせてくださいな」
とせがむので話題を探すとふと、さっき思い出したことがあるのに気付いた。
「俺の話かって言うと微妙なんだけど。」
そう前置きして、今日あったことを話した。
「俺の仲良い女子にさ、サイ子ってのがいるんだけど。そいつの様子がヘンだったんだよね」
「変……ですか」
ちょこんとしゃがみ込んだまま、小首を傾げた。茶色がかった髪が揺れる。横髪を後ろで結わった髪型はこの前と同じだ。
「なんか俺が女友達多いとか、女遊びしてるとか」
「してるんですかッ?」
「してねーよ!……とにかく、普段はそういうこと言わねぇし…あと、なんかぐちゃぐちゃ言ってた」
どんな、と促されて、頷く。
「なんか……俺が、本当はナントカじゃないかとか、そんなようなこと。よく聞こえなくて聞き返したらはぐらかされた」
「んんー……」
真剣な顔で眉を顰め、悩んでいる。それからコンクリートの地面を睨んだまま、
「サイ子さんは、貴方が彼女――古井さん、でしたっけ――のことを好きというのはご存知なんですか?」
と訊いてきた。
「……知らないよ。誰にも言ってねぇし」
サイ子に言うなど考えられない。そもそも古井とサイ子は友達だし、最近はクラスでは三人で話すこともしばしばあった。
と、芝楽は随分不思議そうな顔をして、
「言ってないから知らないってことですか?」
と言う。どういう意味が測りかねて黙っていると、意味ありげな微笑みを湛えてこう言い直した。
「言っていないからといって、サイ子さんが気付いていないということではないかもしれませんよ」
「………。」
サイ子はそんなに勘の良いやつだったか。分からない――というより、知らないのかもしれない。なんだかんだ四年近く縁が続いているわけだが、意外と知らないもの……らしい。
「サイ子さんかぁ。会ってみたいですね」
ぽつり、と呟いたのは、本当に思わず零れたといった様子だった。
沈黙に耐えられず、というか、サイ子が気付いているかもしれないという考えから逃れたくて、何も考えずその呟きにこう答えてしまった。
「じゃあ、今度連れてくるか」
「えっ、いいんですか?」
ぱあっと顔が輝いた。本当に、表情に富む女の子だ。
しかし、すぐにその輝きが陰った。
「……でも、こんな時間に女の子が出歩くのは危ないでしょう?お気持ちはとても嬉しいですけど…」
「あんたはどうなんだよ、あんたは」と喉まで出かかったが、なんとか言わずにおいた。やはり触れるのは恐ろしい。……まぁ本人が「ご心配なく」と言っていたので余計な心配はしないことにしよう。
「まぁ、別に近所だから俺が送ればいいけど……よく考えたら、あいつ、来るかなぁ」
変な女の子に会わせたい、なんて言ったら訝るだろうし、ギター練習してるから聞いてよ、なんてのも恥ずかしくて言えやしない。そういうわけで――
****
「今日の夕方、暇?」
そういうわけで、こんな微妙な聞き方になってしまったのだ。
本当は「今日の夜」と言う方が正しいように感じるが、なんだか妙な響きを含んでしまうような気がしたのでやめた。サイ子は眉を顰め、
「何、それ。夕方?暇じゃないけど?」
と言った。……夕方でも駄目らしい。
意気消沈して大袈裟なくらいにがっくりすると、それを見兼ねたように顔を覗き込んでくる。
「……そんなに大事な用事なの?他の人誘ってみたら?」
「大事っていうか……サイ子に来てもらわないとなぁ」
芝楽が会いたがってるからなぁ、とは口の中だけで呟いた。
表情が豊かだからだろうか、なんとなく喜ばせてやりたいな、と思った。
「暇に、なってあげてもいいよ?」
「え」
作ったようなふざけた『上から目線』。優しい色が滲む。顔を上げた。
「どういう意味?」
「だから…そんなに大事な用事があるわけでもないし、ずらしてあげても良いよってこと。」
「えっ、ちょっ、マジで?明日とかでも良いんだけど……今日来れんの?」
「まぁ、うん。今日が良いんでしょ?」
「おう、それは!早い方が良いし!いやーサイ子お前良い奴だなぁ」
俺は満面の笑みで肩を軽く叩く。芝楽の喜ぶ顔が浮かんだ。
しかし目の前には、サイ子のどこかぎこちない笑顔があった。
「そう…あたしは良い奴なんだから!感謝してよね?」
あたしみたいのが友達で良かったでしょ?という言葉に、俺は頷くだけだった。
「あーずさっ!今日も陸奥と帰んの?」
古井に飛び付くサイ子を見て、自己嫌悪に陥る。思ってない、今の一瞬だけサイ子と成り代わりないなんて思ってない。諦められてないどころか下心までばっちり補完なんてそんなこと、ない、ない。
「今日はねぇ、なんか友達と寄るとこあるからって。待つのも面倒だし、一人で帰ろうかな」
自分の耳が常態の三倍になった気がした。ピクリどころではない、警告音が聞こえてきそうなほど盛大に反応した。顔には出してない…出てないと思うが。
「えぇー、じゃああたしらと帰ろうよ」
うおおおサイ子ナーイスッ!
内心ガッツポーズをしていると、サイ子に手招きされた。この時ばかりは、にやけていない自信はまるきりない。
ふと、どこかで「諦めたんじゃなかったの?」と声がした。
芝楽のような、サイ子のような、どちらともつかない声だった。
俺は、それが聞こえないふりをした。
*
結果からいえば、正しかったのだと思う。
どういう意味かと言えば、一緒に帰ったのは諦めるのに適当な行為であったろうということだ。
つまり。
「それでさぁ、あいつ馬鹿だからあたしが何で怒ってるとか分かんないんだよね」
「いやぁー男はみんなそうだって!女の沸点が分かんないんだよね」
「しかもあいつさぁー」
陸奥の話がね、多いんですよね。
多分本人は意識してないのだろうし、惚気というよりも貶してばかりだから聞いてて嫌になるようなものではない。ない。断じてない。
「ねぇ飯田」
「へっ?なな何か?」
「鏡ちゃん何キョドってんの?」
唐突に呼びかけられ、つい大仰に反応してしまう。一体何だ、いやそんなたいしたことじゃあないだろうけど、などと内心かなり浮足立ちつつ古井の次の言葉を待つ。
と。
「飯田って、最近彼女と別れたの?」
………は?
「……え、何の話?」
唯一彼女がいたのは中学のハナシですが?
「なんかそうやって聞いたんだけど」
「いや、それ違う人じゃねぇ?鳥喰とか……なぁサイ子、俺高校で彼女なんか出来てないよな」
同意を求めつつ、俺の与り知らぬところでそんな噂が流れているのかと不安になったが、意外とあっさりした返事が返ってきた。
「あ、やっぱ間違ってたんだ」
「え、"やっぱ"?」
古井の顔を見ると、あっけらかんと笑っている。そしてもう一度「やっぱりね」と言った。
「いやさ、陸奥がそう言ってたもんだから。でもあいつ、人を覚えんの苦手だからさ、間違ってんじゃないかなーって思ってたんだよねぇ。飯田、そんな風にも見えなかったし」
――また、陸奥か。
諦めた、はずなのに。
どうしてこんなに苦いんだろう。黒くて濁って淀んでいるんだろう。悲しいとか苦しいよりも、苛立つ。陸奥陸奥陸奥って、なんなんだよ?そんな奴良いから俺見ろよ。
だがそう叫ばなかったのは、恥ずかしさがあったからかもしれない。陸奥と古井が二人のときに俺のことを話していた。それが恥ずかしかった。悔しかった。ひどく恥ずかしかった。
黙り込んだ俺をどう思ったのか、古井もそこで言葉を切ったまま黙り込んだ。
ぷつん、と途切れた会話は静寂だけを残して、そのしっぽすらも見えなくなった。これではまずいと思い、何か言おうかと思ったが、どうにも言葉がでなかった。苛立つやら恥ずかしいやらで、言葉がでなかった。
これ以上の沈黙は気まずい、と思った時。
「そういえば、鏡ちゃん中学の時は一人いたよねぇ」
暢気な声。サイ子だ。
この微妙な沈黙をどうとも思わないわけはないから、意識的に暢気な声を出したのだろうが、とてもそうには思えない、さりげない一言だった。
「へぇ、いたんだ?」
「まぁ、一応ね。短かったけど」
苦笑いで答えると、古井はにやにやと笑いながらこちらを見る。
「振ったの、振られたの」
そこを訊くかよ、と弱りつつも、「自然消滅、みたいな?」なんて答えようとしたが、横槍が入った。
「見た目よりもずっとへたれだから愛想尽かされちゃったんだよねっ」
爽やかな、しかし古井のにやにや笑いよりもずっと厭味な笑みを浮かべつつ、頭をわしわしと撫でてくる。それをわざと大袈裟に振り払って、
「自然消滅だよ、自然消滅!なんか、お互いあんま話さなくなってたし」
と身を躱すように言って笑った。
そんな俺達の寸劇を見て、古井はけらけらと笑った。
古井と別れ、サイ子とは他愛もない話をしながら「夕方迎えに行く」という約束を交わしたのち別れて、一人家路に着いた。
そこで思ったのは、やはりサイ子は呼吸を分かってくれていて気持ちが良いということ。
そして、やはりまだ古井が好きだということだった。




