カゴから出る
私が鳥だったら、空高く飛べるのになぁ。
英語の授業で習った、仮定文の和訳のような一言をつぶやき、葉月は卵焼きを頬張った。
「だったら、バンジージャンプでもすれば」
そう私が返すと、彼女はうーん、と目を閉じて唸った。長い睫毛が頬に影を落とす。
夏が、すぐそこまで迫っているような気がした。
私たちのすぐ上では太陽がぎらぎらと存在感を放ち、なぶるようにつむじを炙っていた。緑色の人工芝にぽかりと浮かぶ日向のゾーンに、私たちは肩を並べて座っている。白いフェンスの向こうに白線を引いたグラウンドと、あと数分で戻らなくてはならない古びた校舎、少し目を凝らしたら水を張ったプールや広々としたテニスコートまでが見える。
毎日、昼休みになるとこの屋上でふたり、お弁当の蓋を開ける。とりとめのない会話を重ねて、母が作ってくれたおかずと、白米と、飲み物をするすると腹に収める。
「あれは空を飛ぶというより、スリルを味わうものでしょ。私が求めてるのは、そういうのじゃないのよ」
ゆっくりと咀嚼する葉月の髪は、日差しを浴びていつもより茶色に艶めいていた。大きい黒目の上で、綺麗な眉が少し歪む。とがらせた唇は、油ですこしてかっている。
「じゃあ鳥人間コンテストに出てみるとか」
「あれもだめ。なんの器具も使わずに人の手も借りずに、ただふわっと自分の意思で、空を飛んでみたいの」
初夏の空は、淡い水色が薄く伸びて、そこにもやのような白く薄いベールの雲がところどころに散らばっていた。
空を飛ぶということは、あの中に溶け込むということ。
「たしかに、ちょっとわかるかも」
羽ばたきたい。飛んでゆきたい。
そう思うのは、受験を控える高校三年生の、私たちの、ある意味自然な欲求なのかもしれない。
でしょ、と相槌を打つ葉月の横には、ルーズリーフと単語帳がひっそりと身を置いていた。単語帳には赤や緑や黄色の付箋が見え隠れしていて、角が少しよれている。
お弁当のあとは、あれにかじりつくのだろう。古びた校舎に閉じ込められて、必死に紙の上の文字を追い、脳みそに知識をこびりつけるのだろう。
取れないように、剥がされないように。
ピーコを思い出した。
塾からの帰り道、朱色とオレンジを混ぜたような夕焼けの空を見た時だった。ビルが建ち並ぶわずかな隙間を、小さな鳥の集団が器用にすり抜けていった。
ピーコは可愛かった。
可愛すぎたがゆえに、自由を失っていた。
「インコなんてすぐに飛び立っていっちゃうんだからね。絶対にカゴから出しちゃ、駄目よ」
母は毎日のように、そう口酸っぱく言っていた。
近所のおばさんがたくさん生まれすぎたから、と譲ってくれたインコのピーコは、我が家から盛大な歓迎を受けた。
頭は鮮やかなレモンイエロー、首元から徐々に生クリームのような白色になり、胴体は薄いエメラルドグリーンだった。
カゴの中で窓の向こうの景色を見つめる大きな黒い目や、珊瑚色の細く折れそうな足、首を傾げる動作ひとつひとつが愛らしかった。
ピーコが自由になれるのは、ご飯のときだけだった。
母が用意する、小さな皿にもられた茶色の粒を必死でついばむ姿は、ピーコが鳥であるということを改めて感じさせる瞬間でもあった。
ニンゲンに全ての支配権を握られてしまった、自分の思うままに食べ物を得ることさえできない、無力な生き物。見つめるだけで、行きたいところにさえ行けない非力な生き物。
皿の上の粒がひとしきりなくなると、遊ばせる隙も与えずピーコはすぐにカゴの中にしまわれる。そこから次のご飯の時間まで、閉じ込められたまま。
いとこや友達が遊びに来たときも、ピーコは利口だった。暴れることなく、静かに黒く濡れた目で見つめ返していた。
それでも私は、ピーコのことを考えると毎回きまって、窓を見つめる姿を思い出す。
小さい体は、窓を向いている。白い毛に覆われた首を懸命に伸ばして、景色を眺める、空を見つめる。自分と似たような姿の生き物が、一枚ガラスを隔てた向こうで自由に動き回るのを見て、何を思ったのだろう。
「鳥みたいに、空を飛べたらなぁ」
次の日の昼休みにも、葉月は同じ台詞を述べた。
照りつける太陽は、どんどん威力を増しているような気がした。
「飛んでみたら、いいんじゃないかな」
「え?」
思わぬ返答に目を丸くする葉月に、指で目の前のフェンスを指さす。白く塗られた格子状の、檻のようなフェンス。外界と"学校"という窮屈な組織とを、隔てる頑丈なカゴ。
葉月は手を顎にあててわずかに逡巡した。そして前を向いてカゴに歩み寄った。
ひとしきり景色を見つめて、窮屈そうな革靴と堅苦しいジャケットを脱ぎ捨てたのが、合図だった。
半袖のワイシャツから伸びた白い腕が、カゴの網目を掴む。右手、左手、右手。がむしゃらに上へ上へと進んでゆく。
途中から邪魔になったのか、白い靴下を脱ぎ捨てた。二枚の靴下は、人工芝の上にひらりと落ちた。それはどこか、羽のように見えた。葉月の体に張り付いていた羽が、飛び立つ準備の過程で、静かに抜けていったのだと思った。蝉が木の幹に殻を残すように、蛇がするすると脱皮をするように。私は葉月の靴下に、生き物の変わりゆく様を見た。
どんどん太陽に近づくにつれて、彼女のシャツに汗が滲む。背中にぽつぽつと灰色の斑点が増えてゆく。それでも彼女は上ることをやめない。細い足には、ぽっこりと筋肉の膨らみがあらわれて、歯の隙間から漏れ出たような薄い吐息が、空気をつたってここまで聞こえてくる。
「葉月」
私が声をかけたのと、彼女がカゴの上まで上り詰めたのが同時だった。
ピーコは死んだ。
嵐や雨に巻き込まれたわけではなく、誰かに握りつぶされたわけでもなく、気づいたら死んでいた。
逃すまいと覆い被さる白く頑丈なカゴ、毎日同じ茶色いエサの粒、しきりに羽に触れようとしつこく追いかけ回すいとこ、いつまでも光る母の監視の目。
私が見た最期のピーコは、窓の方を向いたまま横たわっていた。鳥は自由を求めて、羽ばたきを抑えて、カゴの中で死んだ。
「ねえ、ここ、気持ちいいよ」
葉月がそう言って、静かにこちらを見て微笑んだ。どこからともなく吹いた風が、彼女と私の前髪をさらさらと揺らす。
太陽と葉月の眩しさに思わず目を細めたその刹那、かすかにカシャンと音が鳴った。
それは、カゴが開けられた音に似ていた。
葉月が飛んだ。
淡い水色を背に広げた長い手は、優雅な翼のように見えた。端正な横顔の中で目立つ高い鼻は、硬く鋭いくちばしに思えた。カゴを蹴って舞い落ちてゆく葉月は、一瞬の間に輝く、儚くて美しい、鳥だった。
柔らかい風に煽られて、私の隣で葉月の持ってきたプリントがひらひらと舞う。問題集のページが勢いよく捲られてゆく。
黒く埋め尽くされた解答欄、消しゴムで何度も擦ったであろうぼこぼことした紙の痕、書き殴られた赤いチェックの印。
空を仰ぐ。私はつぶやく。
「飛べたね」
日差しの強さに目を閉じた。まぶたの裏には、鳥が羽ばたいてゆく瞬間が、永遠に焼きついて離れなかった。
どこかひやりとするくらい、あたたかな昼間だった。