可憐で麗しいあの遥の口から、衝撃的な単語が飛び出した
「食事の好みが変わったのだな」
ぽそりと向かいから聞こえた言葉に視線を上げる。どこか寂しげな、それでも嬉しそうな優しい眼差しを向けられれば、動かしていた口が止まった。
食事の好みが変わった。恵梨香はそれを自覚していなかったが確かに前世と比べると大きく変わった気がする。
デザートは食べるが、前世程好ましく食べなくなった。
辛いものが好きになった。
珈琲を好んで飲むようになった。
でも、それは些細なことで、彼女が口にするまで気が付かなかった。そういえば、と思い直して思い出したのだ。逆に、前世の遥の好みはなんなだったか言えと言われれば言えない。それほどまでに、前世の記憶が薄いのか、はたまた皇帝に対しての感情が薄いのか。
元々が政略結婚だったのだ。恋の惚れた腫れたの感情があったのか、今となってはわからない。だが、目の前に映る大宮遥の見せる表情から、どうやら本物だったのだろうか。
止まってた咀嚼をゆっくりと噛んで、ごくっと飲み込んだ。水を1口含んで口の中をさっぱりとさせる。
「よく、私の好みを把握されておりましたね」
純粋な賞賛だった。それを嫌味に捉えれても仕方ないと気がついたのはうっかりと口にしたあとだ。目の前の遥の表情が崩れた時に失言だと気がついたのだ。
「あの、今のは……――」
「覚えてるよ」
言葉の途中で紡がれた静かな肯定の言葉にきゅっと唇が結ばれる。
「覚えてるんだ。妻のことばかりを。何をしたら喜ぶのか、何を食べていたのか、どんなものが好きだったのか、どういうふうに笑うのか、どんな喋り方をするのか、どんなに瞳が綺麗だったか、愛らしかったか……どんなに君を好きだったか……」
その言葉に、瞳にぎゅっと胸を鷲掴みされた感覚になる。そのまま、きゅぅっと高鳴って切なくなってしまう。
(好きだったのだろうか、前世の私は。陛下のことを……)
恵梨香の記憶は感情まで呼ばない。ただ事実と思い出を流すばかりで、他者に対しての感情を上手く流してくれないのだ。皇帝と過した時間は多くは無いが、不幸だったような印象もない。それも、遥に会ってから流れてきた。
今まで、ふんわりとしていた人間の輪郭が形を持ってやっと現れた。薄かった印象の夢に彩を与えたのは、遥と出会ったことがきっかけなのは間違いなかった。
それでも、やはり記憶は薄い。きっと、遥の持ってる前世の記憶なんかよりももっと。それは少しだけ――って思えてしまうのだ。それに、――って思ってしまうのが怖いから彼女から逃げていた。
「……先輩」
感傷的な声を出してしまった。恵梨香の言葉に遥も視線を向けてくる。込み上げてくるなんとも言えない苦い感情をグッとかみ殺して、止まっていた手を徐に動かし始めた。
普段はこの学園に小等部からいたのではと思われるほど品行方正で、礼儀正しい恵梨香であるが今はそれを思わせない。乱暴にフォークをパスタに突き刺すと、ぐるぐると豪快に巻きとる。それを大きな口でばっくりと口に含んでしまえば、頬袋を目いっぱい膨らませながら咀嚼した。
溜まってた遥に対する負い目を咀嚼して小さく細かくしていけば、ごっくんとそれを腹の底まで押し込んでく。最後に豪快に水を飲みきってしまえば、ダンっとカップの底で床を叩いた。それはもう、この学園の生徒やそんな環境で育った人たちは見ないだろう豪快な食べ方だ。遥もそんな乱暴な恵梨香の突然な行動に目を丸くしている。
恵梨香はふぅっと深く深く息を吐くと、懺悔をするように口を開く。
「ごめんなさい。私には、先輩程に記憶を持ち合わせてないです。元旦那の顔も先輩と会うまでは朧気で、私の周りにいた人たちとの会話も声も、それに対しての感情も正直に覚えてない」
だから逃げていたと言っても過言ではない。こちらは過去を語れるほどの情報量が少ないのだ。きっとそれを聞くとがっかりする。しかし、こうなってしまえば話さざるを得ない。遅かれ早かれ、恵梨香の中の前世の記憶がとても薄いというのはばれてしまうのだ。
「なので先輩が思っているほどの過去話は出来ないかと……」
勢いをつけて言ったは良いが、最後は萎れてった。持っていたフォークを音を立てないようにそっと置いて、綺麗な姿勢で頭を下げる。それを遥はきょとんとした表情で見つめていた。恵梨香の勢いが良すぎたのだ。頭が良い遥でさえ彼女の発言を飲み込むのに1拍おく。
下げられた恵梨香の頭。相変わらずに姿勢がとてもいいと思った。綺麗に見える後頭部は、つむじはきれいな右巻きだ。艶やかな綺麗な黒。とても手入れが行き届いている。遥は吸い寄せられるようにゆっくりと手を伸ばした。
「下○ツボ」
人差し指で恵梨香のつむじを軽く押しこむ。
(げ……ツ…ぼ……)
可憐で麗しいあの遥の口から、衝撃的な単語が飛び出したかと思えば、突然の行動に恵梨香も頭を下げた先で目をまん丸くするしかなかった。固まって数秒。どんなリアクションをすればいいのか分からず沈黙が続いて数秒。
「ぷ……くっ……くく……あっははははは……」
突然、正面の席で盛大に笑いだした遥に、一抹の恐怖を覚えながら顔を上げる恵梨香だった。