97, 姉様は「リザーブ」と「パンプ」の関係を批判していますが、それは「部分準備」とその上にある「デリバティブ」と同相なのです。そして、デリバティブを効率的に維持する方法はないのです。
「あっ……。フィーさん……。」
フィーさんがゆっくりと戸を開け、じっと俺をみつめてきました。その様子から、扉の向こう側で立ち聞きしていたのは間違いなさそうです。シィーさんはとっさに目をそらし、そのままうつむいて目を合わせないようにしています。つまりそれって……。
「フィーさん……。これは、その……、ネゲートに頼まれたんだ。」
「そうなのですか? その割には深刻な内容だったのですよ。」
「……。」
やっぱり深刻な内容……だったのね。成り行きでシィーさんより押し付けられたネゲートの演算の件を、考える余地もなく約束させられた愚かな俺です。
「あの……。隣、いいですか?」
「えっ? ああ、いいよ。」
フィーさんが俺の隣に着席すると同時に、シィーさんがバツが悪そうに立ち上がりました。
「ちょっとね……。急用を思い出したの。」
「姉様。わたしは消滅を覚悟の上で、姉様に折り入って話があるのです。」
「えっ?」
消滅を覚悟って……。ちょっと待ってよ……。
「フィーさん、そんなに深刻な状況? まず、落ち着いて。単に、『時代を創る大精霊』としてのシィーさんから、仮想短冊の通貨を早急に何とかしてとお願いされただけの話だよ。俺が担い手として、ネゲートに『女神の演算』を頼めば良いらしい。たしかにさ、あの内容では俺だって厳しいと感じるよ。」
恐る恐るフィーさんに確認します。そしたら、想像を超える衝撃が来ました。
「……。それを承諾したのですか?」
「えっ? いや……、承諾というか、約束、というか……。そもそも俺……その演算で何が起きるのか、それすらよくわかっていません。」
「それなら考え直すのです。今すぐここで考え直すのです。よいですか、それだけは避けるのですよ。これは『時の大精霊』として、進言しているのです。」
「えっ……。」
フィーさんから唐突に飛び出た反論と、その慌てぶりから俺は何も言い返せないまま、しばらくして……。シィーさんがその重い口を開きました。
「フィー……。すでに、決まった話をひっくり返そうとしないで。」
「姉様。何が決まった話なのですか。無理矢理、約束させたのですよ?」
「フィー、落ち着いて。あんなイカサマな揺らぐ仮想短冊で人や精霊を騙し続け、『パンプ』で市場を荒らし、実現の見通しが立たない『非中央』で二度も騙し、その管理は闇の中で支離滅裂。何もかもを吹っ飛ばして奪ったまま、洗い続け、数の叡智を都合よく利用して逃げ回り、人を動かし血まで流した仮想短冊の通貨への制裁について、なにゆえ異議を唱えるのかしら! こんな酷いの……、『時代を創る大精霊』としてその制裁を署名しても良いくらいだわ。でも、それは女神の領域。だから、その担い手に強力な制裁をお願いした。ただ、それだけよ。当然よね? この地にどれだけの被害を生み出したのか、わかっているのかしら?」
つまり、シィーさんは俺に仮想短冊の通貨への強力な制裁をお願いしたことになるね。これって俺の一存で決めてしまって良いのでしょうか。でもさ、自由奔放な女神ネゲートが俺の指示なんかに従うわけがないよ。そのあたりは考慮すらしていないのかな。それとも、その余裕すらないとか……?
「姉様。それなら……、姉様の通貨を『観察』してみるのです。」
「……、フィー、どうしたのよ……。」
「まず、姉様に宿るの圧倒的な風の力です。その力をゲームの駒に例えるのなら、はじめから縦横斜めに自由自在に動けて、さらには途中に散らばる駒たちを飛び越えることすら可能なのです。それはこの地の強制力に相当し、その強制力を補填し背後で戦術的に利用されるのが、姉様の通貨なのですよ。」
つまり、力は正義か。そして……大精霊の正義だったかな。その力を補填するのが……シィーさんの通貨なのか?
「たしかにそうね。だから強くて当たり前なの。それが『時代を創る大精霊』としての責務よ。」
「姉様。そのためには姉様の通貨を強く維持する必要があるのです。それにはインフレを抑える必要があるのですよ。ところで、インフレを抑える基本は必要性を高めながらその供給量を限定することにあるのです。ところがその供給量に制限がない場合、『きずな』の利率を上げることに手を出す必要が生じます。そしてそこに、矛盾しあってどちらも成立させることができない論理が生じるのです。それを女神ネゲートは『ノルムが壊れた』と表現しているのですよ。そして、その壊れた『ノルム』を『大過去』からみてみましょう。それは不連続で砕くことなど叶わず、もはや方向と大きさは測ることすら許されず不透明さを日々増していく。それは神のみぞ知る? いいえ。ノルムを壊すということは、神でさえどうなるのかわからない。それが正解なのです。今、そんな感じなのですよ。」
それで……、シィーさんは「きずな」でも困っていたのね。「きずな」の利率を上げてインフレを抑えれば、人々からカネを預かって運用していた精霊らが悲鳴を上げ始める。すると、物を買える人々が減り、支出よりも貯蓄に回す人が急増し、その結果、カネが回らなくなる、と。
あと……。インフレで大精霊の通貨がダメなら、どっかの手堅い銘柄に変えておけば良い。この逃げ道すらダメだったはず。なぜなら、銘柄の値上がり率よりも、インフレで通貨が価値を失う速度の方が上だからだ。期待よりも不安の方が大きいのね。
「ねぇ、フィー……。その供給量の限定とやらと、仮想短冊の通貨を絡めたいのかしら? あいつらは、その点を大いに強調していたわ。どんなにもがいてもね、大精霊の信用……『指数』には勝てないのよ。所詮は『べき』の寄せ集め……それが仮想短冊の通貨よ。前にも話したでしょう。」
「姉様。それは……おごりなのですよ。チェーン管理精霊たちはみな、日頃からこうつぶやいているのです。あの『不換』な通貨はどこにむかうのだろうか、なのです。」
不換な通貨。フィーさんに何度も説明され印象深く残っています。スワップ可能な価値のある現物に頼らずに、大精霊の信用をベースとして無制限にばらまく、だったかな。
それにしても……。フィーさん、大変ご立腹なのか。シィーさんに対する態度が明らかに違います。なぜなら、フィーさんがほのめかす不換な通貨って、そうだよ、シィーさんの……。
「フィー、どうしちゃったのよ? そうよ、あいつらにメインストリームのチェーン管理精霊を押し付けられた後遺症よね? そうだった……。私が信頼を寄せていた精霊の一部が仮想短冊の件で私に噛み付いてきたのよ。『こんな方法による締め出しは自由を標榜とする我らの恥』だってね……。でもね、今のフィーをみて堅く決心したわ。もうね……、仮想短冊の通貨だけは絶対に許さないから。あいつらは私のかわいいフィーさえ奪うのかしら? 覚悟しなさいよ……。あいつら!」
不換の通貨という言葉に触発されたのでしょうか。シィーさんが怒りをあらわにしています。……。
「姉様。わたしは至って正常なのです。」
「……。まだ私の通貨を観察する気、かしら? フィー?」
「はい、なのです。」
「そう……。」
なんか、止めた方が良さそう。フィーさんは消滅を覚悟で話をしている以上、その内容は真実だろう。ところが、真実が良い結果を招くとは限らないからだ。消滅? シィーさん……、まさかそんなことはしないだろう。楽観的でしたが、でも、止めないとまずい。
「ここで、姉様の通貨を大精霊の正義の背後で戦術的に利用するには『ポジショニング』と『レバレッジ』にわけて考える必要があるのです。ポジショニングは『時代を創る大精霊』としての覇権を維持するため、レバレッジは他地域の大精霊の通貨を暴落または減価させるために利用するのですよ。」
えっ? レバレッジって……。
「フィーさん、レバレッジによる暴落または減価……って。それって、よく『フルレバ』とかでよく使われる、あの意味だよね? 俺みたいな者が儲けるためにあるのではないのか?」
「……。それは違うのです。そのためにレバレッジなんてさせないのですよ。それゆえに相場を張るのは構いませんが、レバレッジだけはやめてもらいたいのですよ。」
「そうだよね……。一時的に膨れても最後は散る、だよね?」
「あの……。」
「フィーさん、気が滅入る話になってきた。そろそろ、今日はこのあたりで……ね?」
俺の境遇を絡めてフィーさんを止めてはみたのですが……。
「いいえ、なのです。今日だけは引けないのです。」
「……。」
だめか。他の手段を考えよう。とにかく、止めないと……。
「フィー。暴落や減価なんて物騒な話、仮想短冊の通貨の話よね? あいつらなら平気な顔で、それ位は何の迷いもなく実行するわ。だからこそ、女神の演算による強力な制裁が必要なの。お願いだから、わかって!」
「姉様。これは姉様の通貨にだけ可能な話なのですよ。そのレバレッジの効果により、姉様の通貨の価値を高めると同時に、他地域の大精霊の価値と流動性を奪い、それゆえに交易に影響が出始めるのです。すると、否応なしに姉様の通貨を他地域の大精霊が交易に利用しざるを得なくなり、姉様の通貨の流動性を増加させ、さらに強くする循環につながるのです。」
「フィーさん……。なんかそれってさ……。」
「はい、なのです。そこで、このような一方的なやり方に異議を唱えた『地の大精霊たち』が手を取り合って始めた『地の通貨バスケット』という仕組みがあるのです。これは、手を組んだ地の大精霊の各通貨を交易量に応じたウエイトの平均に準じてバスケットに組み込んでいき、大きな変動に耐えられるようにした新たな通貨となったのですよ。」
「地の大精霊か……。ラムダは参加しているのかな。」
「はい、なのです。この地で最大の地の力を持つのはラムダ、なのですから。」
いわゆる対抗措置だよね。それでさ……。シィーさんの様子が……。ああ……。
「何が……地の通貨バスケットよ。ラムダやゼータが誇らしげに語っていたわ。ところが、ウエイト周辺が不透明で、所詮はその程度の信用しかないの。私が管理している優れたバスケットと同じ扱いにしないでいただきたいわ。それでも、一応は機能しているらしいわね?」
「姉様。一応……ではないのですよ。『この地の主要な大精霊』が、人を動かし始めた事を理由に地の大精霊ラムダを締め出したあのとき、『地の通貨バスケット』が……まるで仮想短冊の通貨のようなふるまいをしたのです。その働きはまるで、女神ネゲートが提唱している『大精霊の信用が加わった仮想短冊の通貨』のシミュレーション……そのように表現した精霊もいたのですよ。」
「そんな話はやめなさい、フィー。ラムダは仮想短冊の通貨の魔力に溺れただけ。地のチェーンのチェーン管理精霊にそそのかされ、いまだに『聖なる一つの地』という幻覚が頭から離れない昔ながらの精霊に騙され、事を深く考えずにチェーンの利用目的を決める戦いに勝てると信じ込んで、あってはならないこと……人を動かしてしまったのよ。ただ、それだけ。そこに論理などないわ。女神の演算による仮想短冊の通貨への強力な制裁、早くしてもらいたいわ!」
「……。それは否定しないのです。それでも……もし、姉様の通貨の信用が大きく低下した場合、どのように対処されるおつもりなのですか?」
「フィー。あり得ないことは考える必要がないの。『円環』は私にとても協力的だし、『この地の主要な大精霊』が一丸となって私に協力し、買い支えてくれるのよ。」
「姉様。そこに……民はいないのですか?」
「民……?」
「そんな表面的な都合では、民は良い方向には解釈しないのです。姉様の通貨に不安を覚えれば、その価値を維持できる他の通貨を探すことでしょう。さらに、指数的に価値を高めるボラティリティを探し求めてさまようのですよ。姉様の精霊の手元にインフレを起こした通貨を置いたまま、価値が下がっていくのをただ眺めるだけの民はいないのです。」
それは当然です、フィーさん……。弱小な俺でさえ、探すぞ。そうなったら、すぐにでも。
「それで……。『他の通貨』とは、いったい何を指すのかしら? フィー? まさかね? 『パンプ』ばかりだったあんなもの、不確実性のみが残るとんでもない通貨よ? しかも女神の制裁待ち。無理よ?」
「姉様はいつも『リザーブ』や『パンプ』を否定します。もちろん、奪い放題洗い放題だった点は論外で、それらは確実に収束させる必要があるのです。」
「そうよ。やっと私のかわいいフィーになってきたわ。では、女神にお願いしましょう!」
「そのときわたしはいつも考えるのです。『部分準備』の上にある『デリバティブ』と、何が違うのか、なのです。」
「フィー……。『デリバティブ』は多くの精霊や大精霊も参加する健全な派生的市場よ。まさか、それと『パンプ』を比較しているのかしら?」
「はい、なのです。」
「やめて。もう、そんな戯言は聞きたくないわ。」
「そうなのですか? それなら……。『レーティング』を悪用して一方的に価値を奪い取ったことは一度もないと……『創造神』に誓えるのですか? 姉様。そして、こんな『デリバティブ』を効率的に維持する方法はないのです。つまり、どこかでリセットされる運命なのですよ。わたしは『時の大精霊』です。『時』に対して時間的価値を付与して市場に置いた点が、時間の概念がない『大過去』の論理に矛盾するのですよ。『デリバティブ』はもはや、『大過去』からはみえない存在。つまり、みえない存在を売買しているという、究極的に恐ろしい状況を招いているとも捉えることができるのです。」
……。それ、絶対に……。誓えるわけがない。ああ……、どうなるんだろう。しかもリセットって……。俺は一抹の不安を覚えながら見守るしかできなかった。