絵画の少女に魅入られた男の話
周囲の人間が受験一色になり、必死に参考書や問題集を捲っては何かを書き、捲っては何かを書いている空間で1人窓の外を眺め退屈を持て余していた高校3年の夏。
受験、就職、会社など世間が当たり前に目指す場所に向けて必死で睡眠時間を削り勉強の予定を立て塾に通い詰めて空き時間が出来れば単語帳を開く、そんな生活を送る同級生達を冷めた目で見ていた。
ある日ふと近所の商店街の本屋の軒先で目に止まった文芸誌をぱらぱらと流し読みし、何だこれくらいなら自分にも書けると気まぐれに原稿用紙に文字を書き連ねてポストに投函した。元々国語の成績も良く文才もあったため稀代の新人と持て囃されテレビや雑誌で特集を組まれたのは自然な流れだっただろう。
就職しなくても家には資産があったし両親は自分を甘やかした。
執筆活動に専念出来るようにと親が買い与えた離れに住処を移し、黙々と原稿用紙に文字を並べていく作業を続けて早5年が経った。
作家として家で1人、じっと原稿と対峙しているとたまに起きる事がある。
書きかけの原稿用紙と睨めっこをしてから3時間が経つがどうも適切な言葉が見付からず、手にした万年筆を転がす。原稿用紙の上で転がったこの筆記用具は青年の誕生日に特注で作ったのだと両親から贈られて以来、引き出しの中で随分と日の目を見ることのなかった物だが今は割とよく使っている。しかし特別な物だという意識はほぼ無いに等しく別に執着もない、青年にとってはただの文字を書き連ねるための数ある道具のうちの一つとして存在していた。
ああ、面倒だな。
ふらりと椅子から立ち上がり唯一と言っていい連絡手段である携帯電話も持たず外に出た。いつもは通らない道、なるべく細く入り組み、人に会わない道を歩きながら小説の展開の行方について思案する。
主人公の男が愛する女に囁く愛の言葉。
学校生活の中で恋だの愛だのといったものに憧れ、勝手に期待しその感情をこちらに押し付けてくる女達の、少し高めの鼻にかかるような声が耳障りで仕方なかった。
今までは推理小説やサイコホラーを多く書いていたが恋愛小説を書くのは今回が初めてだ。まあそれもさらに大きな話題を期待しごまをする編集の男の希望を特に断る理由も無いから聞き入れてやっただけなのだが。
とにかく、学生時代は不本意ながら不特定多数の顔と名前も一致しない女達から恋愛の対象とされていた訳だが自身は全く恋愛になど興味が無かったのである。その感情がどういったものかも知らない。知らないのによく書き始めたものだ。おかげで腹ただしいことに小説家デビュー以来初めてのスランプに、いつもはいとも簡単に物語を生産する手を止められているのである。
苛苛する。
ちっ、と舌打ちをしてがりがりと荒く髪を掻き上げながら用水路の横の小道をずんずんと歩く。ちらりと横を見ると油が浮いて汚く濁った水に骨の折れた傘やら死んだ鯉やらが浮かんでいた。
ああ気分が悪い。吐き気がする。
眉間の皺を濃くした男の舌打ちが閑散とした住宅街で響いた。
用水路を抜けると通りに出た。昼間なのに錆びれたシャッターが閉まったままの美容室にカウンターが無人の個人営業の酒屋。ちらほらと灰色の車が通るアスファルトの歩道をあてもなく歩いていると曲がり角の先を確認した時に骨董品屋が見えた。
元は工場だったと思われる造りの建物で出入口付近に壺やら皿やらがごちゃごちゃと並んでいる。どうやら営業しているらしく薄汚れた赤の上りが立っている。無視して進もうとしたが少し歩いたところでどうせ暇だと踵を返し冷やかしに入店した。
「いらっしゃい」
何処にいるのかも分からない店主の声が聞こえ、男は一瞬身構えたがそれきり店主が何か言ってくることは無かった。ならば勝手にさせて頂こう。つんとするカビの臭いと敷物の上に乱雑に置かれた古書のインクの匂いが充満する列を息を浅くして通り過ぎ、少なくとも昭和以前のものに見えるよく言えばレトロ、悪く言えば古ぼけた照明器具や出処不明の置物などが所狭しと並んでいるのを避けて奥へ進む。
ずんずんと進んでいると床が赤や黄色などに光る場所へ出た。見ると天窓から差し込んだ光をステンドグラスのパーテーションが透かし、チューリップや薔薇、幾何学模様の影を作っている。
なかなかいい味を出している。大中小、関係なく重ねて立てかけられたグラスを撫でると制作時の時代の名残か厚みに微かにムラがあり揺らめいたような影が出来ていた。試しにと小さめの薔薇の窓枠を持ち上げ天窓に向けて掲げ振り返ると美しい薔薇の模様が映し出される。
なるほど、これはいい。状態のいいものを見比べ透かし、比較的新しめの紫のチューリップの模様の窓枠を小脇に抱えてまた店内を徘徊する。
店の一番奥まで行くと絵画が飾られていた。その多くは風景画だがところどころ人物画も入り交じり、月や草花と共にそこに有った。親から与えられた離れだが執筆に必要な物以外が何も置かれていない書斎を思い出し、じっくり吟味しようと持っていた窓枠を傍らに置く。と、ステンドグラスが透かした光が1枚の絵に影を落とした。
ステンドグラスの柔い光を浴びてひっそりと佇む、美しい娘の絵画。
アイビーの蔦を体に纏わせた彼女はこちらを向いて微かに微笑んでいた。
おもむろに手を伸ばし自分と目線を合わせるようにして持ち上げると、影を落とすほどの長い睫毛に縁取られた黒く大きな瞳と目が合い、一瞬この世界から酸素が消えたような錯覚に陥る。
背中まである濡れ羽色の豊かな髪。白のアンティーク調のブラウスから覗く白く滑らかな手には黒い薔薇が握られている。彼女の陶器のような白い肌にただ一点のみ存在する鮮やかな赤い唇が彼女の年齢には似つかわしくないほどに艶めかしく写った。
まるで生きているようだ。
執着にも似た強い感情を元に描かれたものだろう、髪1本の先に至るまで緻密に、何も間違いのないように描かれたそれはまるで少女の生き写しのようだった。
絵の裏を確認すると消えかけの文字で“My beloved Mary”と書かれていた。
「マリー…」
この娘の名だ。再度裏返し娘の顔を見ながらマリー、マリーと口の中で繰り返し、身体の血液が体内を熱く循環しているのを感じた。
窓枠と絵を抱えて出入り口へ行くとがらくたに埋もれ、暇そうに新聞を読む店主の姿が目に入る。ちらりとこちらを確認した店主は愛想の欠けらも無い態度で新聞を隣の木箱の上に置くとぶっきらぼうに手を伸ばした。ごつごつとした、たこの多い手に娘の絵と窓枠を渡した瞬間、店主はあからさまに娘の絵を見て顔を顰め、ちらりとこちらに目をやった。しかしその態度が気に入らず容赦なく睨みつけるとすぐさま視線を元に戻し代金を口にした。
「ご自宅まで配送しましょうか」
「必要ない。このまま持ち帰る」
「…まいど」
梱包は意外に丁寧であった。一般的な成人男性が普通に持てば地面に引き摺りそうな大きさの紙袋を手に男は店を出る。骨董品店など初めて入ったが中々に面白い物を手に入れた。今は包装されて見ることの出来ない絵画を紙袋の隙間から覗き、元来た道を戻ろうとして酷い臭いのする用水路を思い出してやめる。男は大通りの方角へ足先を向けると微かに鼻歌を歌いながら雑多な人波に飲まれていった。
自宅へ着くと使用人が玄関先を掃除していた。と、顔を上げて誰かを探すような素振りを見せる。
「朔様」箒を握り締めた使用人は驚いたようにこちらに駆け寄って来た。
「何処へ行かれていたのですか、誰にも伝えず急に何処にも居られなくなったので私共は心配したのですよ」
「少し風に当たっていただけだ」
心配、などと言いながら全く表情の変わることのない人形のような顔を横目に部屋に戻ろうと通り過ぎる。とっとと部屋に帰ってこの娘をこの窮屈な袋の中から出してやらねば。
上機嫌で玄関の扉に手を掛けようとした瞬間、「その紙袋は」と手を伸ばされる気配がして反射的に振り返り、伸ばされた手を払い落とした。
「触るな」
有り得ない。どうしておまえみたいな使用人風情がこの娘に触れようなどと。浅はかな考えにも程がある。
男の普段から鋭い目付きがさらに険しくなったことに恐れを生したのか使用人は顔を青ざめさせると箒を両手で握り締め「申し訳ございません」とすくみ上がり後退した。抵抗する気も無いようでそれ以上の言葉も続かなかった。
ああ、気分が悪い。
男は扉を開けると冷蔵庫からペットボトルの水を取り出しごくごくと一気に飲み干しゴミ箱に投げ捨てると、怯えた様に主人の帰りを労う言葉を掛ける使用人に一瞥もくれずに自分の書斎へと戻って行った。
「ああ、やっと2人きりになれた」
ドアを閉めてすぐさまその場に座り込むと紙袋から取り出し傷が付かないよう何重にも梱包されているのをばりばりと破り、絵画を手にする。
ああ、やはり何度見ても美しい。頬を指で撫で、自然と自分の口角が上がっていくのを感じる。
男は机の引き出しから画鋲を取り出すと部屋全体を見回して家具の位置関係を確認し、いつも執筆している机の上に登り、勢い良く壁に突き刺した。外れないよう固定してそこ娘の絵画を飾る。素晴らしい。思わず感嘆のため息が漏れてしまった。ぼうっとその場で立ち尽くしているとコンコン、とノックの音が聞こえて振り向く。
「入れ」
「失礼致します、朔様…はっ!?な、なんてお行儀の悪い…即刻お降り下さい!旦那様が見られたらなんと仰るか…」
「何も言わないだろう。それより用件を言え」
「は、夕飯は何に致しましょうかと、料理人が…」
「適当でいい。執筆の邪魔にならないものを作らせろ」
そういえば料理人は今日から新しく来た者だった。思えば帰宅して水を取りに行った時に何やら見知らぬ顔の人間が帰りの言葉を述べていた。
「かしこまりました」床にばら蒔いていた緩衝材の破片を拾い集め、使用人が部屋を出て行く。
「ああ待て」机から飛び降り、床に放置していた紙袋を呆けた顔の使用人に投げて寄越す。
「後で南の窓に取り付けておけ」
紙袋から窓枠を取り出し、「こちらはどこで」と言う使用人。そろそろ五月蝿い。返事ははいだけで済むものを。
こちらは長々とお喋りを楽しむ気はさらさらないのだ。
「朔様がわざわざ買いに出向かれたのですか、言ってくだされば私共が買い付けに参りましたのに」
「気晴らしに行った先で見つけただけだ」
「でも…」
「俺に干渉するな。身の程を弁えろ」
ぐっとたじろいだ足が部屋から1歩出る。恐怖に歪んだ顔が俯き「申し訳、ございませんでした」と尻すぼみになった声が部屋から消えた。
静かな音を立てて閉じたドアから視線を外し、ふんと鼻を鳴らす。そして男はまた娘に目を向けるとふわりと表情を崩した。
「邪魔が入ったよ。酷いだろう、あいつらは。俺の事なんかさっぱり考えていないんだ」
真に主人のことを考えるのなら必要以上に主人に干渉はせず言われた仕事をこなせばいいだけである。たったそれだけのことが何故分からないのか、理解に苦しむ。
「ああ、君の事を見ていると恋という不可解な感情も理解出来るような気がしてくる」
これはきっと恋だ。
男は机の上の原稿用紙に向かい、万年筆を走らせた。ああ思った通りだ。恋という感情が理解出来た今、自分はこんなにも執筆への情熱に駆られている。
抑えきれない程に自分の中にごうごうと渦巻く感情をそのままにガリガリと自分の中から溢れた文字を当てはめていると気付けばものの数分で縦に並んだマス目を埋め尽くしてしまった。
「君は俺に会うためにあそこに居たんだ。そうだろう?」
絵の中の少女は微笑む。赤い唇を三日月のようにして。
男の家に一枚の絵がやって来てから、男の生活は変わってしまった。
朝起きて絵の中の少女に愛を囁き、執筆の途中に絵をぼうっと見つめていることが多くなった。
娘の絵を飾る額縁は日に日に豪華なものへと変わり、そして決して他の者が少女の絵を見るのを許さなかった。
使用人達は口々に噂した。
「朔様は絵の中の娘に恋をしている」
「異常だ、とても嘆かわしい」
男の耳には届かない。
男はただ絵の中に佇み微笑む娘に恋焦がれ、愛の言葉を吐き連ねてはうっそりと笑って少女を見つめていた。
少女が腕に纏っていたアイビーの蔦は少女の全身を覆うようになっていた。
ある日、男は死んだ。
男が威圧し恐怖を与えていた使用人の犯行だった。
男は最期の時、揺らめく炎で舞い上がる原稿用紙を踏みつけ少女の絵を胸に抱いていた。
少女の服の先からじりじりと燃え、灰が炎に飛び入る。
めらめらと地獄の業火のように揺れる赤い炎に照らされて微笑む娘は恐ろしい程に美しかった。
「ああ、燃える炎の中で微笑む君も綺麗だ」
男はそう言って笑うと少女の絵と共にその身を焼かれた。
ベストセラー作家が焼死したという世間を大いに騒がせた大火災の後消火活動が終わり、焼き炭となった小説家の住居からは作家の男本人と思われる遺体が発見された。遺体は性別も分からないほど真っ黒に焼け焦げ、一部は炭となって崩れていた。
遺体は何かを抱き締めるような腕の形をしていたが、彼が最期に抱いていたそれが何だったかは未だ分かっていない。
ただ、遺体を埋葬した後、小説家の男の墓からアイビーが生えてきた。どこから種が飛んで来たのかも分からないその蔦はぐんぐん成長し、巻き付き、今では男の名も読めない程に墓を覆い尽くしているという。
アイビーの花言葉:死んでも離さない