亀裂が夜空を割く(1)
そう、それは突然だった。突然圭太さんが、私に教えてくれた。
あれは、裏山で遊んだ帰り道。その日も野山を駆け回り、全身をぐったりさせながら、家に帰る。
田舎に住んでいると、どうしても遊べる場所は限られてしまう。
『バス』を使えば、遠くの町まで遊びに行けるけど、互いにそんなにお金を持ってない。
それに、田舎の遊びも楽しいものだ。
町と違って『時計』がないから、日が沈みかけている夕方ごろまで、時間を忘れて遊んでいられる。
人の目も気にしなくていいから、木に登ったり川を泳いだりできる。
___というか、町の川なんて、泳ぎたくないんだけど。汚いし、濁ってるし。
家の仕事を頼まれない日は、思っきり遊べる日だから、いつも以上に疲れた。
圭太さんとは家が近いから、昔からよく一緒に山へ行ったり、遠くの町へ遊びに行く事も。
町でお金を落とした時もあったけど、圭太さんと一緒に町を練り歩くだけで、十分楽しかった。
ちなみに、落としたお金は返ってきた。___家に置き忘れただけだった。
山で遊ぶ際、圭太さんは川辺で魚を釣って、私は山菜を採って回る。
遊びながら食糧も確保できる、一石二鳥だ。こんな『お得な遊び』、町では絶対できない。
夏真っ盛りなこともあって、虫がすごかったけど、そんなの百姓の娘には関係ない事。
ヒルに噛みつかれようが、アブに追いかけられようが、私の両親はブチブチ潰している。
___でもヘビだけは怖い。見かけたら速攻逃げる。
家のなかでヘビが現れた時なんか、父が来てくれるまで、私はずーっと絶叫していた。
圭太さんの釣りの腕は、下手でもなければ上手くもない。
逃すこともあれば、糸を切ってしまったり、魚の勢いに負けて川へ落ちてしまう事も。
川に落ちても、圭太さんは泳げるからいいんだけど。
でも、山に行く度に何十匹も魚を釣れるのは、この山が自然に溢れているからだ。
魚が絡み合っている魚籠の中は、ちょっと気色悪いけど、焼くと美味しい。
焼くのは私たち子供だけではできないから、圭太さんの家で焼いてもらって、圭太さんの兄弟と、よく一緒に食べている。
圭太さんの魚籠も、私の背負っている籠も、帰る頃には何倍も重くなって、山から降りる
のも大変。
油断すると、重みに負けて転んでしまう。田んぼの中を歩くのと同じくらい、根性と力が必要。
でも、山道から見える夕日は、麓で見るよりも綺麗に見える。
その日もいつも通り、綺麗な夕日に照らされながら、一緒に家族へのお土産(収穫物)を背負って、山を降りていた。
道中、他愛のない雑談をしながら、足元に気をつけていた。
圭太さんはいつも、私の前を歩いてくれる。
もし、私が手前で転んでも、圭太さんが受け止めてくれるから。
それで私も、何度か圭太さんに救われた。やっぱり私は、圭太さんには敵わない。
そんな、いつも通り帰り道だった。圭太さんは突然、私に打ち明けた。
「_____なぁ、サチ。」
「何?」
「俺・・・・・俺さ・・・・・」
「___圭太さん?」
私の手前で突然立ち止まり、急に俯く圭太さん。
私は後ろにいるから、表情はわからなかったけど、その背中から、只事ではない事は伝わる。
そんな圭太さんは、生まれて初めて見た・・・気がする。
だって、いつも笑顔で、騒ぎ散らかしている圭太さんとは思えないような姿だったから。
そんな圭太さんが、かなり深刻な顔をして、何かを言おうとしているけど、何故か声が詰まる。
夕陽の逆光で真っ黒になった圭太さんが、私は急に怖くなって、圭太さんの背中に触れようとする。
でも圭太さんは、その直前に覚悟を決めた様子で、振り向くと私に打ち明けてくれた。
でもその話は、坂から一気に転げ落ちそうな話。
「_____あのな、サチ。俺、もうすぐ行かなくちゃいけないんだ。」
「何処に?」
「___『紅い手紙』が来たんだよ、俺宛てに。」
「__________え???」
私は、何も言えなかった。脱力する体を支えるだけで必死だった。
『紅い手紙』
それを受け取った人は、『遠く』へ行かなくちゃいけない。
その上、手紙を断るわけにはいかない。断ったら、一家が地域一帯から追い出されるかもしれない。
つまり、手紙が来た時点で、圭太さんは・・・・・
「_____そう。」
「__________帰ろうか。」
私は、何て声をかければいいか分からなかった。
「おめでとう」? 「元気でね」? 「また会える日を待ってるよ」?
そんなありきたりな言葉でさえ、私は口に出せなかった。
いつも一緒にいる人が、突然いなくなってしまう。これほどまで、恐ろしい事はない。
私と圭太さんは、トボトボと麓まで歩いた。無言のまま。
その日の夕日は、いつもよりも眩しいような、そんな気がした。
私の前を歩く圭太さんの足元も、おぼつかない様子。
今すぐにでも、彼に飛びつきたい私だったけど、できなかった。怖くて、できなかった。
何か言いたいけど、何も言えない。圭太さんの言葉を信じたくない、でも信じるしかない。
告白した圭太さんの背中は、いつもよりずっと小さく見えた。
ついさっきまで、大きすぎるくらいに見えたのに。
帰り道も、いつもより長く感じた。不思議な空間に、二人で迷い込んだ気分。
そして、もうすぐ圭太さんが、『遠く』へ行ってしまう。
せめて、「行ってらっしゃい」の一言でも言えればいいんだけど、まだ言えていない自分が、哀れで仕方ない。
それに、どうやら圭太さんは、私にしか『紅い手紙』のことを話していない様子。
周りのクラスメイトは、相変わらず圭太さんと一緒にはしゃいだり、駆け回っている。
それがまた、私の胸を余計に締め付け、苦しめる。
何故圭太さんが、私にしか言わなかったのか、それも気になるけど。
でも、それよりもっと大きな気持ちが、私の心にのしかかっている。
告白した翌日には、いつも通りの圭太さんがいて、いつも通りのクラスメイト。
私だけが取り残されたような気がして、授業中も上の空になってしまう。
いつも通りの、優しい圭太さんの笑顔ですら、今の私には憎たらしく感じてしまう。
「_____サチ、どうした?」
「え?
_____あぁ、うん。」
「お姉ちゃんがご飯の最中、ボーッとするなんて珍しいね。
いつもは私たちに、「早く食べなさい!」って急かすのに。」
私には、妹が四人いる。つまり私は、五人姉妹の長女。
だから、幼い頃から妹の世話も頑張っていた。
お父さんやお母さんは、仕事で忙しいから、末っ子をおんぶしながら、家の仕事を手伝った事も。
今はもう、皆がある程度大きくなったから、私も安心できるんだけど・・・・・
「サチ、もしかして、具合でも悪いのか?」
「ううん、違うの。
___ちょっと、仕事で疲れちゃったかな?」
誤魔化しはしたものの、心配性な両親や姉妹は、私を本気で心配してくれる。
せめて両親には、自分の気持ちを打ち明けたかった。
でも、それすらもできない自分に、最近はイライラするようになってしまった。
お父さんたちが心配するのも頷ける、私も、今の自分を見たくない。
いつも美味しいはずのご飯も、最近は、味わう心の余裕すらない。
明日は、どんな顔で圭太さんに会えばいいか。
明日こそ、お別れの言葉が言えるのか。
明日、ちゃんと学校に行けるのか。
そんな事を考えていると、ホカホカのご飯も冷めてしまう。お味噌汁も、もう生ぬるい。
私は冷えたご飯やお味噌汁を胃の中に流し込んで、自分の部屋へそそくさと戻る。
家族には、「小テストがある」と言っておけば、誰も部屋には入ってこない。
夏の生ぬるい空気は、廊下にも部屋にも充満している。
冬の隙間風も寒くて嫌だけど、夏の隙間風も気持ち悪くて嫌い。
生ぬるいのは空気だけではない、床や畳も、何だか妙にあったかいような気がする。
そして、妙なくらい柔らかい気さえする。
部屋に行き、寝転んだ私は、ぼんやりと光る電球の灯りを見つめる。
電球と同じで、私もぼんやりしている。宙に浮いているような、意識がユラユラしているような。
何故だか、圭太さんの顔を思い出すと、目が熱くなる。
私は、これからずっと先、圭太さんと一緒に、大人になれる。そう信じていた。
それがいつの間にか、「はい終了」と言わんばかりに終わってしまう。
誰にも責められない、『理不尽』のせいで。___いや、責める相手はいるのかもしれないけど。
ただ何もできず、自分の心に蓋をして、ずっと我慢してばかり。
そんな自分が嫌になるけど、「しょうがない」という言葉で流してしまう。
自分の家が貧しくても、暇さえあれば仕事をするような毎日でも、「しょうがない」で済ませる。
洋子さんに馬鹿にされても、自分のボロ家と洋子さんのお屋敷は違う、だから「しょうがない」
___でも何故かな。今回ばかりは、「しょうがない」では済まない。
そんな、たった一言で、この気持ちを抑えられない。
自分の気持ちは、今にも吹き出しそうになっている。
「圭太さんが、遠い、遠い場所
遠い、遠い、遠い
_______________遠い???」
私は、『何か大事な事』に気づいた。何なのかは分からない、でも、こうしていられない。
部屋を飛び出し、家を飛び出す私。そんな私を、両親は後ろで眺めていた。
妹たちは、後ろで何かを言っていたように聞こえたけど、今はそれどころじゃない。
私はとにかく走った、行くあてもないのに、とにかく何処かへ。
(やっぱりだ・・・やっぱり何かおかしい!!)
私がそう感じたのは、家の周り。信じられないくらい、『真っ暗』なのだ。
『他の家』も、『街灯』も、『自販機』も、全部真っ暗。まるで『停電』だ。
闇夜に紛れて、もう見えるのが家なのか街灯なのかも分からないくらい。
どんなに田舎でも、家から光が漏れている筈だし、街灯も自販機も灯っている筈。
なのに、どうして外が真っ暗なのか、どうして誰もとすれ違わないのか。
答えが出そうで、何故か出てこない。
その場の勢いで飛び出したせいで、足の裏が地面に擦れて、ジンジン痛む。
___いや、痛いのは足の裏だけじゃない。全身が徐々に痛み、徐々に重くなる。
まるで、『夢のような日々の真実』に辿り着こうとしている私を、拒んでいるように。
_____誰が?
_________いや、もう気づいている。真実に辿り着くのを拒んでいるのは、紛れもなく
私自身。
どうしてか、それはこの生活が、楽しくて楽しくて仕方なかったから。
手放したくなかったから、守りたかったから。
圭太さんと、色んな場所で遊ぶのも、洋子さんと、馬鹿みたいな言い合いをするのも。
ずっとずっと、私が望んで仕方なかった時間だった。
でも、そろそろ目を覚まさなくちゃ駄目。このまま夢の中に溶け込んでもいられない。
私には、『言いたい事』がある。
言いたくても言えなかった事、ずっと言いたかったのに、口がなかなか動かなかった。
でも、今なら言える気がする。『彼』に。_____いや、『彼ら』に。
私は息を切らしながら、必死に丘を駆け上がる。後ろを振り返る事なく。
後ろがどうなっているのか、気になるけど、振り返ってはいけない気がした。
とにかく早く、『会いたい人』 『伝えたい人』がいる。
早くしないと、私はこの闇にのまれてしまう。その前に、私にはやるべき事がある。
「_____っ、うぅ・・・・・
はぁ・・・・・はぁ・・・・・はぁ・・・・・」
丘のてっぺんへ登りきった時点で、私はその場でうずくまる。
すごく胸が痛い、喉が痛い、もう一歩も動けない。
精一杯の力を出し切って、走り切った、その気持ちは、妙に清々しかった。
でも、もう足は鉛のように動かない。体もすごく重くて、油断すると意識が飛びそうになる。
私の真横では、木々がユラユラと揺れている、風があるわけでもないのに。
それに、木々が擦れる音が、妙に大きく聞こえる。
幹や葉をすり抜ける風の音が、まるで『人の声』にも聞こえる。
そして、ついさっきまで生温かく感じていた地面が、徐々に熱くなっていく。
地面に手をついている感触も、ザラザラではなく、フワフワした触感になっている。
おかしいのは自分だけではない、この世界もだった。
そして、このおかしな世界を作り出してしまったのは、自分自身。
何故私は、こんな世界にいるのか、それは私にとって、この幸せな時間が『憧れ』だった。
『あの子たち』の話を聞いて、羨ましくて仕方なかった。
もう自分には過ごせない時間だからこそ、『夢』で実現させた。
それくらいでしか、私も体験できなかった。実現するには、もう私は衰えてしまったから。