お生憎様、お望みの悪役令嬢にはなってあげません。
「リズベット・ガーゲンテア!俺はお前との婚約を今ここで破棄する!」
その、高らかな宣言を聞いた瞬間、リズベットの頬はカッと紅潮した。
「理由をお伺いしても?……おそらく今あなたの隣にいらっしゃる方が原因なのは誰の目にも明らかかと思いますけれど」
そう、よく通る声で発せられた言葉は誰が聞いても凍てついたように冷たいものだった。
宣言をした側、つまり婚約破棄を公然と申し出た側の男はテセウシス・ノークラム=イゼディア。イゼディア王国で王族に連なる一族の一人である。現国王の弟の子供であり、王位継承権も下の方であるが持っているらしい。
そのテセウシスは、隣に美しい女性を侍らせて、なんとその腰を抱いた状態で、リズベットに公然と婚約破棄を宣言したわけである。
ちなみに、リズベットはガーゲンテア侯爵家の三女で、長女は現王太子の婚約者、次女はとある辺境伯家に嫁ぐことが決まっている。イゼディアでは王家に連なる一族が公爵を名乗り、功績を挙げて爵位を授けられた者たちが侯爵までを名乗るため、言ってみれば貴族の最高位にいる数少ない一族である。
普通ならば一侯爵家が王族相手に何人も婚約者を出すことはあり得ないが、ガーゲンテア侯爵家が女流家系であること、現国王の腹心の部下であること、あと国家転覆とかめんどくさいことは嫌いなこととか、諸々を鑑み三女リズベットがテセウシスと結婚してテセウシスがガーゲンテア侯爵家を継ぐことが決まった。あと、テセウシスがおバカなことも一つの要因だ。ノークラム公爵家はテセウシスしか後継がいないが、他でもないノークラム公爵が『こんなやつに爵位を渡したら大変なことになるから返上した方がマシ』とか言い出したため、体のいい厄介払いとして選ばれてしまったわけである。
政務などの実権はリズベットが握り、現ガーゲンテア侯爵が存命の間は締め上げて云々。別にリズベットだって貴族の娘なのだから政略結婚は仕方ないと思うけれど、こんなのはあんまりだ。だからリズベットはずっと願っていた。ああどうか、婚約が消し飛ばないかしら、と。
テセウシスは幼い時から頭が足りなかったので、リズベットはテセウシスとの婚約話が持ち上がった時一晩中大泣きをしてその後しばらく寝込むぐらい落ち込んだ。それにリズベットの母は婚約を決めた父に怒り狂い、父も父であまりのことに話をまとめてしまった後悔で髪の毛は白くなってしまうし、ノークラム公爵もまさか自分の息子がそこまで嫌われていることに多少ショックは受けつつも、まぁ仕方ないなぁと遠い目をするしかなかった。
だが、一旦まとまってしまったものを白紙にすることはできない。これは王の勅旨も出ているのである。だから、妥協策を設けたのだ。テセウシスが何かしらの問題を起こしリズベットの名誉が傷つけられるようなことがあったら即刻婚約破棄、かつノークラム公爵位は返上するのでテセウシスは爵位剥奪の上修道院で修行をする、と。
そんなわけで、リズベットは今非常に喜んでいた。嬉しさでほおが紅潮し、それを隠すために声色が凍てつく冷たさになるほど、喜びで満ち溢れていた。
しかしテセウシスの方は、そんなリズベットを婚約破棄に怒っていると思ったらしい。ニヤリと笑ったかと思いきや一歩前に進み出た。
「お前がこのイゾルテに数々の嫌がらせをしていたのはわかっている。正直に白状」
「そういうのは大丈夫ですわ」
「は?」
「そういうのは大丈夫だと申し上げました。まず婚約破棄の理由をおっしゃってくださる?」
「よかろう」
まず、テセウシスとイゾルテはどうやら運命の出会いを果たしたらしい。それに関してテセウシスは声高にまるで物語でも謳うかのように朗々と語っていたが、聞くに耐えなくて全て右から左へと流れていったので詳細は覚えていない。そして運命の出会いを果たした二人は障害となるリズベットの存在に嘆き、そんなリズベットがイゾルテに数々の嫌がらせをしたことにより今回の婚約破棄に至ったのだという。まぁ、リズベットとしてはその……嫌がらせ?とかなんとかいうやつは存じ上げないのだけれども。
「ひとつお伺いしたいのですけれど、私と婚約破棄をしてどうなさるんです?」
「お前が俺との婚約を破棄したくないのは」
「だからそういうのはいいと言ってるじゃありませんか。私と婚約破棄してどうなさるのかお伺いしても?」
「無論、ノークラム公爵家を継ぐに決まっているだろう。そもそも、お前が俺と婚約したいからとノークラム家が爵位を返上しなければならないなどおかしな話だ。だからこれは、自然な流れに戻ったと言えるだろう」
「なるほど、とてもお花畑な頭をしてらっしゃいますが、ノークラム公爵が一端を担ってらっしゃるのも否めませんわね」
何故爵位を返上するのか、それをテセウシスに伝えていなかったのか、どうねじ曲がればリズベットがテセウシスと婚約したいと駄々をこねたから爵位を返上することになった、ということになるのだろう。もしかしたらノークラム公爵はちゃんと説明をしたけれどテセウシスの頭の中でねじ曲がったのかもしれないけれど。……後者が濃厚な気がする。
「婚約破棄?構いませんわ。むしろ本当にありがとう。わたくしこんなことする方と結婚なんて出来ませんもの?今までだってゾッとし続けていたのに」
「そうか!ではイゾルテにやった嫌がらせの数々を」
「だから、そういうのはいいと何度言えばよろしいのですか?ああ……ごめんなさいね、私、嫌がらせなんてひとつもしていないのよ。むしろあなたとの婚約が私への最大の嫌がらせだったのですけど」
「なっ……」
「イゾルテ様とおっしゃいました?どこのどなたか存じ上げませんけれど、このバ……男を引き取ってくださって本当にありがとう。熨斗付けて差し上げますわ、お喜びになって!」
「リズベット!」
「あら、ノークラム公爵、ごきげんよう。とてもいい日ですわね」
「うちのバカが申し訳ない!」
「よろしいのです。むしろ本当にお礼を言いたいぐらいですわ。わたくし、政略結婚は仕方がないと思っていましたのよ。でも、やっぱり、こんなバカと結婚してガーゲンテア侯爵家を継ぐだなんて納得しかねる部分があるのは致し方ないでしょう?それが、ほら!婚約破棄ですって!お聞きになって?やっと解放されますの!お約束でしたものね!」
ノークラム公爵は頭を抱えていたが、リズベットの喜びは収まらなかった。むしろ言葉にしたことにより現実味が加わり、さらに頬を紅潮させている。
「ああ、約束だ。リズベットにバカを押し付ける話はなし。申し訳ない」
「構いませんわ!ああ本当に、長かった……わたくしまだ覚えています、初めてこのお話を聞いた日のこと!世界の終わりかと思ったことを!でも今……今こんなにも世界が美しく見えるだなんて!!」
「リズベット……」
ノークラム公爵がしんどそうな顔をしているが知ったことではない。リズベットはドレスの裾を翻しながらくるくると楽しそうに回っていた。
「では、私がリズベット嬢の婚約者候補に名乗りを上げても良いのだろうか」
少し高い、静かな声がリズベットの足を止めた。
「アークライト王子殿下?」
そこに居たのは、現国王の次男であるアークライトだった。アークライトは現在十四歳だが、その才覚は長男である王太子に勝るとも劣らないと評判である。
「ええ、と……わたくしの?婚約者候補に……?」
「ええそうです」
「その、わたくし、王子殿下より四つも歳上ですし、今の今婚約破棄されたばかりっていう外聞的にもちょっとな状況ですけれど……」
いくら政略結婚基本どんとこいな姿勢とはいえ、第二王子殿下の婚約者に収まるのはいかがなものかと思う。だって長女がすでに第一王子の婚約者なのである。ガーゲンテア侯爵家、さすがに力を持ちすぎる。
あと本当に、四歳も歳下の素敵な少年の未来を奪っていいものかという気持ちもあった。何がどうして立候補という言葉が出てきたのかリズベットは知らないが、十四歳で親に言われたわけでもなく将来を決めてしまうのは早計だ。リズベットと結婚するということは、ガーゲンテア侯爵家に婿入りするということなのだから。
「王子殿下、それはよしたほうがよろしゅうございますわきっと。何故わたくしの婚約者に名乗りをあげるというお言葉が出たのかは存じ上げませんが、王子殿下にも婚約者候補の年の同じ頃の御令嬢はいらっしゃいますでしょうし、お父上である国王陛下だってお許しにはならないでしょう」
「いや、父上にはすでに話をしている」
国王陛下に話していらっしゃるってどういうことでしょう?
「なんですって?」
しまった、本音と建前が逆になってしまった。こほん、と小さく可愛らしく咳払いをして、リズベットはにこりと笑う。
「国王陛下に話されてるのですか?」
「ああ。リズベット嬢が万一婚約破棄されることがあった場合、自分が婚約者に名乗りを上げることを許して欲しい、と」
「念のためお伺いいたしますけれど、国王陛下はなんと?」
「構わない、と」
「……何故?」
そんなことをアークライトに尋ねても仕方がないのだが、リズベットの口からはそれしか出てこなかった。
「リズベット嬢とテセウシスの婚約が、テセウシスに不始末などがあった際に即時破棄が認められると知った時、すぐに父上に話したんだ。もっと幼い頃からリズベット嬢を婚約者にと望んでいたが、父上はあまり本気にしてくれなくて、説得している間にテセウシスなんかに取られてしまった」
「お待ちください。もっと幼い頃から?何をおっしゃっているのですか……?」
「俺とリズベット嬢が初めて会ったのは、俺が六歳になる頃に開かれた王宮のガーデンパーティーの際だったと思う」
リズベットはその言葉に自分の記憶を紐解く。確かに、リズベットがアークライトに初めて会ったというか、初めて言葉を交わしたのはその時だったろう。リズベットはそれ以前にも勿論アークライトに会っているが、それは父に付き従って挨拶をしたりという形であり、言葉を交わしたことはなかった。
「その時に……何かありましたっけ?」
「いいや。私にとっては忘れ難い思い出だが、リズベット嬢からすれば取るに足らないことだろう」
十歳といえば、テセウシスとの婚約話が持ち上がるかどうかという頃のはずだ。少なくとも、リズベットはまだ知らなかった。
「あの日は父上も母上も、そして兄上もガーゲンテア侯爵らと話していて、私は少々退屈していてな」
それはそうだ。あの頃すでに長女は王太子の婚約者だったからパーティなどでは王太子妃と同等の扱いで参列していたし、ガーゲンテア侯爵夫人と王妃は仲が良いためよくお喋りに興じていた。国王とガーゲンテア侯爵はもっぱら難しい話をしていたはずだが……もしかしたらその時にノークラム公爵も交えて婚約の話をしていたのかもしれない。
ただ、そう言う場所でまだ幼い子供たちは大体暇を持て余すもので、かくいうリズベットもお友達と仲良さそうに話す次女の目を盗んでお菓子をたらふく食べていた記憶がある。お菓子をたらふく食べたことが次女にバレてしまうと、夕食が野菜のみになる可能性があるのでこそこそしていたことだけは覚えていた。
あの頃はいかにバレないようにお菓子を食べるかと言うことに考えを巡らせていた。まぁ、結局夕食をそんなに食べられないのでバレバレだったと今では思うけれども。
「そこで、父上たちの側を離れた私は、同年代の子供たちと話がしたかったんだが、あまり触れ合ったことがないから出来なかったんだ。それで、考えあぐねてぼんやり歩いているところに、リズベット嬢がいてな」
その時のことを思い返しているのか、アークライトは眩しそうに目を細めて微笑んだ。なんだか嫌な予感がするのはリズベットの気のせいだろうか。
「リズベット嬢は、物陰でまるでリスのようにお菓子を頬張っていた」
「お、お許しくださいそれ以上は……!」
すごく良い話みたいに話しているが、リズベットにとっては恥ずかしい過去以外の何物でもない。食い意地ばっかり張った子供みたいではないか。みたいというか、その通りではあるけれども、けれども。
アークライトは真っ赤になったリズベットを見て楽しそうに笑った。そしてそれ以上話を続けることはなかったけれど、そのなんだか慈愛のようなものに満ちた表情にリズベットはさらに恥ずかしくなる。
なんだか、表情の全てが愛していると言っているみたいではないか。四つも年下の男の子に、勘違いも甚だしいとは思う。ただ、なんというか、テセウシスの婚約者であったためにリズベットは今までそういった愛に満ちた表情は父母や姉らのものしか知らないのである。
アークライトは、そのリスの子供みたいだった幼い頃のリズベットに恋をしたのだ。
『どうなさったの?』
『いや……』
『殿下も召し上がられますか?』
ひょいと差し出されたのは、おそらく先程までリズベットの頬袋に収まっていたものと同じ菓子。
『わたくし、お姉様に見つからないようにしないといけないのですけれど、そうして食べるお菓子ってなんでこんなにも美味しいのでしょうね。殿下もお菓子が食べたくてこんなところにいらしたのでは?隠れて食べるのってはいとくの味がして良いものですものね!』
違う、と言えずに受け取ると、リズベットはにこにこ笑いながら何個目かのお菓子を口いっぱいに頬張った。そうして、目だけで殿下もどうぞと促す。そうして、こそこそと隠れながら食べたお菓子はそれまで食べたどれよりも美味しかったのだ。屈託なく笑いながら話しかけてくれるリズベットが眩しかった。それまでは、ガーゲンテア侯爵の三女というだけの認識だったのに、そこからリズベットを個として認識するようになったのである。
それから、アークライトはリズベットが参加しているパーティでは自然と物陰を目で追っていた。今日もリズベットが美味しそうにお菓子を食べていやしないかと探して、見つけたら必ずそばへ寄って一緒にお菓子を食べて笑い合った。父親である国王にリズベットをお嫁さんにしたいと言った時、国王はお前もそんなことを言うようになったのかと笑ったが取り合ってはくれなかった。
そしてある日からぱたっとリズベットが物陰に行かなくなってしまい、アークライトはあの宝物のような時間が無くなってしまったことを悲しく思った。だがそれ以上に、リズベットがテセウシスなどと婚約したと知った時の衝撃は、頭を鈍器で殴られたのかと思ったものだ。
ちなみに、リズベットがお菓子をそんなに食べなくなったのはテセウシスとの婚約が発覚してからである。よほどテセウシスとの婚約が嫌だったのだろう。
アークライトは、リズベットが望むならば仕方がないと思えただろうが、どう見てもリズベットが嬉しそうにしていないのに諦めることなどできなかった。リスのような頬も、背徳の味といって笑った顔も、内緒と悪戯っぽく笑った顔も、その全てが愛おしくてたまらなかったから、それら全てがなくなってしまったことに憤りしか覚えなかった。
だから何年もかけて父親を説き伏せ、ようやくリズベットとテセウシスの婚約の事情を聞き出し、破棄されるかもしれない可能性が残っていることを知り、であれば破棄されたらいの一番に自分が申し込むことを了承させたのである。
そんなことリズベットは知るよしもないが、やめてくれと言ってから話すのはやめてくれたと言ってもにこにこ笑いながら自分を見ているのがあまりにも恥ずかしくて、視線を彷徨わせることしかできなかった。周りの人々も、リズベットとアークライトの間に流れるやきもきとした空気感にどことなくほっこりとした笑みを浮かべていた。しかし、それが面白くない人間もここにはいるわけで、テセウシスは自分の存在がないもののように扱われていることにも憤慨してどんと足を踏み鳴らした。
「おいリズベット!お前アークライトと不義密通をしていたのか!?」
「えっ、あらいやだまだいらっしゃったのね。というか、不義密通?どの口がおっしゃっているの?大丈夫?」
リズベットはこの瞬間だけテセウシスに感謝した。恥ずかしかった気持ちがテセウシスの言葉で霧散していく。
しかしテセウシスとしては、あれほどアークライトに感情を揺り動かされていたリズベットが、自分に対しては侮蔑のようなもののみを浮かべているのが我慢ならなかった。本来であればリズベットはこの場で自分への未練を嘆き、イゾルテへの嫌がらせを認めるはずだったのである。
「父上!リズベットはイゾルテに嫌がらせをする上俺との婚約中に不義密通を行うような不貞の輩です!婚約破棄をさせていただきたい!」
「そんなに叫ばずとも婚約破棄だ。あとお前は即刻ノークラム公爵家を追放処分とし、しばらく修道院でそのどうしようもない頭を叩き直してもらってこい。叩き直せたなら騎士団などを斡旋してもいいが、そうでない場合はそこで一生を終えるのが世のためだと思って励むがいい」
「な、何を言うのですか!?」
「これは決定事項だ。私の再三の忠告を耳に入れなかったのは、一つは母親やその親戚連中がお前をそう育ててしまったからで、それを見逃してしまった私にも非がある。故にノークラム公爵位は私の代で返上だ。そもそも王家から分家しただけなのだから、元あった形に戻るだけだ」
「ちょっと待ってよ!」
それまで言葉を発していなかったイゾルテが、うわずった声で叫んだ。
まぁ、そうなるだろうね。
「公爵位を返上!?修道院に行く!?そんなの聞いてないわ!」
「そりゃあ聞いてらっしゃらないでしょうねぇ」
リズベットがちらりとノークラム公爵を見やると、公爵はやれやれと言うように顔を振っている。うん、これは多分ノークラム公爵はちゃんと話していたんだろう。
「テセウシスの中にはないお話みたいですし、ですので、まぁ、可哀想だとは思いますわよ?思いますけれど……ねぇ、イゾルテ嬢はわたくしに嫌がらせを受けたと虚偽の申告をなさったわけでしょう?それだって、立派な過ちですわよね」
「リズベット嬢の名誉を傷つけることになりかねないわけだしな」
アークライトの援護にリズベットは我意を得たりとばかりに大仰に頷く。
「ですからね、知らなかったから無罪放免というわけにはいきませんのよ。恨むのならこんな公然の場所で高らかと宣言したテセウシスのお馬鹿さんを恨んでくださいな」
「だって、自分が公爵になれば全部うまく行くって、遊んで暮らしてもいいって言うから……!」
「公爵が遊んで暮らせると思ったら大きな間違いですわ。身分が高いということは、それに伴う責任も大きいということですもの。そもそも、テセウシスが責任を負う立場に立ってその責任を真っ当に背負えると思ってらして?仮にテセウシスが公爵家を継いだとしても、ゆくゆくは傾いて潰れる道しか見えませんわ。なら、返上してしまった方が終わり方としては綺麗でしょうね?」
イゾルテは、リズベットの言葉にぼんやりと虚空を見つめて……恐らくテセウシスが公爵になった姿を想像しているのだろう。そして、きゅっと眉根に皺を寄せた。
かわいそうに、イゾルテだってある意味被害者だ。金に目が眩んだだけで、冷静になれば冷静に考えられるのだから。まぁ、冷静になるのに他人の手が必要な時点でだめだから、たとえ被害者だと小指の先ぐらいは思ったとしても、情状酌量の余地はないけれども。
イゾルテはそのまま未だ騒ぎ散らかしているテセウシスとリズベット、そしてアークライトをゆっくりと見回し、どさりと膝をついた。どうやらテセウシスよりは頭も回るらしい、この状況が最悪のものであるという結論に至ったようである。
イゾルテの家名を聞いたような聞いてないような、爵位のある家のお嬢様だったかしらとぼんやり考えていたリズベットは、先程より騒がしくなったテセウシスへの反応が一瞬遅れた。頽れたイゾルテの前にぼんやり立ち尽くすリズベットを見たテセウシスは、あろうことかリズベットがイゾルテを突き飛ばし怪我をさせたと喚きながらリズベットに突進してきたのである。もうここまで来たらいっそ清々しいほどの愚か者だが、反応が遅れたリズベットは眼前に迫り来る血走った顔でこちらに手を伸ばすテセウシスの様子を見て、初めて恐怖を覚えた。
一体何がここまでテセウシスを突き動かすのかわからない。何をどうしたらそんなに自分本位に考えることができるのかわからない。爵位を持つ家の跡取りとして産まれたのであれば責任が伴うというのに、その責任のせの字すら考えることすらなく生きていることが不思議でならない。その全てのわからないが、目の前の男に対する恐怖心を増大させた。目の前の男は、もうリズベットにとって人でない何かである。
「リズベット!!」
あら、アークライト殿下にもしかして今呼び捨てにされたのかしら、と思った次の瞬間、ぱぁん、とどこか乾いたような音がした。次いでどさりと重たいものが落ちるような音。そして、その空間に一瞬だけ音がなくなった。しかし次の瞬間、悪魔のような笑い声が響く。
ああ、これは、わたくしがきっとやり方を間違えてしまったのだわ。
リズベットは、キーンという耳鳴りがもやもやした中を駆け抜けていくのをぼんやり感じながら、笑いながらこちらを指差して何かを言っているテセウシスを見た。視界もいまいち定まらず、なにが起きたのかはよくわからない。だが、テセウシスを見上げる形になっているので、自分がきっと倒れているのであろうことだけはわかった。
アークライトはリズベットが殴られ床に倒れてすぐ駆け寄り何度も名前を呼んだが、リズベットに届いていない様子を確認して医者を呼んだ。血は出ていないが、酷い音がしたのだ。アークライトがテセウシスを睨みつけるが、テセウシスは醜い笑い声をあげながらリズベットを見ている。
テセウシスは、もうよくわからないものになっていた。自ら破棄しようとしたとはいえ婚約者に馬鹿にされ、父親に突き放され、第二王子殿下にも見下され、乗り換えようとした女にすら見放された。自分で招いた結果だが、もともと容量の少ない……容量を大きくすることができなかった頭なのである、自分の正義だけでその場に立っていた。
「即刻テセウシスを捕らえよ!!」
「なんだ、何を、何をする!?俺はあの女を、あの、イゾルテに怪我をさせた悪女を成敗しただけだ!捕らえられるのは俺ではなくあの女であるべきだ!!」
「ノークラム公爵、これはもう穏便に済ませることはできない。父上にも報告しなければならないだろう」
リズベットは、もう目を瞑ってぐったりしていた。ようやく駆けつけた医者とリズベットの侍女に後を託し、アークライトはノークラム公爵の前に立つ。ノークラム公爵は、テセウシスが引きずられていった方向を見ながら小さく、致し方ないことです、とだけ呟いた。
■
それから、リズベットはどうやら三日ほど眠り続けていたらしい。起きた時には全てが終わっていた。
テセウシスは斬首、ノークラム公爵夫人及びテセウシスの生育に関わった公爵夫人の親戚は諸共爵位剥奪の上流刑。ノークラム公爵は自ら爵位を放棄し、教会に奉仕することで一生罪を贖い続けることを誓ったとか。イゾルテはリズベットを陥れようとした罪により男爵位を持つ生家から追放となった。
「わたくしを殴り飛ばしたぐらいで斬首なんですの?それはあまりにも重すぎません?」
「お前に危害を加える前に、アークライト殿下を突き飛ばしている」
「あらまぁ……」
まぁ、それぐらいはやるだろうな、とリズベットはぼんやり思う。
今思い出しても、あの時のテセウシスの悪魔の如き表情は吐き気を催すほどの嫌悪感と指先が冷たくなるような恐怖心を連れてくる。なにがどうしてああなってしまったのかはわからないが、引き金を引いたのは間違いなくリズベットだろう。丁寧に弾を込めた銃を手渡してきたのはテセウシス本人なので謝るつもりもないけれど。
「それで……だな」
こほん、とベッドの脇に座っていた父親が咳払いをした。隣の母親は先程まで目覚めたリズベットに歓喜の涙をこぼしていたはずなのだが、どこかキラキラした瞳でリズベットを見つめている。
「アークライト王子殿下から正式に求婚状が届いた」
「…………はい?」
昨日の今日で?いや正式には三日ぐらい経っているとは言っても、こんなタイミングで?
「もちろん秘密裏にだが、なんと、恐らく殿下の直筆だ」
ぴら、と手渡された封筒は既に封が切られてはいたが、手触りのいい柔らかな素材でほのかに良い匂いがするような代物だった。なんというか、これ、もしかして香水なんかがふられているのでは。そしてその香水はアークライト殿下の私物だったりされるのでは?
末恐ろしい……と嗅いだことがあるような香りに鼻をくすぐられながら手紙を取り出すと、そこには流れるような美しい字で体調を心配する文言と、求婚の言葉が綴られていた。
曰く、幼い頃から妻にするのならリズベットがよかったこと、そのためであれば王位継承権など喜んで放棄してガーゲンテア侯爵家に婿入りすること。そしてこのようなタイミングで求婚することの非礼を詫びる文言は、あなたが再び誰かに取られてしまうことを恐れた子供じみた行動をどうか許して欲しい、と締められていた。
「これ……お読みになったんですか?」
「ああ」
「で、ですわよね……」
顔から火が出そうだった。愛している結婚してくれと手紙の全面が語っていた。
そりゃあ、父親はなんとも言えない顔をするだろうし、母親は目を輝かせるだろう。とりあえず色々なしがらみをとっぱらった状態で考えれば、これ以上ないほどの良縁である。
「とりあえず、見舞いに伺いたいと再三言われたのを丁重に断り続けていたらこれが届いてな」
ちなみに、と懐からもう一通の手紙を取り出す父親。今リズベットの手元にあるものよりも簡素なそれは、そうは言っても使われている紙は一級品である。
「これは国王からの手紙でな、要約するとリズベットの思うようにして良いとのことだ」
アークライトにいい返事をするのもしないのも、いつするのかということも、全てリズベットに任せる、ということらしい。
テセウシスの蛮行は公然と行われたため、テセウシスがどれほどひどい有様だったかということはまことしやかな噂として流れてしまったらしい。そしてそこにこっそりリズベットが今までどれほどテセウシスに悩まされたかということが付け加えられ、それが流布されていく間にテセウシスに婚約破棄を突きつけられたリズベットは、悲劇のヒロインのような扱いになっているのだとか。大喜びで婚約破棄を受け入れていたのはなかったことになっているらしい。まぁ、民の口の端に上る際、悲劇のヒロインが登場した方が物語として面白いというのはわかる。ちなみに、こっそりテセウシスからの屈辱に耐えてきたというエピソードを御涙頂戴の形式で付け加えたのは国王の手のものである。それぐらいは、口にされずともリズベットにもわかった。
「お父様はどう思われますの?」
「私にはとやかく言えることではないと思っている。テセウシスの件は私の落ち度も大きいし。ただ言えるとするならば、アークライト殿下は非常に良き当主となられるだろうな」
「でしょうねぇ……」
「お母様は賛成ですよ!死んでしまった者を悪く言うのは憚られますけど、あのバカに比べたら基本的にできた人間ばかりですけれど、その中でもアークライト殿下は破格のお相手ですからね」
憚られるとか言いながらバカと称しているのだから、この母にしてこの娘ありと言えるだろう。
「それに、女は好きな男と結ばれるより、全面的に愛してくれる男と結ばれた方が幸せになれるものです。あなたの全てを包み込んでくれるような」
「ですが殿下は歳下ですわよ……?」
「あら、そんなこと些細なことだわ。しかもたったの四つよ?少なくとも、あなたが最期を看取るのではなくあなたの最期を看取ってくれる可能性が高いわね。寡婦は大変ですもの」
うーん、物は言いようである。
「ではとりあえず……殿下が次にお見舞いの連絡をしてきてくださったら、良い返事をお願いいたします」
「わかった」
「あら、悩まないの?おそらく近日中に下さると思うわよ?あなたが目覚めたこと、きっとすぐ耳に入るでしょうし」
「アークライト殿下に悪い印象はありませんし、とりあえずは、ご友人という枠から始められればと思いますので……」
そう言ったリズベットの表情は、きっと母親にとって良いものだったのだろう。にこにこ笑う母親に体が熱くなるのを感じて俯く。
だって仕方がないじゃない。思い出してしまったんだもの、殴られた瞬間に見た真っ青な顔のアークライト殿下と、気を失う瞬間まで温かかったことと、手紙と同じ香りにひどく安心してしまったことを。
そうして数年後、ガーゲンテア侯爵位は公爵に位が上がることになる。使用人たちは口を揃えて旦那様は奥様のことが好きすぎてよく奥様に怒られていらっしゃるんですよ、と語る。
そして、顔を真っ赤にしてお願いですからやめてくださいと叫ぶ夫人をにこにこ笑いながら見つめている公爵が、邸宅の名物として誕生するのだった。
書いてみたかったんだな、悪役令嬢もの。
悪役令嬢と言っていいのかはわからないが、すでに星の数ほど悪役令嬢がいるんだ、こんな悪役令嬢(仮)がいてもいいじゃないか。