⑨-13 そして、少女は目を覚ます②
マリアは足早に向かいの建物を訪れた。その様子に、心配していた兄は声を上げる。
「ティトーは起きたか⁉」
「うん。やっとね。アルは?」
「サーシャの所へ行くと言っていた。声をかけてきてもらえるだろうか?」
「もちろんよ。スープを内緒でもらいたいのだけど……」
「それなら尚の事、サーシャ殿に頼もう。聖女の言葉なら、厨房も納得するだろう」
慌ててティトーの元へ駆けつける男は、妹を心配する兄そのものだ。その姿に安堵したが、すぐにマリアは駆けだした。中庭に出ると、そこにはサーシャと親しそうに話すアルブレヒトの姿があった。サーシャが先にマリアの姿に気付き、手を大きく振ったところで、アルブレヒトが振り返った。すぐに悟ったのか、此方に駆け寄ってくる。
「ティトーは起きたか?」
「うん」
「レオには?」
「今話してきたわ」
「そうか」
アルブレヒトは「良かった」と呟くと、サーシャに向き合った。その姿に疑問を感じ、アルブレヒトに尋ねたのは自然な行動だった。
「アル。あなたは行かないの?」
「そうですわ。ティトー様が目覚めたのであれば……」
「二人で話したいこともあるだろう、兄妹で」
口元に手を当てたサーシャは、アルブレヒトを黙って見つめていた。マリアはそれでもアルブレヒトなら駆けていくであろうと思っていたのだ。
「なんだか、アルらしくないわね」
「そうか?」
「うん。三日も目を覚まさなかったし、その間ずっとオロオロしてたのは、“お兄ちゃん”だけじゃなかったじゃない」
「まあ……。そりゃ三日も寝てたら、心配はするさ」
アルブレヒトは照れたように口元を曲げると、恥ずかしそうに笑った。その笑顔、自然に笑うアルブレヒトに見覚えのあったマリアは、その笑顔に見入ってしまう。それは、サーシャも同じだ。彼が自然に笑うのは、何年ぶりであろうか。
「三日も寝てたんだ。さぞ、兄貴に会いたかっただろうな」
その言葉に、二人はアルブレヒトの妹、メリーチェを想った。アルブレヒトもまた、兄なのだ。
「メリーチェから、その後連絡は?」
「……元気にやってるさ」
「行先はご存じなのですか?」
「直接は、まだだ。でも、聞いた話じゃ元気にやってるみたいだから」
かつてのような笑顔は終わってしまった。再びその笑みを浮かべるのは、いつになるのだろうか。
先ほど見た自然な笑顔のアルブレヒトに安堵した二人は、急に心配になってしまった。
セシュール国が国を挙げて、アルブレヒト王子の生存と、拘束されているのは不当であるとし、正当な身柄の保護を訴えたのだ。
昨日の新聞では、ラダ族、そしてタウ族族長をはじめ、全ての14種族が連盟で声明を発表したのだ。それは、アルブレヒト王子の身分について言及し、戦争が間違いであったことを主張している。
正当な国が敗戦し、亡国となることは許しがたい。セシュール国は全面的にアルブレヒト王子を支持するとしている。
「アルブレヒトお兄様。これからどうなさるのですか」
「セシュール国に戻る。フェルド共和国にとどまる事も出来るが、それはそれでこの国に迷惑がかかる」
「儀式のために、神殿のあるフェルド共和国入りしただけだものね。ティトーが目覚めたなら、戻るべきだわ」
「マリアも来られるか?」
“来い”ではなく、“来られるか”という所がアルブレヒトらしいと、マリアは感じていた。それが寂しいようであり、アルブレヒトらしい。
(この人に恋をしていたら、きっと立ち直れなかっただろうな)
マリアは内心でそう想い、心からその言葉を消し去った。自身にとって最初に出来た大切な友人であり、恩人である。それは今も変わらない。
「そうね。でも、本来なら私も捕虜になるべきだったのよ。私があんたの婚約者だったのは、ルクヴァ王ならご存じの筈だもの。ティトーだって、やっと父親に会えるんだもの。私たちには分からないほど、寂しかったでしょうね」
「そのことですが、マリア」
「なに? サーシャ」
サーシャの表情は重苦しい笑みだ。あまりいい話ではないのであろう。
「ティトー様を、ルゼリア王国にお連れしなければならない事態になりそうなのです」
「え⁉ だって、アドニス司教は……」
「……さすがに、親族であると公言するようなことですもの。代王が会いたいと申し出たそうなの。それに、一介の司教が断れるはずもありませんわ。一応、アドニス司教は代王とは親族です。それは、家から出ていたとて、なくなるものではありませんわ」
マリアはアルブレヒトを見つめたが、アルブレヒトもまた俯いてしまった。
「そんな。だって、やっとセシュール国に帰って。やっと父親と会えるって。そうなんじゃないの?」
「…………ティトー次第だな。そこで、セシュール国を優先し、戦争の火種を煽るようなこと、あの子はしないだろう」
「どうしてティトーだけ、そんな辛い眼に遭わなくちゃいけないの。あんなに頑張っているのに」
「マリア……」
黙って聞いていたサーシャが重い口を開いた。その表情は、懇願するかのようだ。
「ですから、マリア。貴女もルゼリア国に、一緒に来ていただきたいのです」
「来て欲しいって。え、ルゼリアに? 私なんかが行ってもいいの?」
「アドニス司教の話では、アルブレヒトお兄様の婚約者の素性までは伝わっていないそうです。私も聖女として、大巫女様に同行しますので、マリアには世話役の神官として付き添っていただければ、ティトー様も安心できるでしょうから」
「私はいいわ。でも、本人やレオには伝えたの……?」
マリアは不安そうに、ティトーの休んでいる建物を見つめた。マリア自身に何の問題もないが、ティトーはどうするのであろうか。
「これから、お話しますわ。まだ、アドニス司教には目覚めたことをお話にならないで。少なくとも明日まで訪問する予定はありません。昨日来られたばかりですもの」
「……わかったわ。でも、ティトーに食べ物を持っていきたいの。ぬるめのスープとか、何か栄養になりそうなものってないかしら」
その言葉にサーシャは力強く頷き、マリアと共に神殿内の厨房へ案内していくという。
「ねえアルブレヒト。あんたはレオと、それからティトーに説明してあげてよ。サーシャからより、遠慮なく本音が聞けると思うわ。もし寂しいのなら、ティトーには無理をしないで欲しいの」
「わかった」
マリアとサーシャを見送ると、アルブレヒトはティトーの居る部屋ではなく、神殿の中庭へ向かった。
小さな庭園には小さな花が咲き乱れ、色とりどりに鮮やかに染まっている。色別に咲き乱れる小さな花がなんであるのか、男は知らなかったが美しいと感じていた。そして、中央には小さな噴水がある。
「フェルド平原。それは遠く、とおい……」
アルブレヒトは胸ポケットから銀の懐中時計を取り出すと、俯きながらフェルド平原の方角を見つめた。
そして、反対方向。ケーニヒスベルクが遠く聳え立つセシュールを見つめたのだ。
「セシュール国。か……」
「どうして、お前はそんなに遠くに聳え立つんだ……」
山脈ケーニヒスベルクは遥か遠くに聳え立ち、そして初夏の色どりである緑に包まれている。その山は秋になると紅葉し、真っ赤に燃え上がり、そして冬になると白銀の化粧を付けるのだ。
そうやって一年が、季節は巡る。
山脈がいつから、どうやって聳え立ったのか。
誰も、何も知らないのだ――。