⑮-10 まどろみへのエピローグ①
控えめなノックの音が、会議室に響いた。しかし、相手は声も上げず、そのままだ。
「どうしたんだ。ティトーだろう?」
「うん……。お父さん」
ティトーは元気のない声のまま、扉を恐る恐る開けた。くたびれた様子でドレスを着たままであり、ダンスの練習をみっちりフラー夫人に仕込まれていたのが見て取れる。髪はアップにあげられ、一つのお団子を結わいている。
「お父さん、僕、ダンスのセンスないかも……」
「なんだ、まだ初めて一日目だろう。長旅の疲れもあるんだ、今日はもう休みなさい」
「でも、ステップはちゃんと踏めないし、頭の上に置いた本も全部落としちゃうの」
「俺だってステップは踏めないし、本だって落とすぞ」
「うー」
と言いつつ、簡単なステップを踏むルクヴァは得意げな表情を浮かべると、アルブレヒトをチラ見した。
「アルブレヒトにステップ教わるか?」
「え! アルはステップ踏めるの?」
「え……」
二つのブルーサファイアの瞳を煌めかせ、ティトーはアルブレヒトを羨望の眼差しで見つめた。
「いや、もう。随分前だし……」
「すんごい!」
「そんな言い方してると、またフラーさんに注意されるぞ」
「今いないもん!」
ティトーは習ったステップを踏みながら、躓いてしまった。
「わっと」
「おい、もう疲れているんだ。その辺でやめとけよ」
アルブレヒトの支えに、ティトーは恥ずかしそうに顔を上げた。
「ありがと。うーん。もっとちゃんと、かっこよく踊れると思っていたんだけどなぁ~」
「ダンスはかっこいいというより、優雅のほうじゃないか?」
「ええー。そうなの? でもほら、ここのステップが……」
「だから、今日はもう終わりだ。ほら、夕飯になるから着替えてこいよ」
「ううー。そうする」
ティトーはハッと気付いたようにドレスを揺らすと、ルゼリア式に挨拶をして見せた。
「お父さま、着替えてまいります」
「あーうん。着替えてこい」
「はーい!」
すぐに駆け出していくティトーに、ルクヴァは頭を抱えた。
「お転婆だなあ。優雅の欠片もない」
「ティトーらしくていいけどな」
「うちの娘に見惚れるのは辞めろ」
「み……。なんか勘違いしてるだろ! 俺は別になにも……」
「あーそうかよ。じゃあ俺も着替えてくるから」
そう言い残し、ルクヴァは会議室を去っていった。一人残されたアルブレヒトは、書類をまとめながらティトーのドレス姿を思い返していた。
◇◇◇
夕食を終えると、レオポルトとマリアは薬の時間だと言って部屋へ戻っていった。レオポルトの容態は安定してはいるものの、一生飲み続けなければいけない薬草茶。それでもレオポルトはマリアに感謝していた。
「思っていたより、6年での進展がないようだな」
「進展も何も、あの年齢差だし。ティトーだってそんな気はないんじゃない?」
「そうは言うが……」
マリアお手製の薬草茶を飲み干し、レオポルトはため息を吐き出した。安心したようにマリアを見つめると、そっと抱き寄せた。
「もう何よ。いきなり……」
「いきなりでも、ないだろう」
「…………もう。薬は全部飲めたのね。変わったところは?」
「身体が火照るようだ」
「え? もしかして、熱が?」
慌てておでこに手を当てるマリアに、レオポルトは更に抱き寄せた。
「マリアが傍にいるからだ」
「レオ……。それならそう言ってよ。心配したんだから」
ブルーサファイアとグリーンサファイアの瞳を目隠しするようにすると、マリアはレオポルトにそっと口づけた。照れたマリアの指の間から、煌めく瞳が覗き込んでいた。
「恥ずかしいから、あんまり見ないで」
「どうして? こんなに美しく愛らしいのに」
「そうやって、直ぐ恥ずかしくなることを言うんだもの……」
「それはマリアが愛らしいからだ。仕方ないだろう……」
「レオ……」
抱擁の後に再び口付けをかわす。マリアは熱っぽいため息を吐きなが、そっと傍に置かれた写真立てにふれた。
「もっと沢山、写真をとるべきね……」
「マリアのか?」
「なんで私なのよ! ……この写真みたいに、家族の写真よ」
マリアは写真を手に取ると、自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
「今は国を隔ててバラバラでも、家族なんだもの。私には出来ないから」
「何を言うんだ。マリアだって……」
「そもそも! こんなイチャイチャするなんて聞いてない! キスだって、……い、いつも突然してくるじゃない。このキス魔!」
「それは……。さ、さきほどはマリアから……」
「私、レオポルトからは何も聞いてないし、言われてもない。何の関係なのよ、私たち……。何も言わないなんて、ズルいわ」
レオポルトはマリアを抱き寄せると、力いっぱいに抱きしめた。
「すまない。恥ずかしくて、……怖くて。それで……」
「乙女じゃないんだから、もう!」
マリアは顔を上げると、傍に迫るレオポルトのオッドアイを見つめ、赤面させた。それでも視線を逸らすことなく、抱きかかえられながら言葉を待った。
「マリア。君との出会いは、未亡人としての襲撃だったな」
「それは……。そうね、最悪の出会いだったわね」
「それでも、俺は君に目を奪われた。美しい赤毛に、愛らしいその表情に」
「そ、そんなこと考えていたの? 随分と余裕じゃない、王子様」
「俺は王子じゃない。ただ、本当に……」
レオポルトは視線を泳がせながら、再びマリアを見つめた。マリアは不安そうにしながらも、ただ待ってくれている。
「……マリアは俺にとって、かけがえのない存在だった。それは薬を調合してくれるからじゃない。その……」
「うん」
「いつも笑顔で、辛いことがあっても笑顔でいてくれた。何よりも、不器用な俺を信じてくれた」
「……うん」
「黒龍を許してくれたこと、黒龍と共に生きていくと決めてくれたことを、俺は……」
「…………うん。あの、レオ? あのね、そういう話じゃなくて……」
赤面させるレオポルトは不意に視線をそらしてしまった。首筋まで赤くなり、指先まで震えている。
マリアは家族から虐待を受けてきたという。暴力から、性的なものも含まれるという。そんな彼女は、レオポルトのキスを受け入れていた。しかし、それ以上に入り込めない壁があった。その壁を作っていたのは、どちらなのか。
「ねえ、レオポルト。私を見て」
「え? ああ……」
「私は、レオポルトのことが好きよ。傍に居てくれるし、私を大切にしてくれるもの。……感謝してるのよ」
「ま、マリア……」
マリアは抱きかかえられながら、その腕にしがみつく様に、レオポルトの胸へ顔を埋めた。
「恥ずかしいのは、私だってそうなんだから……」
「……マリア。俺は」
「君を愛している。ずっと傍に居て欲しい」
レオポルトはマリアが顔を上げるのを待ち、そっと指輪を取り出した。
「それ……」
指輪の石は青と緑の宝石が埋められ、ネリネの花が掘られた指輪だった。ルゼリア国との友好を現わすかのような指輪だが、相手の瞳の色の石を受け取るという意味は、マリアでも知っている。
「ネリネの花言葉には、幸せな思い出という意味があるそうだ」
「……し、知ってるわ。それくらい……」
「…………結婚して欲しい。マリア……。愛している」
「い、色々すっ飛ばし過ぎじゃない! 私たち、まだ付き合ってもいないのに……」
赤面させたままのマリアに、レオポルトは真剣な目で見つめた。照れくさすぎて、赤面させながらもマリアは左手をそっと掲げた。
「……もらってあげてもいいわ」
「もらうだけじゃダメだ。……どうか俺と、結婚を前提に付き合って欲しい」
嬉しさに口元が緩むマリアは、それでもどうしても聞きたい言葉を手繰り寄せられずにいた。その気持ちを抑えることは出来ない。
「……ぁ。ああ……レオ。どうして好きだって言ってくれないのよ! ……あ、愛してくれてるのは、その。わかったから」
「軽くはないか? 君への気持ちは軽いものじゃ……」
「じゃあ何? 私が好きって言ったのは軽いって言うの?」
「いやそうじゃない……。その、好きだ。マリア。結婚して欲しい」
「ばか! ……好き!」
抱き着いて離れないマリアの指を取ると、レオポルトはそっと左手の薬指に触れ、指輪をはめた。
「ふふ。きれいで、かわいい……」
「マリアみたいだろう」
「もう、馬鹿ね……」
「先ほどから言う馬鹿とは、地球の言葉なのか?」
「もう、ばか!」
二人は抱きしめ合い、口づけを交わしていった。5月の夜空には星が瞬き、二人を祝福するかのように煌めいていた。